杏子「あたしの恋はベリーハード」【後編】
- カテゴリ:魔法少女まどか☆マギカ
- コメント : 0
- 449: 2011/07/11(月) 20:03:48.28 ID:TRdx1Xl5o
- ――どういう事だオイ、ドキドキし過ぎて体が動かねえじゃねえか!!
気がついたら杏子は手を繋いだまま、固まってしまっていた。
彼女の精神と肉体とを留めているのは、あの違和感であり、手を繋いだ時感じた後悔でもあった。
そのままさやかに最接近をかけても、あの手を繋いだ時の彼女のこわばりが拒絶してくる気もするし、
このまま離れてしまったら、自分を怖がったさやかがどこか知らないところに逃げて行ってしまい、二度と近づけない気もしてくる。
結局杏子は手を繋いでいるだけという、いわば子供の距離に己を留め、猛烈な違和感に囲まれながら、
しかし昂ぶる心に、今自分がさやかを独占していると言う満足感を配色した幸福にそれらすべてを溶かし込み、
このままでいいのかも知れない、幸せだし――と、動けない自分を肯定し始める次第であった。
杏子のヘタレが萌芽を見た瞬間である。
そしてそのヘタレは、さやかに対する彼女の行動方針を決定する際、必ず意見し、
二人の関係が動き出そうとするとき、それを平行線に留める緩衝剤の役割を果たすのであった。
- 457: 2011/07/12(火) 19:33:45.93 ID:XhQxPMf9o
- それから一週間して、さやかも仕事の基本をひと通り覚え、杏子の妹もりんご園に帰っていった。
仕事中は、業務というただ一点においてそれぞれの行動を決定すればよかった二人であったが、
家に帰った後は、相変わらず二人とも相手との距離をどのくらいに設定したらいいのか全く分からず、
そんな日常の積み重ねが二人の関係を更にぎこちないものにさせていった。
「――社長、本日のスケジュールは以上です。 よろしいですか?」
「…あのなあ、よろしいですかじゃねえっての!」
さやかには、杏子の求めている事が分かっていた。
だけど、にこやかに笑って、素知らぬ顔で、それをかわしている。
「ふたりきりの時は、杏子って呼んでくれって、言ったじゃねえかよ、さやか!!」
さやかはそれを聞いて、フフッと笑い、
「すみませんでした、社長」
と、冷たく返すのが半ば日課のようなものとなっていた。 - 458: 2011/07/12(火) 19:34:40.89 ID:XhQxPMf9o
- さやかは仕事中、杏子を「社長」と、役職名で呼ぶことにしていた。
そうでないと杏子が仕事中にもかかわらずさやかにデレ過ぎ、堕落してしまう事がなんとなく分かり始めたからである。
杏子は、いつでもさやかに甘えたがる。 自分の距離に、さやかを置きたがるのだ。
しかし結局、杏子のヘタレた性格により、その距離というのは友達以上にはどうしてもならない。 中途半端なままである。
さやかは杏子を役職名で呼ぶことによって、仕事中という事を暗に知らしめ、二人の距離を仕事用のそれに保つ術を身につけたのであった。
そして結果、距離が明確な仕事中には、杏子も頼もしい上司であり、さやかも彼女に全幅の信頼を置くことが出来ている。
だがしかしこの方法は、かように上手く行っている二人の関係を、
家に帰って仕事という前提が取り払われた後、更にギクシャクしたものに変貌させてしまうと言う不幸も重ねて誘発していた。 - 459: 2011/07/12(火) 19:35:08.06 ID:XhQxPMf9o
- さやかにしてみても、仕事中に杏子と事務的な距離をおくのは辛い選択であったのは否めない。
この一週間以上、杏子のスケジュールを管理してきて、さやかは杏子が他人や組織との関係にまみれて生きていることが分かってきた。
恭介のことで実家を追い出され、その恭介にも裏切られ、最早頼るべきが杏子しか居なくなっていたさやかとは、正反対である。
つまり、杏子の気持ちを疑いたくは無いのだが、杏子にとってのさやかは、
杏子の保有する多くの関係性の中のうちの、たった一つなのであると言う厳然たる事実を、考えないわけにはいかなかったのである。
だから、近づけるときには、より杏子と近づいていたいというのが、さやかの偽らざる心境であったのだ。
しかしその一方で、仕事中の、しっかりとお互いの距離を確定させた杏子との関係が、
ギクシャクした家でのそれより格段に楽であると言う事実も、さやかの中にその実感を深く刻み込んでいるのであった。 - 460: 2011/07/12(火) 19:35:56.12 ID:XhQxPMf9o
- さやかは空っぽになりたいと思っていた。
いうなれば、影に。 杏子の秘書としての自分だけに。 もどかしい事を何も感じなくていい存在に。
しかしそれは、自分の人間性というものを、押し殺す行為に他ならない。 だが、さやかはあえてそれをしたかった。
もどかしかった。 自分の、人間というものを形作るその何かが。
さやかはその日、自分のその人間の、醜い部分を感じなくてはな らないということを、なんとなく分かっていたのだった。
「そういえば今日さ、15時からフリーじゃねえか!」
――始まった。 さやかは胸の内に、冷たく呟いた。
「さくら会本部教会に寄るか! さやか、車を手配してくれ」
自分は影だと言い聞かせる。 影に、感情はないのだと。
「分かりました――」
さやかはぐっと拳を握りしめた。 車の手配をうっかり忘れてしまえば、本部教会へはいけなくなるかも知れない。
行きたくない。 だけど――
「――社長」
――影は、その主である肉体には逆らえないのであった。 - 461: 2011/07/12(火) 19:36:42.12 ID:XhQxPMf9o
- 会社での業務を為し終え、杏子とさやかを乗せたセンチュリーは今、下部暮市中心街を、さくら会本部教会に向け走っている。
ビルの合間を縫って、静かに車が走っている。
時々、ビルの影に飲み込まれる。 太陽が隠れて、暗くなる。
自分はこの部分なのだと、言い聞かせる。 暗くて、空気がちょっぴり重い部分。
影をつくっている部分には、そのビルには、たくさんの人がいて、いろいろな作業をこなして、
それ自体が有機的な組織を形作っているというのに、その影は、冷たく無機質で、その輪郭を真似ているだけだ。
あれが、あたし。 杏子の裏返しの、空っぽの輪郭。
車がビルの影を抜け、さやかは姿を表した太陽のあまりの眩しさに目を細めた。
杏子はきっと、眩しくないのだろうと思う。 杏子はいつだって明るいところにいるから。 あたしは、影だから眩しいのだ。
車が減速して、右折した。 ビルが見えなくなる。 郊外の道は、常に太陽が見えて、さやかには辛い。
さくら会本部教会は、すぐそこであった。
その事実も、さやかには辛かった。 - 462: 2011/07/12(火) 19:38:40.25 ID:XhQxPMf9o
- 杏子が車から降りる前から、沢山の教会関係者が並んで、彼女を迎えている。 さやかがいても居なくても、対応は同じだろう。
ここもまた、杏子の持つ多くの関係を、さやかに知らしめる場所であった。
しかし、こんな神父やらシスターやら信者たちやらは、上辺だけの付き合いで、目ではない。
一番おぞましい相手は、別にいるのだ。
車のドアが開け放たれ、杏子が降り立った。
車外に出て、彼らのいる空間に晒された杏子に急接近してくる小さな影を見て、さやかは自らの心に深い影の生じるのを感じた。
「逢いたかったよ! キョーコ!!」
この声を聞くと、いつもさやかはイライラする。 キョーコじゃなくて、杏子だっつうの、と思う。
「おお、ゆま。 元気にしてたかー」
――千歳ゆま。 変態紳士に両親を殺害され、さくら会見滝原支部に保護され、本部教会の孤児院に入所してきた孤児である。 - 463: 2011/07/12(火) 19:39:44.21 ID:XhQxPMf9o
- 杏子はしゃがみ込み、目線を同じくしたゆまの頭を、優しく撫でた。
こうなったとき、杏子は自分と同じ目線を喪失したのだと、さやかは思う。
「キョーコ! 肩車して!」
――だあめ、甘えるんじゃないの! さやかは心のなかでゆまを叱った。
「おお、いいぞー。 よっこらせ」
しかしそんなさやかの気持ちを知らない杏子は、気前よくゆまを肩車してやった。
それを見たさやかは努めて無表情を作り、歩き出した杏子の後を、まるで影のように付いて歩くのだ。
「わーい! 高い、高いよ、キョーコ!」
ゆまは杏子の目線より高くなった己のそれに興奮し、はしゃいでいた。
しかしおもむろにさやかの方に振り返り、肩車で杏子に気づかれないのをいい事に、
さやかに舌を出し、表情を様々に歪め、彼女を嘲るための顔芸を披露し始めたのである。 - 464: 2011/07/12(火) 19:40:17.68 ID:XhQxPMf9o
- 杏子はそんなことは知らず、「ゆまもたくさん食べて、大きくなるんだぞー」とか言いながら歩いている。
ゆまは、出会った当初から杏子を独占しようという気迫に満ち満ちており、動物的なカンで、杏子がさやかを想っている事に気づき、
その結果として、このように徹底的にさやかを嫌っていたのである。
子供であるという気安さを最大限に利用し、時々自らを睨みながらベタベタと杏子にまとわり付くゆまを見て、
さやかは自分が影であると、人間的な感情を捨てた仕事の道具なのだと何度も自分自身に言い聞かせねばならなかった。
さやかが感情をこらえながら歩いていると、沢山の信者やら協会関係者やらが、杏子さん、杏子さんと杏子に詰めかけ、
さやかは熱狂し始めたその人ごみに杏子が埋没していくのを、空虚な感覚を持って眺めていた。
ここでは、杏子は仕事の時でもない、家でさやかとのぎこちない関係に陥っている時でもない、全く違う杏子になってしまう。
さやかは、杏子との関係が、どんな距離で接したらいいのかが、分からなくなる。
そして知らぬ間に、こうして杏子が見えなくなるまで、お互いの距離が遠くなってしまうのだ。 - 465: 2011/07/12(火) 19:41:40.88 ID:XhQxPMf9o
- 自分から、杏子が見えなくなるまで遠くなったその時も、ゆまは杏子にベッタリとへばりついているのだろうと思うと、
さやかはどうしたら良いかわからなくなるほど打ちひしがれてしまうのであった。
さやかは孤独を持て余し、ブラブラと教会の庭を散策し、
普段ゆまの世話をしている中年のシスターが、花に水をやっているのを見つけるなり、
「千歳ゆまちゃんの引取先は見つかったんですか?」
と、急かすように聞いてしまっていた。
「ああ、ゆまちゃんはねえ…なかなか決まらないのよねえ…」
シスターはゆまの引き取り手を探すのを、半ば諦めてしまっている感じがする。
ゆまは両親に虐待をされていたらしく、その痕が生々しく体に残っているのである。
そういう子供は、引き取りに来る里親からも敬遠されがちなのであった。
まるでペットショップで売れ残っている動物だと、さやかはゆまを哀れむ一方で、
自分に向けてあらん限り多種多様な変顔をして見せるそのひねくれた性格を考察するに、
誰からも愛されないのは当然の報いであるとも思ってしまう。
しかしさやかは、ここに来るたびにあんなのがいるのは冗談じゃないと思って、
「あきらめないで、頑張ってゆまちゃんを引きとってくれる里親さんを探しましょう!
あたしも、会社でそういう人が居ないか聞いてみますから!」
と、シスターを勇気づけるように力を込めて言うのであった。 - 466: 2011/07/12(火) 19:43:13.10 ID:XhQxPMf9o
- 話が切れると、シスターはペコリとお辞儀をし、さやかも会釈を返して歩き出した。
気がつけば太陽は遠くの山並みに隠れ、その輝きだけで空をかろうじて照らしている。
独りに戻ると、ゆまがどこか遠くへ居なくなって欲しい、と願っている自分の浅ましさを恥じる気持ちが急速に形を作り、
「あたしって、嫌な女だ」 と、さやかは独り呟いていた。
自分の影は霞んで見えなくなった。 こうやって、自分もいつか杏子のそばから消えてなくなってしまうのではないかと、不安になる。
「美樹くん、美樹くん」
「あっ…どうも…」
声のする方に振り返ると、こそこそと手招きしているのはさくら会宗祖であり、杏子の父その人であった。
「君に、ちょっと相談があるんだけどねえ」
「…何でしょうか?」
さやかが反応を示すと、杏子の父は手招きをして教会の一室に消えていった。 - 467: 2011/07/12(火) 19:43:46.32 ID:XhQxPMf9o
- 杏子の父の後を追い、建物の一室に入ると、彼は机に幾つかの写真を並べ、
「実はね、杏子にお見合いをさせようと思っていてね」
と、切り出した。
それはさやかには衝撃的な内容であったが、なんとか表情の変化を抑えこみ、
「杏子が、お見合い…ですか?」
平静を装って聞き返すことが出来た。
杏子父が、そんなさやかの表情を探るように見てから、続ける。
「杏子は男勝りな性格というかだねえ、私が縁談を勧めてもあんまり乗り気じゃあ無くてねえ…心配で夜も眠れないんだよ。
もしよかったら、秘書の君から、この資料を渡してお見合いを勧めてくれないかなあと思ってねえ。
きっと君が勧めてくれると、杏子もその気になってくれると思ったんだ」
と言って、お見合い写真と資料を封筒に入れ、「杏子の為に、協力して欲しい」と、さやかに渡してきた。 - 469: 2011/07/12(火) 19:46:03.36 ID:XhQxPMf9o
- 父は、杏子がレズであることを、そしてさやかを好いていることを知っていたが、それを認めたくない彼は、
さやかにお見合いを勧めさせ、杏子との関係を終わらせようと踏んでいたのである。
さやかが、杏子に他の者との関係を勧めるということは、二人の関係を終わらせる意思があることを意味する筈であるから。
さやかは女の勘で杏子父のその残忍たる謀に感づき、すべてのものが急速に自分から遠のいていくような、眩暈にも似た知覚にさらされていた。
「さやか、こんなところに居たのか!」
不意に背後から杏子の声がし、背筋が反り返るほど驚愕したさやかは、
次いで反射的に杏子父から渡されたお見合い資料をかばんに突っ込んでいた。
「もう、探したんだ…ん? 何してんだ、さやか?」
「え、なんでもないよ」
さやかは何事もなかったかのように、かばんを手に持ち、杏子の方を振り返った。 - 470: 2011/07/12(火) 19:47:19.02 ID:XhQxPMf9o
- すると杏子ははっきりと父を睨んでおり、
「さやかに変なことしてねえだろうな」
と、ドスの利いた声を浴びせかけていた。
さやかは自分を守ろうとするそんな杏子の態度が、妹との喧嘩を始め、多くのトラブルを巻き起こす要因であるのを十分承知していたから、
「別になんでもないんだよ、杏子! お父さん、杏子の事いろいろ心配してくれているんだから、そんな風に言っちゃ駄目じゃない!」
と、父をかばうように杏子を押しとどめていた。
しかし杏子はそんなさやかの気遣いも知らず、
「おい親父、二度とさやかに近づくんじゃねえぞ」
ガンを飛ばしながら吐き捨てたのだった。
「杏子! 駄目じゃない! お父さんに謝りなって!」
杏子は、さやかの注意を聞かず、
「いいのいいの。 さやか、帰ろう」
さやかの手を取り、父から離れさせようとするように力強く、出口の方に引きずっていく。
さやかはとっさに杏子父のほうを向いて頭を下げたが、その時彼の視線が、嘆願するような重みを含んでいるのが感じ取れ、
鞄の中のお見合い資料が気になって、体の内側がムズ痒くなった。 - 471: 2011/07/12(火) 19:48:15.54 ID:XhQxPMf9o
- 「…さやかさあ、親父と何話していたんだ?」
帰りの車内で、杏子が探るように発した言葉に、さやかは、
「別に、普通の事だよ。 杏子の仕事はどうかとか、無理してないかとか、ちゃんと食べているかとか、そういう話」
平然を装って嘘を言いながら、必要以上に神経が乱れていくのを感じ、取り繕うように笑顔を作ったが、
それがただの顔面のこわばりのように引きつったので、そこから自分の内面を勘ぐられはしないかと気が気ではなかった。
「ならいいんだけどさあ…」
感づかれてはいない。 さやかは一つ仕事を為し終えたような安堵を感じた。
既に外は暗くなっていて、そのおかげかも知れないと、さやかは暗闇に感謝したい気分にもなった。
「親父はあたしらが一緒にいることが、面白くないらしいからさ、なんか変なこと言われたんじゃないかって、心配でさあ。
あいつがなんかおかしな事言っても、さやかは気にしなくていいんだぞ」 - 472: 2011/07/12(火) 19:49:23.35 ID:XhQxPMf9o
- さやかは、やはりそうなのか、と思った。 杏子父は、杏子がレズなのを知って、意図してさやかと杏子を離れさせようと画策し、
さやかにお見合いを勧めさせる気なのだ。
さやかがそんなことを暗澹と考察しながら聞いた、杏子の言葉は、しかし、彼の謀以上の毒を含んだそれであった。
「全くさあ、あたしたちはただの友達だろ? 変なことなんて何もしていないってのに、何勘ぐってんだろうな」
杏子はある種誤魔化すような明るさを持って、運転手にそれを聞かせ、アリバイを作るように宣言したのだった。
それはさやかにとり、聞き捨てならぬ言葉であった。
ただの友達――それはある種の安堵も感じさせる言葉であったが、
また一方である種裏切られたかのような違和感も、さやかの胸に強く抉りこむ言葉であった。
さやかは、杏子がレズなのを知っていた。
その杏子が、さやかに告白した二人の関係が、「ただの友達」だという事実は、強く拒絶されたにも等しい衝撃を持ってさやかを襲った。
友達、と聞いて、さやかは親友であった仁美のことを連想した。
ある日仁美はさやかを喫茶店に呼び出し、留学させるからと一方的に恭介を奪っていったのだった。 - 473: 2011/07/12(火) 19:50:16.35 ID:XhQxPMf9o
- 親友であった仁美が、ある日突然手のひらを返したと言う経験は、
ただの友達と言う杏子との関係が、更にもろいものであると言う予感を生じさせるに充分なものであった。
さやかの中に、杏子に対する不信感が蒸留されていく。
むやむやと鬱積してきた何かが、「ただの友達」と言う告白に炙られ、そこから純粋な不信感が分離精製されてくる。
「ただの友達」と言うその薄っぺらい響きは、思い立ったその時にすぐ、関係を終わらせることの出来る便利で儚い絆のように、
さやかには感じられるのであった。
さやかは今、杏子に手のひらを返される自分を、危機感にも似た焦りを持って、明確に想像することが可能になっていた。
そして、レズであるのにその欲望を抑えこみ、杏子がぎこちなく続けてきたさやかとの生活と、
杏子を取り巻く様々な、自分以外の数多くの関係というものが符合し、そこにお見合い資料を渡したときの杏子父の言葉が降ってくる。
――杏子の為。 そう、さやかとの中途半端でぎこちない生活を続けることは、はっきりと杏子の為にならない筈だ。
さやかの入社で、雰囲気が悪くなった秘書課員達――
仲違いした杏子と妹――
千歳ゆまに、杏子の父、そしてさくら会の信者や関係者達――
さやかには、杏子を取り巻くすべての関係が、自分と杏子が離れることが杏子の為であると考え、
その時が来るのを待ち望んでいるような気がしてくるのだった。 - 474: 2011/07/12(火) 19:50:59.35 ID:XhQxPMf9o
- 車が、二人の住むマンションの前で、滑らかに停車した。
あのぎこちない関係が始まるのかと思うと、さやかの肺には溜息の素が詰まってくるようだったが、なんとかそれを吐き出さずに耐えた。
運転手に礼を言い、見送ってからマンションに入り、エレベーターに乗り込む。
狭い空間の中、二人はただただ押し黙っている。 もう始まっているのだと思う。
いつものあの、ぎこちない関係の再構築がである。 そしてそれは、二人の暮らすあの部屋に入ったとき、きっかりと完了するのだ。
エレベーターの扉が開く。 廊下は照明に照らされて明るくなっていた。
さやかは自分の影を探してみた。
見つけたのは、天井からの照明に照らされた体から、微かに伸びる、薄くて、まるで蠢く棒のような、
太陽に照らされたときに生じるそれとは全く似ても似つかない歪な形の影だった。
それを見て、今の自分そのものだと、さやかは思った。 - 475: 2011/07/12(火) 19:51:26.38 ID:XhQxPMf9o
- 「もう遅いけどさ、なんか食べよっか」
さやかがぎこちなく問うと、杏子も、
「もう疲れているから、カップ麺でも作ろうぜ」
演じるように聞き返した。
さやかは、杏子の好きな「赤いケツネ」を取り出したが、粉末スープとお湯を入れ、5分待つだけで完成するそれは、
薄っぺらな人間関係の象徴のように思え、彼女は恐ろしくなってそれを戻した。
「ねえ杏子…オムライス、作っていいかな?」
「えっ…でもさやかも、疲れているんじゃないのか? 無理しなくていいんだぞ」
気遣いが、二人の間に鎮座している。 距離を孕んで。
「いいの、作らせてよ。 あたしが作りたいの。 十分もあればできるから、いいでしょ?」
さやかはそんな気遣いを振り払うように、半ばムキになって、フライパンを用意していた。 - 476: 2011/07/12(火) 19:52:03.89 ID:XhQxPMf9o
- 杏子は、出来上がったオムライスを、ガツガツと無言で掻き込んでいた。
「ねえ、美味しい?」
「え?」
食べるのに夢中であった杏子は、そよ風のようなさやかの言葉の内容が聞き取れず、食事の手を止め、聞き返した。
「最初の頃はさ、美味しい美味しいって、言いながら食べてくれたよね」
「美味いよ、さやかの作る料理は、なんでも美味いよ!」
さやかには、杏子の言葉が既に言い訳にしか聞こえなくなっていた。
「もういい! 知らない!」
さやかは強くテーブルをぶっ叩き、その反動で乱暴に立ち上がった。
「ちょっ…さやか…」
「あたし、勉強するから…それじゃ」
さやかは食べかけのオムライスと杏子をダイニングに残して、独り自分の部屋に戻っていった。 - 477: 2011/07/12(火) 19:52:47.80 ID:XhQxPMf9o
- 自室に入るなり、さやかは激情にかられて辞表を書き始めた。
しかしどんな事を書いていいのか分からず、結局、
「一身上の都合により、退職します」とだけ書いて、「辞表」と書き込んだ封筒に突っ込んで、それを鞄に放り込んだ。
その後は、何もすることが無くなった。
いずれ辞めるのであれば、秘書検定の勉強など、意味が無いことであるからだ。
さやかは、自分のベッドに寝転がった。
独りだけのベッドである。 これも恐らく杏子の気遣いなのだろうということは分かる。
この部屋には、二人の住まいには、気遣いが充満している。
ふたりの距離を図るとき、必ず気遣いが間に割り込んでくる。
さやかには、それら気遣いのすべてが、杏子がいつか自分を突き放すときの手掛かり足掛かりの為のものであると、思えてしまうのだった。
さやかは、部屋の隅に置かれた、自分の鞄を一瞥してみた。
杏子のお見合い資料と、自分の辞表とを孕んだその黒い鞄。
――あれらもまた、気遣いが形になったものなのだろうか?
さやかは自分の鞄が、この世で一番重たい物質に思えてきて鬱陶しく感じ、目をそらして天井に向き直った。 - 478: 2011/07/12(火) 19:53:42.21 ID:XhQxPMf9o
- 杏子は今、何をしているのだろうと考える。
いつもはご飯を残すと、「食い物を粗末にするな」と言って怒るのに、今日は何も言ってこない。
それも気遣いなのかも知れないが、もしかしたら、自分を見捨ててしまったから、何も言いに来ないのかも知れない。
いつもならこうして別々の部屋にいると、杏子の方から、「さやかー」と、甘えてくるはずなのに、今日は来ない。
それも気遣いなのかも知れないが、もしかしたら、もう自分が必要でなくなったから、来ないのかも知れない。
さやかは、距離を置こうと思った。
裏切られるより、裏切るほうが楽だと思った。
仁美や恭介が杏子に置き換わって、そこに彼女を取り巻く様々な関係が染みこんでいって、すべてが自分を拒絶する感じ。
それに対抗するには、自分が拒絶するしかないのだと、さやかは結論した。 明日から、家の中でも仕事の距離で接しようと思う。
一番楽な距離で。 そして、だんだんとその距離を遠くしていって…それが一番いいと思った。
気が付くと、視界が涙でぼやけ始めている。
一番楽な選択をしたのに、何故――さやかはそう思っていた。 - 488: 2011/07/14(木) 19:55:38.64 ID:G0xaiGGno
- 終章 夜
「さやかちゃん、辛かったんだね」
話しながら泣き出していたさやかの背中を、まどかは優しく撫でさすりながら言った。
「辞表と、お見合いの資料は、まだ渡していないの?」
さやかは、まどかの問いに、更に苦しむように
「今もバッグの中に入ってる。 渡そうと思うんだけど、渡せないの」
鳴き声と共に搾り出すように言った。
「それ、渡さないほうがいいと思うよ」
「でも…もう駄目なんだよ…あたし、居なくなったほうが杏子の為なんだよ…」
「そんなことないよ。 杏子ちゃん、さやかちゃんと仲良く出来なくて、とっても辛そうだったもん」
まどかは、素直に自分の見てきた事実の感想を述べた。
そしてそれは、客観性という最も公平な物の見方をそなえた、つまり正確な意見でもあった。 - 489: 2011/07/14(木) 19:56:05.58 ID:G0xaiGGno
- 「杏子が辛くったって、杏子の周りの人達、みんなそれで喜ぶんだよ? きっと杏子も、そのほうが幸せだよ」
しかし、その一方でこのようにさやかの観点から導きだされる物の見方があることも事実であった。
「そうやって全部さやかちゃんが背負い込んじゃだめだよ。
それは杏子ちゃんの問題なんだから。 本来は杏子ちゃんが、どっちを取ったら幸せか考えなきゃいけないんだよ」
「でも…でも…」
「さやかちゃんが悩んできたこと、勇気を持って、杏子ちゃんに話そ? それで二人が離れていくなら、それでいいと思うんだ。
だけど、今のままだったら、二人の関係を築く前に、さやかちゃんが勝手に逃げたことになっちゃうんじゃないかな?」
まどかの言葉に、さやかは黙すしか無かった。 - 490: 2011/07/14(木) 19:56:35.61 ID:G0xaiGGno
- 「さやかちゃん、杏子ちゃんに嫌われるのが怖いんでしょ?
だから自分から、離れていこうとしている。
でも離れるなら、自分の気持ち、全部ぶつけてからにした方が、後悔がないと思うんだ」
「分かった。 あたし杏子にちゃんと伝えるね。 頑張ってみるね」
さやかが決意した瞬間であった。 ヘタレな杏子では、やはりこうは行くまい。
「うん、もうすぐみんなでご飯食べに行く時間だね。 それが終わったら、杏子ちゃんと二人きりになれるようにするから、頑張ってね」
まどかは、さやかの涙をぬぐってやりながら、
「ほら、さやかちゃんも泣き止んで。 さやかちゃんのそんな顔見てたら、また杏子ちゃん辛くなっちゃうよ」
と、優しく言ってやると、さやかも「うん、そうだね」と、湿った顔を飛び切りの笑顔に作り替えるのだった。 - 491: 2011/07/14(木) 19:57:26.33 ID:G0xaiGGno
- 「呆れた! あなた全然美樹さやかのことが分からないんじゃない!」
質問しても、「分からない」を連発されて怒りが頂点に達したほむらが罵ると、杏子は項垂れたまま「うん…」と、力のない返事をした。
「何がうん、よ! あなたがウジウジして美樹さやかと距離を取り過ぎているから、向こうの気持ちがさっぱりわからなくて、
こっちもアドバイスの仕様がないっていっているのよ!」
杏子はまた、うん…と、最期の息遣いのような返事をした。
ほむらは二つの寝床が離れているツインのベッドを指さして、
「こんなふうにね、最初からお互いが離れていたら分かるものも分からないに決まっているでしょう?
あなたは恋をナメているのよ! 気遣いと優しさを押し出して、後は待っていれば手に入ると思っているんでしょう?
それは大いなる間違いだわ!」
ほむらに叱責され、とうとう杏子は声を上げて泣き出し、
「あたしの恋はベリーハードだああ…」
絶望を言語に昇華させ、鳴き声に交えて部屋中にばら蒔いた。
「ベリーハードなんかじゃないわ! 始まる前から終わっているのよ!
あなたが直面しているのはね、スーパーマリオの最初のステージで、始めに出会ったクリボーが怖くて先に進めないまま、
時間切れを迎えようとしているに等しい愚かな状況なのよ!」
ほむらも最早、彼女を慰める気さえなくなっていた。 - 492: 2011/07/14(木) 19:58:05.01 ID:G0xaiGGno
- おいおいと声を上げて泣いている杏子を見て、後はどう諦めをつけるかだけが問題だな、と、ほむらが思っていると、
不意に部屋の扉がノックされた。
廃人化寸前の杏子の代わりにほむらが扉を少し、あけてみると
「ほむらちゃん、晩ご飯食べに行こ」
まどかと、その隣に俯き加減の、決まりの悪そうな顔をしたさやかが立っているではないか!
ほむらは腕時計を確認し、もうそんな時間なのか、と思いながら、
「ちょっと待っててね、支度するから」
とだけ言って、扉を閉めた。
「杏子、御飯の時間よ! 泣き止んで頂戴!!」
ほむらはそう言って、ベッドに突っ伏していた杏子をたたき起こし、
「早く、顔洗って!!」
と、洗面所に引きずっていき、洗面台に無理くり杏子の顔を突っ込んで蛇口を全開にし、水攻めにした。 - 493: 2011/07/14(木) 19:58:35.35 ID:G0xaiGGno
- 「ガボガボ…苦しい!!」
洗面所で溺れている杏子を見て、自分がにわかに焦りすぎていたことを知ったほむらは、杏子を水攻めから開放し、
「美樹さやかが、あなたに会いに来ているわ。 だからその涙の痕跡を今すぐ完全に消し去りなさい!」
力強くそう言った。
「あたし、さやかになんてもう会えねえよ…」
しかし弱気になっているヘタレ杏子に、ほむらは、
「美樹さやかは、あなたに会いたいと言っているわ。 これは起死回生のチャンスよ!
分かったら笑顔を作って一緒に御飯を食べるの! いいわね!」
嘘をついて食卓に誘導しようとする有様であった。
本当はまどかと二人で食事を取ることが出来さえすればいいほむらであったが、
みんな一緒に、仲良く食事を取らないと、肝腎のまどかが悲しむのである。
それだけは避けたかったから、脅してでも杏子には笑顔で食卓に付いてもらわねばならなかった。 - 494: 2011/07/14(木) 19:59:06.33 ID:G0xaiGGno
- それからしばらくして、重苦しい通夜のような夕食が終わり、ほむらはその怒りを杏子にぶちまけようと、
当然のように彼女の部屋についていこうとしたが、
「ほむらちゃん、お部屋に帰ろ」
まどかにそう言われてしまえば、もう杏子のことなどどうでも良くなってしまうほむらであった。
見ると、さやかも杏子に付いて行くではないか! ほむらはまどかが自分に返還されたことを知って、驚喜した。
そしてその込み上げてくる嬉しさは、ほむらに余裕をもたらしもした。
「あの二人、放っておいていいの?」
ほむらの余裕が、まどかに聞かせた言葉である。
しかしまどかも知らんぷりをして、
「もう、ふたりだけの問題だよ」
と言って、ほむらの手を引き、自分たちの部屋に戻っていったのだった。 - 495: 2011/07/14(木) 19:59:52.37 ID:G0xaiGGno
- さやかが扉を閉めると、二人の部屋は気まずさで飽和したように感じられた。
「ねえ、杏子」
さやかは、そんな雰囲気を無視し、言葉を繋いだ。
「あたしね、あんたともう、別れようと思うの」
言い終わると、堰を切ったように杏子の鳴き声が響き渡った。
「なんでだよ! 理由を教えてくれよ! あたしそんなの嫌だよ!なあ、さやかぁ!」
「あたしね、ずっとずっと、辛かった…」
さやかは、まどかに話したのと同じ内容の事を、杏子の涙にしみこませるように、ゆっくりと語りだした。
自分の中途採用が会社を乱してしまったと感じたこと――
姉妹喧嘩の原因になってしまったのが、辛かったこと――
自分には何も無いのに、杏子の周りは沢山の人がいて、自分はその中の一つでしか無いのではないかと思ったこと――
「そんなことねえよ! あたし、さやかのこと大好きだよ!!」
杏子は、今になって初めて知る、さやかの苦悩を、自分がずっと知らぬままであったという事実に驚愕し、
その自らの情け無さに涙しながら、そう叫んだのだった。 - 496: 2011/07/14(木) 20:00:29.82 ID:G0xaiGGno
- 「そう、あたしのこと好きなんだ。 じゃあ見せたいものがあるんだけど…」
さやかはそう言って、バッグの中から杏子の父から託されたお見合い資料を取り出して、杏子の前に並べた。
「何だよ…これ…?」
「杏子のお父さんがさ、あたしに寄越したんだ。 杏子のお見合い相手だってさ。
あたしと居るより、こういう男の人と居たほうが、杏子も幸せなんじゃないって、お父さん言ってたよ。 あたしもそう思うし」
さやかが突き放すように言うと、杏子は泣きながら狂ったように、
「ヤダ、ヤダ! さやかがいい!!」
と、さやかに抱きついてきたのである。
その杏子の必死な様子に、本当に覚悟が備わっているのかを、さやかは試そうと思った。
そして会社を離れれば友達という関係であるとはいえ、一応上司であるのに、
そんな杏子を試すなどと大それた立場にいる己に、違和感がまるでないことをさやかは不思議に思った。
「じゃあさ、キスしてよ」
「えっ?」
さやかの言葉に、杏子は彼女の意志で動かせる物すべての動きを停止させた。 - 497: 2011/07/14(木) 20:01:12.45 ID:G0xaiGGno
- 心臓の鼓動が聞こえてくる。
それが鼓動して血を送り出すたびに、さやかが体中を駆け巡っているように感じられる。
さやかに抱きついている今の状態でも、ばかになってしまいそうなのに、キスなんて…
しかし他に選択肢のない杏子は、勇気を振り絞り、さやかの顔に自らのそれを近づけて行き――
――やった! キスできたよ!!
唇がさやかの肌に触れ、その弾力を持った感触が、実感として体中に沁み渡り、
痺れ上がった杏子の体はキスの出来た満足に、そこで力尽きたように動きを止めた。
後は固まったまま震え、動けなくなるいつものヘタレトランス状態が待っているのだ。
「こんなんじゃだめだよ」
しかし放たれたさやかの言葉は、残忍極まるものであった。
「ほっぺにチュウなんてさ、子供のすることじゃん。 こんなんじゃだめ。 キスとは認めません」
浴びせられた言葉がそのまま蓄積されていくかのような、杏子の従順に落胆していく様にさやかは打ち震え、
今、自らが杏子を統べる立場にいるのだということが更にはっきりと実感させられた。 - 498: 2011/07/14(木) 20:01:48.81 ID:G0xaiGGno
- さやかは自らに抱きついている杏子をひっぺがし、ああ…と、悲しげな声を上げている彼女を、そのままベッドに押し倒した。
「いい? あたしが教えてあげる。 どうやったらキスになるか、一回だけ教えてあげるからね」
さやかは目を閉じたと思ったら、一息に杏子の唇に自らのそれを吸い付かせていた。
杏子は、戸惑った。 心の準備がまだ出来ていなかったのだ。
しかし、さやかの舌が口中に侵入し、杏子のそれに触れ合い、絡み、その粘膜同士が愛しあう感覚に、
体中を痺れさせ、それが体表の感覚を失わせ、さやかが触れているその部分だけが興奮するような接触感を訴える状況に、
すぐさま杏子の戸惑いは溶け、今まで二人の関係に挟まっていた違和感までもが消失していく気がし、
杏子は自分が生まれ変わっていくように感じていた。
もっとさやかを感じていたい! キスしていたい!
杏子がそのまっすぐな欲望を認め、されるがままではなく、自らも舌を絡め、さやかを味わおうと決心したその時、
さやかの舌が杏子の口から抜き取られ、唇も引き剥がされてしまった。
「ひゃうう…さやかぁ…もっとぉ…」
杏子はその脳内をさやかに犯され埋め尽くされ、一桁の足し算も出来ぬほどのばかになってしまっていた。 - 499: 2011/07/14(木) 20:02:32.10 ID:G0xaiGGno
- 「これがキスだよ。 わかる? さっき杏子がやったのは、子供の遊びなんだよ」
さやかが吐き捨てるように言って、杏子から離れようとすると、その袖を掴まれ、
「さやかぁ…もっとキスぅ…」
杏子がキスでくたくたになった体を必死に使って引き止めてきた。
それを見たさやかの中に、愛おしさに触媒され、ゾクリと残忍な欲望が沸き起こる。
さやかは杏子の耳にフッ、と息を吹きかけ、体中が性器になったかのような敏感なその体を痙攣させてから、
「もうしてあげないよ。 一回だけって言ったじゃん。
教えてあげただけだから、もう二度と、あんたにキスなんてしてあげないんだからね」
残酷なその言葉を拾うと、杏子はむせび泣きながらベッドの上をのたうち、
「やだやだぁ…そんなのやだあ…さやかぁ…ゆるしてよぉ…」
駄々をこねる子供のようになった。 - 500: 2011/07/14(木) 20:03:17.20 ID:G0xaiGGno
- 自分に対する愛おしさに理性を漂白され、赤子のようになっている杏子に対し、さやかの欲望が更にその成長を加速させる。
しかし、今まで自分にちゃんと向き合ってこなかった杏子に対するお仕置きは、まだ終っていないのだった。
「許すも何も、あたしたちって、ただの友達なんでしょ? ただの友達が、さっき教えてあげたような恋人同士のキスなんかする訳ないじゃん。
それとも何? 友達同士のキスして欲しいの? さっきあんたがやったみたいな、ほっぺにチュってする、子供みたいなキスを」
自分に対する最大の失言を持って、さやかは杏子を責め始めた。
杏子はそれを聞いて、
「ごめんよぉ…ごめんよぉ…さやかが好きなんだよぉ…だけどそんなこと言ったらどうなってしまうのか、こわかったんだよぉ…」
さやかの服に縋りつき、後悔を泣き叫んだ。
「じゃあさ、そんなにあたしが好きなんだったらさ――」
さやかはお見合い資料を杏子の眼前に示した。
「――これをお父さんに突き返してさ、あたしの事が好きだって、あんたが言いなさいよ。 はっきりと」
「いう! いう!」
「そんでさ、あんたと関係のある人たちみんなに、あたしの事が好きだって、
あんたらなんかよりずっと、あたしのことが大事だって、言いなさいよね」
「いう! いう!」 - 501: 2011/07/14(木) 20:05:09.18 ID:G0xaiGGno
- 杏子はさやかのキスの感覚に未だ酩酊しており、全財産をよこせと言っても肯定しそうな勢いであった。
「さやかぁー…キスしてよぉ…お願いだよぉ…何でもするからさぁ…」
さやかは、性的な興奮にやられて、ベッドに横になって体をいやらしくくねらせている杏子に、
「じゃあ起き上がってさ、あたしんとこまでキスしに来てよ」
ベッドに腰掛けている姿勢のまま、這いずっている赤子を待ち受ける母親のように形ばかり手を差し伸べ、残忍に言い放ったのであった。
しかし杏子は、体を動かそうとするたびにいやらしい刺激が電撃のように体を駆け巡り、
「ひっ!」とか、「あはぁ!」とか言いながら悶え、結局さやかのスカートを、震えながら必死に掴むことしか出来なかったのである。
「だめだぁ…ちからはいんねえよぉ…さやかぁ…あうう…」
さやかはそんな杏子の痴態を見、
「あんたって、ホントに情け無いんだから…」
そう言って、エッチな予感に溺れている杏子に顔を近づけ、
「お願いしますって、いいなよ」
ご主人様の要求をしてしまった。
「おねがいします! おねがいします!」
しかし、上司であるはずの杏子は、あろうことかふたつ返事でおねだりをしてしまう。
さやかと杏子の、むき出しの、本来の関係が顕になったのである。
これが、この二人の魂に刻まれた、出会った時から運命づけられた本当の序列であるのだった!
そう、杏子が能動的にさやかに働きかけ、掌握しようとしていた事自体、とんだ間違いなのであった!
「あたしのこと、好き?」
「すき! すき!」
「フフッ…じゃあ、目、閉じて…」
さやかは杏子を焦らせまくり、おねだりをさせ、好きと言わせ、ようやく接吻をしてやったのであった。 - 502: 2011/07/14(木) 20:05:49.24 ID:G0xaiGGno
- 杏子の体の、細胞一つ一つに到るまでが、その瞬間を待ちわびており、一斉に驚喜したかのような感覚に震えた。
先程さやかがキスを終えてからというもの、杏子は喪失感に晒され続けていたのであった。
それが今、また唇同士が触れ合い、吸いつき、舌同士が愛のやりとりを始めると、喪失感が補完されていくかのような、
一体感でもあり、安心感も含んでいそうな、そんな自らが完全に近づいたような、神々しいまでの感覚に満ち溢れていくのである。
不意に、キスをしながら、服の上をさやかの手があやしく撫で回し始めた。
身につけた布を隔ててもなお、その肉の感触が、体に電流のような刺激を与えながら這いずり回る感覚に、
杏子の体はオーバーヒート寸前にまで、瞬時に昂った。
そしてその手が、杏子の胸を捉えたとき、彼女は歯を食いしばり、刺激に備えていたが、
下腹部に、さやかのもう一方の手の感触が来たと思ったとき、杏子のすべてが違う次元まで飛んでいき―― - 503: 2011/07/14(木) 20:06:29.80 ID:G0xaiGGno
- 「へえ、キスして、ちょっと体触られただけでイッちゃうんだ…」
さやかは愛撫を始めたとたん、体を急激に仰け反らせ、がくがくと痙攣をしながら脱力していった杏子に、感嘆の声を上げた。
杏子は放心しながら、ブルブルとその体を震わせている。
「でもねえ杏子…まだ始まったばかりなんだよ?」
さやかは言いながら、杏子の服を脱がせ始めた。
「ひゃっ! らめっ!」
「…じゃあ止めていいの?」
「やめないでぇ!」
前後不覚になっている杏子の服をようやく脱がせ、ブラジャーを取る時、素肌にさやかが触れてしまうと、
「ひうっ! らめっ!」
杏子の体が瞬時にはねるので、服を脱がせるだけなのに余計に時間がかかる有様であった。
かようにただただ服を脱がせているだけにもかかわらず、布が肌を擦ったり、さやかの指が触れたりするたびに、小さな声を上げ、
杏子の体がピクン、ピクンとベッドをはねるのが、さやかにはたまらなく愛おしく感じられてくるのだった。 - 504: 2011/07/14(木) 20:07:07.13 ID:G0xaiGGno
- 「それじゃあ杏子、パンツ脱がすよ? いい?」
「ひっ…ひっ!」
杏子は最早、上手く喋ることの出来ぬまで助平に大脳を支配しつくされているようであった。
さやかがベチョベチョになった杏子のパンツを脱がせると、
「わあ…何これ? すっごい!」
興奮しきって充血している杏子の性器がじとじとに湿っており、それが部屋の明かりに照らされてぬらぬらし、
そこから甘酸っぱい匂いが熱気を孕んで立ち上っている。
それを見たさやかの脳内には、性欲よりも先に、単なる好奇心が走っていた。
「ねえ、触っていい?」
言い終わるか終わらぬかのうちに、その体の一番熱い部分に触れた瞬間、
「ぴいいいいいいっ!」
と杏子がおかしな叫び声を上げ、そこからピュッピュッとなにやら液体を吹き出しながらまた絶頂を迎えた。
「わっ! 何これ!? 水鉄砲みたい!」
「ひいっ…ひいっ…」
さやかは、自分への想いから、そして体に触れてもらったうれしさからか、
珍妙な反応を示すまでに興奮しきった杏子に対する愛おしさが胸の奥から沸き起こるのを実感していた。 - 505: 2011/07/14(木) 20:08:07.01 ID:G0xaiGGno
- 「あんたって、なんかすっごく可愛いんだけど…
ねえ、抱きしめたくなっちゃった…あたしも、おかしくなってきたみたい…」
さやかは何かに突き動かされるように服を脱ぎ始め、その最中、上手く脱げなくて、もどかしさを感じた自分に驚いた。
自分に服を脱ぐよう促していたのは、はっきりと愛欲であった。
「ああ、可愛い! 杏子、あんたってこんなに可愛かったんだね!
今抱きしめてあげるからね! ぎゅうって、してあげるからね!」
肉体の加熱が精神の許容を超え、杏子は快楽以外に、自分が自分でなくなる恐怖だけを感じる状態であった。
「さや…まってえ…おかしくなるう…」
その恐怖がさやかを制動しようとしたその言葉は、かすれて不明瞭であり、さやかはそんなうわ言を無視して杏子に抱き付くと、
「あああああっ! ひぃぃぃいいいくぅうううう!!」
その肌と肌が触れ合った瞬間にも杏子は体をこわばらせ、悲鳴を上げて痙攣しながら再び絶頂した。 - 506: 2011/07/14(木) 20:08:45.27 ID:G0xaiGGno
- 「杏子、またイッちゃったの?」
「ひっ…ひっ…ひえええええん…」
杏子はおかしくなりすぎた自分が恐ろしすぎ、とうとう声を上げて泣き出してしまった。
快楽に飲み込まれたまま、体がもとに戻らなくなるのではないかと危惧したのである。
しかしまだ気持ちよくなっていないさやかは…
「ねえ、あたしもそんなふうにしてよ。 気持よくしてよ。 あんたばかりずるいでしょ?」
容赦なく杏子の性器に、自らのそれを押し付けたのであった。
「ひぃぃぃいいいっ! いやあああああやめてえええ!!」
思わず逃げ出しそうになった杏子であったが、
「ちょっと、自分だけ気持ちよくなって、逃げようったってそうはいかないぞ~!」
性的興奮に運動神経を骨抜きにされ、クニャクニャになっていた彼女は、さやかにいとも簡単に拘束されてしまう。 - 507: 2011/07/14(木) 20:09:11.14 ID:G0xaiGGno
- 「あっ! いいっ! 杏子、んっ!」
そして、さやかによって熱くなった部分同士が擦り合わされ始め…
「ああああああああああっ!! あああああああああああっ!! むっ!!」
杏子はシーツを掻きむしり、手元にあった枕にかじりついた。
「むぅうううううう!! むぅうううううう!!」
杏子は枕を唾液でびとびとになるまでかじりながら体を暴れたように痙攣させ、
「ああっ…ふぁっ…ちょっと杏子、暴れないでよ! あんっ!」
それを拘束するさやかを手こずらせ続けた。
そしてさやかがそうなるまでに数えきれないほど絶頂し、
あまりの興奮に過呼吸気味になり、行為を終えた後、さやかが介抱をせねばならぬ有様であった。 - 508: 2011/07/14(木) 20:09:41.99 ID:G0xaiGGno
- さやかは杏子に水を飲ませ、落ち着くのを待ってからシャワーを浴びせてやり、体液に染まっていない自分のベッドに杏子を寝かしつけた。
杏子は「側にいてくれ」とか、「行かないでくれ」とかうわ言のような言葉を発しながら、
次第に睡魔にまどろみ、疲れきった体をようやっと休めたのであった。
さやかは杏子が完全に眠りの世界に行ってしまったことを確認してから、ベッドから立ち上がり、
カーテンをずらして外の景色を見た。
月が煌々と照って、凪いだ海をキラキラと浮かびあげている。
ガラス越しに外の音は聞こえてこなかったが、寄せては返す波の音が、さやかの頭の中で明瞭に想像できた。 - 509: 2011/07/14(木) 20:10:47.89 ID:G0xaiGGno
- ――夜。 その時、それは影なのだと、さやかは気が付いた。
太陽が地球の反対側を照らしているときの、影になっている部分が夜なのだ。 あたり一面が、影になっている。
自分は、影だと思う。 杏子について歩くだけの、空っぽでちっぽけな存在。
昼は、そんな存在でいいと思う。
さっきはああ言ったけど、人前で自分たちの関係を、ただの友達だと断じなくてはならないことも、あるのだろう。 建前として。
杏子の気持ちがわかった今、他人との関係において、自分たちのことを杏子がどうタテマエようが、さやかは気にならない気がした。
どんなに薄くなろうとも、小さくなろうとも、影は体から離れない。 その絆だけを感じていれば、いいと思った。
ただしである、夜は、その空間自体が影なのだ。 あたしに、杏子が包まれるのだ。
さやかは、自分たちの関係の隅々に感じていた違和感のすべてが無くなっていることに気が付いた。
さやかは杏子との距離をどうしたらいいのかを、完全に理解した。
影がのびたり、縮んだり、濃くなったり薄くなったりするように、不器用な杏子との距離をあたしが調整しなくてはならないのだ。
そして二人きりの夜は、思い切り包んであげる。 あたしが、杏子の全てになる位に。 - 510: 2011/07/14(木) 20:11:40.25 ID:G0xaiGGno
- さやかは、カーテンの隙間に浮かぶ月に、自らの手をかざしてみた。
影になった。 手の形の、影だ。 今杏子が起き上がったら、あたしの体は月明かりに浮かぶ影に見えるのだろう。
ふと、杏子は理解したのだろうか、と、思った。
振り返ると、さやかが開いたカーテンの隙間からの月明かりに、
杏子の肌が、先程まで興奮しきっていたのが嘘のように白く照らされている。
杏子はきっと知らないだろう、と思う。
あたしが影であることを。 昼間はちっぽけで空っぽでも、夜になればあたしが杏子の全てを包み込む程大きくなるのだということを。
どうやったら知らしめることが出来るのだろうと考える。
言葉では言いたくない。 影は何も言わないからだ。
夜は影。 あたしはあんたの影。
ただそれだけのことを伝えるのに、どうにももどかしいことを考えるものだと、さやかは自嘲し、
カーテンを閉めて、ベッドの杏子の隣に滑り込んだ。 - 511: 2011/07/14(木) 20:12:24.32 ID:G0xaiGGno
- 杏子の寝息が聞こえる。
「明日からは、あたしがちゃんとリードしてあげるからね」
さやかは杏子の髪を撫でながら言って、またカーテンの方を見た。
この部屋は、カーテンの影なのだと思った。
すると、さやかはハッと気がついて、起こしていた体を横たえ、ぴったりと杏子に並ぶ形で寝転がった。
明日、杏子より先に起きよう。
そして、カーテンをいっぱいに開けるんだ。
それで起きなかったら、「杏子、起きて!」って叫んだりして。
すると突然の陽の光に当てられて、まだ夜が忘れられない、夜が恋しい杏子は、
太陽を遮るように覗き込むあたしを、影になったあたしを、はっきりと見るだろう。 - 512: 2011/07/14(木) 20:12:51.67 ID:G0xaiGGno
-
… - 513: 2011/07/14(木) 20:14:10.72 ID:G0xaiGGno
- エピローグ 朝
気持ち良い朝だったが、ほむらは憂鬱であった。
また昨夜の夕食のように、ぎこちない二人を交えて食卓を囲むなど、考えたいことではなかった。
しかしまどかがみんな一緒でないとだめだというので、また朝食も一緒に取ることになっておるのだ。
――もう来年は、あのカップルを連れてこないことにしよう。
――いや、来年は別れているか!
ほむらがそんな打算を脳内に浮かべていると、「あっ! 来たよ!」と、向に座っているまどかの声が聞こえた。
二人は、仲良く手を繋いで、微笑みながら現れた。
ほむらがあっけに取られていると、二人はテーブルに向い合って腰掛け、目を合わせて、お互いフフッと照れ笑いをした。
――何よあれ! どういう事なの!? ほむらは違和感を覚えた。 - 514: 2011/07/14(木) 20:15:27.16 ID:G0xaiGGno
- ほむらが混乱をしていると、彼女の隣に腰掛けた杏子が、
「昨日は色々ありがとうな、あたし達、恋人になれたんだ」
と、耳打ちしてきた。
杏子のその様子はしおらしく、杏子がさやかをモノにしたのではなく、さやかが杏子をモノにしたのだと言うことが、
ほむらにもなんとなく理解が出来た。
それはほむらを更に混乱せしめる状況であった。
「よかったね、二人とも。 仲直りできたんだね」
まどかがそう言うと、さやかと杏子はまた、見つめ合ってフフッと笑い、
杏子が運んできた朝食を箸に取り、さやかのもとまで持って行き、
「くうかい?」 「あーん」
とか、
「あ、杏子のほっぺにご飯粒が付いている。 食べちゃお」
などと、正視に耐えない恥戯の限りを公衆に披露し始めたのである。 - 515: 2011/07/14(木) 20:16:21.20 ID:G0xaiGGno
- ――何? このバカップルの骨頂は!?。
それを見たほむらは、同席している自分らまでもが恥にまみれてしまっているかのような不快感に眉をひそめた。
「まどか、あなた何かしたんでしょう?」
ほむらが問い掛けたが、
「二人が頑張ったんだよ。 テヘッ」
まどかは話をはぐらかし、いたずらっぽく笑みを浮かべるだけであった。
ほむらは更にワケが分からなくなり、独りだけ置いて行かれたような状況に、からかわれているような怒りが込み上げてくるのを感じた。
「一体なんなのよ? 何がベリーハードよ? 馬鹿馬鹿しい!」
ほむらは、やはり来年はこの二人を連れてこないことにしよう、そう思った。
杏子「あたしの恋はベリーハード」 完 - 535: 2011/07/24(日) 12:01:14.73 ID:ceiqhnp9o
- 番外章1 メンテナンス・デイ
朝食後、ほむらたちの部屋でくつろいでいると、またも杏子にお預けを食らわせてさやかがまどかと会話をしていた。
「…本当はね、マミさんも、一緒に来たらどうかなあって、思っていたの…」
ほむらは、まどかのその言葉にぴくりと反応をした。
さやかのバイト先の先輩だった巴マミは、すべての黒幕、久兵衛の情婦であった。
マミは久兵衛と何らかのトラブルがあったのか、自宅で首を吊って死んでいるのを、久兵衛自身が通報し、ほむらが現場に召集され、
その自殺を、ほむらが無理やり久兵衛による他殺とでっち上げ、彼の家を捜索する為の踏み台にしたという、
いくら事件解決のためとはいえ、思い出したくない過去があったのであった。
そしてその後、久兵衛はマミの後を追うように事故死し、彼に証拠隠滅をさせずに、大量の資料が手に入ったのであった。
しかし久兵衛のほうが一枚上手で、彼の自宅にあった資料だけでは、捜査の足がつかないようになっていたのである。
今でも憶えている、あの時、ほむらはあの男に負けたと思ったのであった。 - 536: 2011/07/24(日) 12:01:46.03 ID:ceiqhnp9o
- 「ふうん、マミさん、死んじゃったんだよね…」
「うん…あんなに幸せそうだったのに…どうして自殺なんか…」
まどかが悲しいことを思い出して、泣きそうになっている…
ほむらは自分の出番だと思ったが、さやかがまどかを抱き寄せて、その頭をなで始めるのを見、
やはりコイツは殺しておくべきだった、と思った。
全く、美樹さやかには気遣いとかそういうものが無いのだろうか?
「幸せそうだった?」
「うん、買い物の途中に一度だけ、見たことがあるんだけど、彼氏とデートの約束があるからって、とっても嬉しそうだったの…」
「マミさんの彼氏、ねえ…」
さやかは、その男に心当たりがあった。
――久兵衛。
やっぱりあの男は、女の子を不幸にする奴だったのか、と、さやかは怒りと共に、自分にグリーフシードを渡したその顔を思い出した。 - 537: 2011/07/24(日) 12:02:26.13 ID:ceiqhnp9o
-
… - 538: 2011/07/24(日) 12:02:52.25 ID:ceiqhnp9o
- その日、マミは見滝原駅近くの「イザベル門」の前で久兵衛を待っていた。
「あっ、マミさん! こんにちは!」
そこに、買い物中のまどかが通りかかったのであった。
「あら、鹿目さん。 こんにちは」
「…誰か待っているんですか? なんだかとっても嬉しそう…」
まどかの問いに、マミは嬉しくなって、
「今日は、彼氏とデートなの!」
弾むように答えたのだった。
「――それじゃあ私、お邪魔にならないうちに退散しますね」
まどかが買い物に戻るのを見送った後、マミは腕時計を見て、溜息を吐いた。
久兵衛は約束の時間を十五分過ぎても、現れないのであった。 - 539: 2011/07/24(日) 12:03:20.05 ID:ceiqhnp9o
- 「…ねえ彼女、誰か待っているの?」
マミが声の方に目をやると、髪を染め、耳にピアスを付け、チャラチャラした服装の男が2名、立っていた。
無論それぞれの陰茎も彼らと同様、起立の姿勢をとっている事は言うまでもなかろう。
マミはすぐさま目を逸らしたが、一瞬彼らと目を合わせてしまったという事実は、最早ロックオンをされたのと同義であった。
二人のチャラ男は素早くマミに接近し、彼女を他の通行人から覆い隠すように立ちはだかった。
「君、可愛いね…これから俺達と楽しいコトしない?」
「…結構です」
否定の意味を込めてマミは言ったのだが、
「結構ってことは、OKって意味だよね、じゃあ行こうよ」
チャラ男は悪徳商法よろしくそれを肯定の意味にすり替え、勝手にマミの手を取って歩き出そうとした。 - 540: 2011/07/24(日) 12:03:59.22 ID:ceiqhnp9o
- 「ちょっと止めてください! 彼氏が来ますから!」
「でも君、さっきからずっと待っているよね? 彼氏、デートすっぽかしたんじゃないの?
そんな男のことなんて考えなくていいから俺達と遊ぼうよ!」
「もうすぐ来てくれるんです、離して!!」
往生際の悪いマミを見、マミを引っぱっていない方のチャラ男が、
「すみませーん! この人の彼氏って、どこかにいませんかあー!」
まるで街頭募金活動のごとく通行人に大声で訴えかけたが、当の彼氏である久兵衛はどこにも居らず、
その他の通行人は誰も彼もが見て見ぬふりを決め込んでいるようであった。
「居ねえじゃん! さあ、行こうよ! あれ、俺達の車だからさあ!」
マミを引き摺る男が指さしたのは、真っ黒で、スモークをガラスというガラスに張り巡らした、車高の低い下品なミニヴァンであった。
原型はコロモ自動車のエスティバのようであったが、そんな事はどうだっていいだろう。
しかもよく見ると、「カーセックス専用」と書かれたステッカーが貼られているではないか! - 541: 2011/07/24(日) 12:05:55.29 ID:ceiqhnp9o
- ――あれに連れ込まれたら、もう終わりだ――
マミは必死に踏ん張って抗ったが、男の力は当然マミのそれよりも強く、彼女はジリジリと趣味の悪い車にその体を近づけていった。
通行人は、マミが目を向けようとすると、その視線を避けるようにそっぽを向いたり、
踵を返し、もときた方に戻って行ったりして、誰しもが無関係を必要以上に体中で表現している。
不意にグイ、と、更に大きな力に、マミはつんのめって車に向け、更に前進させられた。
見ると、もう一人のチャラ男もマミを引き摺るのに加勢していた。
「ショウさん、助かるっす!」
「いいから早いとこ乗せちまおうぜ!」
マミは歯を食いしばって耐えるが、それでも体が進んでいく。
そしてズルズルと底を舗装に引っかかれている視界の中の靴は、次第に涙に滲んでいくのだった。 - 542: 2011/07/24(日) 12:06:38.42 ID:ceiqhnp9o
- その時久兵衛は、マミが拉致されそうになるのを遠巻きに見物し、陰茎を勃起させ、腹を抱えて笑っていた。
マミをナンパしている二人のホストのうち一人、通称「ショウさん」は、彼がクスリを流通させるのに使っている下っ端であった。
「アハハッ! あいつら、何やっているんだ? まるでアリじゃないか!」
久兵衛には、二人のホストがその車にマミを連れ込もうとしている様子が、アリが餌を巣に運び込もうとしている様に見えた。
小さな虫をいたぶってアリの巣のそばに置くと、ちょうど今のマミのように、足を踏ん張り、抵抗しながら引き摺られていくのだ。
久兵衛は笑いながらマミを見た。
マミはイヤイヤと顔を左右に振りながら、引き摺られている。
「ハハハッ…マミ、必死じゃないか! 頑張れ! 負けちゃうぞ!」
久兵衛は爆笑しながら見ていたが、そのマミの表情を見やったとき、
その笑顔は血の雫が凝固するように、急速にその感情を放棄し、引きつって固まった。
マミの目に、涙が見えた。
泣いているじゃないか――
久兵衛は胸を冷やす黒い予感に突き動かされ、走りだしていた。 - 543: 2011/07/24(日) 12:07:10.36 ID:ceiqhnp9o
- 久兵衛は充分間に合う距離まで接近すると減速し、呼吸を整え、悠々と、まるで今来ましたよと言わんばかりにナンパの現場に歩み入り、
「やあ、マミ。 なんだか賑やかだねえ」
軽く手を上げ、にこやかに問いかけた。
「新しい友だちが出来たのかい?」
「久兵衛!!」
マミが張り裂けんばかりに久兵衛の名を呼ぶと、ショウさんと呼ばれたホストがギクリと動きを止め、手を離した。
「き…久兵衛さんっすか…」
「ちょ…ショウさん、なんで手え離すんすか?」
「おい、そいつ離せ! いいから!!」
ショウさんの並々ならぬ様子に、しぶしぶもう一人のホストもマミを開放した。
「久兵衛!!」
マミが久兵衛の胸に抱きついていく。
ショウさんは久兵衛にペコリと頭を下げ、
「すいませんっす…久兵衛さんの女だとは露知らず…」
しおれた菜っ葉のようになって謝罪をした。 - 544: 2011/07/24(日) 12:07:41.00 ID:ceiqhnp9o
- 「まあいいけどね、君たち、女性をナンパする際は、もう少しスマートにやらなきゃあ駄目じゃないか」
久兵衛の諭すような口調に、ショウさんは、
「ハイっす! すみませんっす!」
と、一言謝るたびにペコペコとお辞儀をしており、隣で唖然としているもう一人の後頭部を鷲掴みし、
「お前も謝れ!」
と言って、その男の頭を無理やり下げると、その男も、
「すみませんす」
と謝罪したものだから、久兵衛には彼らがお辞儀をすると謝罪をする仕掛けになっている人形に見え、思わず笑ってしまった。
そしてひと通り笑うと、
「もう飽きたから君たちどっか行けよ」
と冷たく突き放し、それを聞いたホストたちは下品なミニヴァンに乗って、ビリビリという下痢のような排気音と共に居なくなった。 - 545: 2011/07/24(日) 12:08:16.24 ID:ceiqhnp9o
- イザベル門をくぐった先にあるミヒャエラ芸術公園のベンチで、久兵衛は泥人形のようなオブジェを見ながら、退屈をしていた。
何でも芸大生達の作品らしいが、久兵衛にはゴミにしか見えない。
百年先もそう呼ばれる物にのみ、芸術の名を与えていいのだと、彼は思う。 しかし目の前のオブジェは百年後、ゴミになるに違いないのだ。
そんな事を考えている久兵衛の隣に腰掛けているマミは、かれこれ30分以上、泣き止もうとしていない。
久兵衛はそんなマミを見捨てて、家に帰ろうかと思っていた。
しかし、それでは当初の目的を達成できないため、久兵衛は黙って彼女の隣にいるしか出来なかったのである。
久兵衛の頭の中の予定表に、この日はメンテナンス・デイと記されていた。
付き合い始めて2週間。
来る日も来る日もいじめ抜いていたら次第にマミの様子が狂おしくなっていったので、
久兵衛はそろそろ、飴と鞭の、飴の日、つまりマミの豆腐メンタルを回復するために、
いじめをやらないで、全面的に優しく接してやる1日を設ける必要性を感じたのであった。 - 546: 2011/07/24(日) 12:08:47.55 ID:ceiqhnp9o
- 付き合い始めた当初は、どれだけ早く潰して死なせようか考えていた久兵衛であったが、
ここでマミに優しくし、その寿命を伸ばしてやろうと考えたその理由に付いては全く分からなかったし、考えようともしなかった。
いつもの気まぐれだと、久兵衛はそれ以上思考を進めることを放棄したのだ。
それはその思考の末に鎮座している答えを得るのが、恐ろしかったからなのかも知れない。
とにかくこの日は、久兵衛がそれと決めたマミのメンテナンス・デイであった。
徹底的に優しくし、情婦の寿命をのばす試み。
目標を立てたらそれを達成しなければ気持ち悪くなるタチの久兵衛であったから、
とにかくここでマミを捨てて帰ることだけは出来ないことであった。 - 547: 2011/07/24(日) 12:09:20.56 ID:ceiqhnp9o
- 「なあ、いつまで泣いているんだよ?」
久兵衛は半ばうんざりしながら、隣のマミに話しかけた。
このままでは、マミが泣き通したまま、その目的を達成できずにメンテナンス・デイが終了してしまう危惧がある。
「…怖かった…」
マミが、風に草のこすれ合う音のような微かな声を上げた。
「はあ? 何だよ? 聞こえないって」
「…怖かったの…!」
久兵衛のぶっきらぼうな問い掛けに、マミはしゃくり上げながら同じ言葉を、少し語気を強めて繰り返した。
久兵衛は呆れきって、
「怖かったって、君ねえ、あんなのはチンピラのうちでも最も下等な部類に入る奴らだよ?
あんなのを怖がっていたら、街なんか歩けないんだって。
それに彼らは女を喜ばせるプロだから、連れていってもらえばきっと僕なんかと居るよりずっと楽しかったと思うよ。
世の中どうなっているのか、金払ってまであんなゴミみたいな連中と遊びたいってバカな女がゴマンといるんだからね。
おい、分かっているのかい? 君は無料でホストと友だちになれる機会を逃したんだよ?
全くそんなだからいつまで経っても友だちができないんじゃないか。
あいつらに電話して、もう一度来てもらうからさ、一度騙されたと思って、あのダンゴムシみたいな車でどっかに連れて行って貰えよ」
皮肉たっぷりに答えてやったが、言った後でいつものいじめる調子に戻っている己に気が付いた久兵衛は、ハッとして固まった。 - 548: 2011/07/24(日) 12:10:04.14 ID:ceiqhnp9o
- マミの方を見ると、予想通り、久兵衛の言葉に含まれる毒気に当てられて、搾り出すような泣き声まで上げ始めた。
「…どうしてそういう事、言うの?
あなたの事が好きなのよ…あんな人達に付いて行ける訳ないじゃない…!
それなのに久兵衛ったら…酷いわ! あんまりだわ!」
通行人がチラチラと、発狂しかけ、泣いているマミの方を見ていくようになった。
久兵衛は我慢がならなかった。 さっきナンパされていた時もそうだった。
マミの泣き顔を、久兵衛は他人に見せたくなかったのだ。
一番いい表情は、自分だけのものにしておきたい。
久兵衛はとっさに、通行人から隠すように、マミをその胸に抱き寄せていた。
「ああごめん…本当にごめん(棒読み)…おいマミ、謝っているじゃないか? いい加減にしろよ…なあ…もう泣くなって」
久兵衛はマミを抱き寄せ、あやしながら、自分たちを見物している通行人に、
「オイ、見てるんじゃねえよ」
ガンを飛ばし、追い払った。 - 549: 2011/07/24(日) 12:10:40.25 ID:ceiqhnp9o
- マミは久兵衛の胸でしばし震えた後、顔を上げ、
「もう酷い事、言わない?」
かすれた声で問いかけた。
「ああ」
「ねえ久兵衛…」
「何だよ?」
「私のこと、好き?」
久兵衛はあまりに馬鹿げたマミの問いかけに絶望し、本当に面倒な女だ、と思ったが、
「ああ、すきだよ」
これで済むなら安いものだ、と思い、一息にそう言った。 - 550: 2011/07/24(日) 12:11:06.26 ID:ceiqhnp9o
- 「本当に?」
同じ質問を繰り返すマミに怒りが突沸しそうになったが、脳内にメンテナンス・デイと三度唱え、久兵衛は何とか耐え切った。
「ああ、本当さ。 マミ、君が好きだ」
久兵衛はあまり嘘を付きたくなかった。
嘘も言い続ければ、本当になってしまいそうな気がする。
建前の天秤が、嘘を付くたびにぐらぐらと揺れるのだ。
「…ありがとう、久兵衛」
マミは涙に濡れたその顔に笑顔を滲ませた。
笑顔は、嫌いだった。 何故なのかは考えない。
また天秤が、ぐらぐらと揺れている気がするせいかも知れない。
久兵衛は、訳も無く胸がむかついてくるのを感じて、マミから目を逸らした。 - 551: 2011/07/24(日) 12:11:36.88 ID:ceiqhnp9o
- 「昼飯を食べに行こう」と、久兵衛が立ち上がると、マミは彼に許可を取ることもなく、彼の手を握った。
久兵衛はムカッとし、振りほどこうとしたが、
今日は何の日? ルッルー♪
と、どこかで聞いたような歌が脳内再生され、それが不可能になった。
手を繋いだまま、歩き出す。
通行人にジロジロ見られて不快だったので、いちいちガンを飛ばしながら歩いていたら、目が疲れて大変だった。
結局、通行人の視線は無視することにした。
「ねえ、お昼どこに行くの?」
「…どこか行きたいところでもあるのかい?」
「うーん…と…久兵衛が行きたいところなら、どこでもいいわ」
「じゃあ聞くなよ」
久兵衛は、こんな調子のマミとの会話にも、ほとほと疲れきっていた。 - 552: 2011/07/24(日) 12:12:12.16 ID:ceiqhnp9o
- マミは、久兵衛が飯を食いに建物に入ろうとすると、足を止めて抗った。
「何だよ? ここ、気に入らないのかい?」
「…久兵衛…ここって…」
「ゲルトルートホテルだよ。 それがどうしたんだい?」
「ここで食べるの?」
久兵衛は既にかなり腹が減っており、ホテルの入口で逡巡しているマミをぶん殴りたくなったが、何とか押さえ、
「高級ホテルのレストランで昼飯食っちゃダメなのかい?」
と吐き捨てて、マミを引き摺るように回転扉に入っていった。
途中でマミは、一階にある「アントニー」とか言う安くさいバイキングレストランに立ち止まろうとしたが、久兵衛はそんな彼女を無視し、
乱暴に引きずりながらエレベーターに乗り込み、そのまま最上階に上がっていった。 - 560: 2011/07/25(月) 19:04:34.06 ID:PJIL60mEo
- エレベーターの先は、別世界のようであった。
分厚い絨毯を引かれた薄暗い廊下の先にはスーツを着こなした人形のような男が直立しており、久兵衛を見るなりペコリとお辞儀をした。
「予約していた久兵衛だけど」
「お待ちしておりました。 こちらへどうぞ」
マミは久兵衛に連れられてテーブルまで来たが、放心状態で座ることさえ忘れていた。
「座れよ」
「あ…はい…」
マミはキョロキョロしながら座ったが、その後もおろおろと落ち着かなかった。
「ねえ…」
「何だよ?」
「ここ…高いんじゃない? 私…お金…」
とってもいいコなマミは、食事は割り勘だと思っていたのだった。 - 561: 2011/07/25(月) 19:04:59.77 ID:PJIL60mEo
- 「いちいち気にするなよ。 誰も君の財布なんか当てにしていないからさ」
久兵衛は、奇妙だと思った。
今まで食事を共にした女たちの中に、自分の財布を気にするものはこのマミ以外一人も居なかったからである。
「でも…なんか…悪いわ…」
もごもごと何事かを言っているマミに対し、イラついた久兵衛は、
「じゃあ君だけ外に出て、ランランルーにでも行って独りでハンバーガーでも食べるがいいさ。 僕はここで魚介類のコース食べるから」
と、突き放すように言うと、やはりマミは俯いて泣きそうな顔になったので、久兵衛は慌てて、
「…って言うのは冗談だからね」
と、取り繕わねばならなかった。
疲れる一日である。 久兵衛はマミを見て、早く明日になれよ、そうしたらボコボコにいじめてやるからさ、と、心のなかに呟いた。 - 562: 2011/07/25(月) 19:05:32.50 ID:PJIL60mEo
- 「前菜はスモークサーモンのサラダ、リケソのノンオイル青じそドレッシング和えでございます」
久兵衛は小皿が置かれるなりぺろりと平らげたが、
マミは、「わあすてき!」とか「おいしい!」とかいちいちリアクションしながら、ちまちまと大事そうにサラダを食っている。
「そんなに美味いなら、どうしてちびちび食べているんだよ?
本当は不味いんだろ? 正直に言えよ」
「本当よ、美味しいわ。 こういう所で食べたこと無いから、きちんと味わって食べているんじゃない!」
マミは半ばムキになって答えたので、久兵衛は激しい徒労感に襲われ、もう話しかけるのはやめようと思った。
「ふうん」
マミの気に障らない話題というのは、どういうものなのだろうか?
話しかけるたびに機嫌を悪くされるのでは、マミのメンテナンスは失敗に終わってしまうのが眼に見えている。 - 563: 2011/07/25(月) 19:06:11.43 ID:PJIL60mEo
- 「妙に慣れているみたいだけど、久兵衛はここ、よく来るの?」
マミは前菜を食べ終わると、探るように聞いてきた。
「まあね」
久兵衛が軽く答えると、マミは疑いの色を濃くしたジト目になり、
「ふうん、だれと?」
と、刺のあるアクセントで聞いてきた。 別の女と来ていると思ったらしい。
しかしそうではなかったので、久兵衛は、
「独りで」
またサラリと答えた。
久兵衛がここに来るようになったのはマミリーマート入社後の事であり、
それから今までの間、セックスフレンドやレイプは別にして、マミ以外の誰とも付き合っていなかったので、
このレストランに女と来ていないのは本当だった。
「嘘! 独りでこんな所に来て、どうするのよ!」
存在しない女に対する嫉妬でヒステリーを起こしかけているマミを見て、心の底からうんざりした久兵衛は、
「人を見ているんだよ。 面白いんだ」
当たり前だろ、というふうに、本当のことを言った。 - 564: 2011/07/25(月) 19:06:55.08 ID:PJIL60mEo
- 「人を見ている? それ、本当に面白いの?」
久兵衛を射ぬく為に照準しているかのような疑いの視線は、疑問に遷移し、行き場を無くして宙に浮いた。
「そうさ、ここは今みたいにランチタイムもやっているだろう?
でも圧倒的に人気なのは、ディナータイムの方なんだ。
僕も初めて来たのは夜だったんだけど、なんて言うのかなあ、
ここで夕食を取っている連中ってさ、ほとんどカップルだったんだけど、違和感があるように感じられたんだよね」
「違和感?」
マミが問うたとき、
「…あさりのコンソメスープ、アジノ・モ・ト風でございます」
給仕がスープを持ってきたので、二人は話を中断し、ありがとう、と、ねぎらいの言葉をかけた。
給仕が居なくなると、久兵衛はスープの表面をスプーンで撫でながら、切れた話題をその動きでたぐるように話を再開した。
「…彼らは演じていたんだ。 操られているようでもあった。 その不自然が、違和感の正体だった」
「…それって、どういう事なの?」
「だいたいカップルがこういう所に来るのは、記念日とか、プロポーズとかが多いって言うのは、分かるだろう?」
久兵衛がそう言ったとき、マミの表情が期待の色を纏って輝いたが、彼はスープの方に目をそらしてそれを無視した。 - 565: 2011/07/25(月) 19:07:26.97 ID:PJIL60mEo
- 「そういう奴らって、言っていることが大体同じなんだよね。
人間ていうのはさ、人それぞれぜんぜん違うだろう?
なんでそういう時だけはステロタイプに、みんな同じセリフを吐くのかなって、僕は疑問に思い始めた。
そんな時ね、カップルたちの会話の、個性とも言えないいくつかのパターンの中に、
必ず存在する共通項みたいな話題を見つけたんだ。 何だと思う?」
マミはしばし黙し、考え込んだ後、
「分からないわ」
と、呆気無く降伏宣言をした。
久兵衛はスープを一口すすってから、
「夜景さ」
と、答えてやった。 - 566: 2011/07/25(月) 19:08:03.62 ID:PJIL60mEo
- 「夜景?」
「そう、彼らは必ず、この展望レストラン『アーデルベルト』からの夜景を美しい、と評し、これに絡めて愛の言葉を紡ぐんだ。
僕はそれに気が付いた後、ランチタイムにここに訪れてみようと決心した」
そう言って、久兵衛はガラスごしの景色を顎で示した。
「見るがいいさ。 ステロタイプな愛の言葉を触媒する、美しい夜景の正体を」
マミは、黙って眼前に広がる見滝原中心部の景観を眺めている。
「目の前の道路はクリームヒルト大通り、あの建物は市役所だね。
市役所は夜になると税金を無駄に使ってライトアップし、それはそれはあやしくその姿を浮かびあげる。
向こうに見えるのが見滝原駅の駅舎だね。 それと駅ビル。
あそこにはネチズンウォッチの、宣伝看板を兼ねた時計が見えるだろ?
あれも夜になるとピカピカとうるさいんだ。
ずーっと向こうに我がマミリーマートの本社ビルがあるんだけど、それはここからじゃあ見えないね」 - 567: 2011/07/25(月) 19:08:38.18 ID:PJIL60mEo
- くだくだとしゃべくっていると、マミが、私も…と、小さな声でなにか口を挟んだが、久兵衛はそれを無視して語り続けた。
「まあそんなふうだけどね、どうだい? きったない景色だろう?
地上十五階のここからみると、少し空気が霞んでいるのも分かるし、
渋滞でよちよち進む車を見ると、ここまで排気ガスのむっとした臭いとエンジンの熱が漂ってくるようで不快極まりないね
こんなのを、夜になって、電気がつくだけでロマンチックだとか、綺麗とか言って、
まるでクスリでもキメているようにトロンとした目をして、愛してるだの、これからも一緒だのと言っている連中ってのは、
おめでたいというより、可哀想になってくるだろう?
連中は、暗闇、そしてそのなかで人類が営むために付ける明かりにごまかされた景色と、
この高級レストランというシチュエーションに騙され操られて、その勢いで空っぽの、誰に言わせても同じような愛の言葉を、
演じるように、ぼんやりと語っていたんだな。
そんな催眠術みたいな仕掛けで男と女が簡単にくっつくから、世の中ろくな事が起こらないんだよ。
まあなんて言うのかな、ここに喜び勇んで夜景を見に来る連中なんて言うのは、浅はかなにわかってとこかな。 つまりバカなんだよ」
語り終え、得意げにマミを見てみると、まるで自分が悪口を言われたかのような、いつもの泣きそうな顔になっており、
それを見て久兵衛はシマッタ、と思った。
もしかしてさっき私も…と何か言っていたのは、「私も夜景を見てみたい」とでも言ったのではないか!? - 568: 2011/07/25(月) 19:09:25.08 ID:PJIL60mEo
- 久兵衛は、自分の顔がみるみる青くなっていくのを感じながら、マミの機嫌を直すその言葉を脳内検索エンジンフル回転で探り始めた。
「えっと、だからさ、なんて言うのかな、そう、夜景を見たいというのは、悪くないアイデアではあるが、その、手順が問題なんだな…」
そう言って、その先を考えながらマミの方に視線を向けると、彼女は充血して涙の用意をしている眼で久兵衛を見据え、
「手順?」と、ちりのように小さくかすれた言葉を発して彼の言葉をじっと待っている。
「そうだ、僕は夜景の種明かしを知ってしまった。
その上で、ここから夜景を見、美しいと思うのと、最初から夜景しか知らないのでは雲泥の差がある。
今日君に、昼間の汚い景色を見せたのは、まずその美しさの種を知っていて欲しかったからなんだ。
だってそうだろう? その種を知っている僕が、知らない君をいきなり夜ここに連れてきて、
夜景を見せて喜ばせるなんて、まるで騙しているみたいじゃないか?
いいかい、芸術はね、こういう何も無いところから生まれるんだよ。
このきったない景色を見た後で、夜景を見てみたいと思うのは、とても素晴らしいことだ。 芸術の本質をよく分かっている!」
久兵衛は、いつものことながら清流のようによどみなく吐き出る嘘のセリフに自らも酩酊しながら、
どうだい?というふうにマミを見やると、
「それじゃあ、久兵衛は私に嘘を付きたくなかったから…」
とか言いながら、翳っていた表情がみるみる明るくなって来る。
吐き出す嘘と受け取る方の信じたい内容がうまく噛み合ったことに満足しながらも、
久兵衛は急に明るみを帯びたマミの表情が、夕暮れ時に点灯し始めたイルミネーションのように思え、ギクリと背中が冷え上がった。 - 569: 2011/07/25(月) 19:09:55.81 ID:PJIL60mEo
- 「シタビラメのムニエル、イヌカレー風です」
メインディッシュが運ばれてくると、久兵衛は話題を変えるチャンスだと思い、
「どうだい? おいしいかい?」
と、聞いてみると、マミは満足そうに、うん、と返事をしてくれた。
「意外だね、僕は君がこのレベルの料理に満足できるかどうかは、ちょっと怪しいな、と、思っていたんだけど…」
「…どういう事?」
「君なら、もっと美味いものを知っているだろう?」
マミは顔中に疑問を浮かべて、久兵衛を見、また探るような顔つきになって、
「久兵衛、もっと美味しいところ知っているの?」
と、聞いてきた。 - 570: 2011/07/25(月) 19:10:28.75 ID:PJIL60mEo
- 久兵衛はそんなマミの様子を見、失言をしてしまった、と思った。
「まあどうでもいいじゃないか、美味しいならいいんだ。 満足だろ?」
久兵衛はそう言って取り繕ったが、マミは執拗であった。
「確かに美味しいわ。 だけどそれとこれとは別よ! もっと美味しいところを知っているのに、私には教えないのね!
一体誰となら一番のお店に行くの?」
また言外に架空の女を引き合いに出し、セルフ嫉妬をしているマミを見て、久兵衛は不思議に思った。
そこまで浮気を疑うということは、逆に浮気をして欲しいのではないか? この女は、嫉妬がしたくてたまらないのではないか?
しかし今は目の前の問題を何とかしなくてはいけない。
一番美味しい所に食べに行くことは、マミに負担をかけることであり、それは本日の性質上、してはならないことであった。 - 571: 2011/07/25(月) 19:11:05.80 ID:PJIL60mEo
- 「教えて、どこが一番なの? そこに行かなくてもいいから、教えて。 出来ればだれと行くのかも」
どんなにごまかそうとしても、マミは梃子でも動かなそうである。
出来れば、とか言っているが、本当は誰と行くのかを一番知りたいのだろう。
久兵衛はしぶしぶ口を開いた。
「君の家だよ。 普通にいつも僕が訪ねた時に君が作ってくれる料理のほうが美味いじゃないか。
だけど今日は君に負担を掛けたくないから、外食にするって決めたんだよ」
それを聞いて、マミはみるみる嬉しそうな顔になり、
「じゃあ夕食は家で食べましょう! あなたの好きなオムレツ作ってあげる!」
と、宣言し、久兵衛はまたこれを奇妙に思った。
「でも、夕食も料亭に予約してあるんだけど…」
――せっかく料理を作る手間を省いてやっているのに、自分から料理を作りたいと言い出すんじゃあ、
僕は何のために骨を折っているのかわかりゃしない。
もしかしたらこの女、僕に優しくされるのも迷惑なんじゃああるまいか――。
久兵衛は、目の前の、マミの喜色満面の理由が分からず、ただただ不気味だった。 - 572: 2011/07/25(月) 19:11:35.62 ID:PJIL60mEo
- 「あのさあ、料亭のキャンセル料、結構するんだよ?」
久兵衛がそう言うと、マミは先程までの態度がどこへやら、急にしぼんだようになって、
「そう、それは残念だわ…久兵衛に負担をかけるわけにも行かないものね…」
心から残念そうに言った。
「君はお刺身とか、和食は嫌いなのかい?」
「好きよ」
「じゃあいいじゃないか。 今日の主役は君だから、わざわざ僕に気を使う必要なんか無いんだよ」
言葉でマミを、頭から抑えつけるようにしてやるが、彼女はまだ納得がいかないようであった。 - 573: 2011/07/25(月) 19:12:15.33 ID:PJIL60mEo
- 「どうしたんだい? 外食、嫌なのかい?
そんな顔されたんじゃあ、僕としても楽しくないから、気に入らないことがあるならちゃんと言ってもらえるかな?」
マミは、食事の手を止めて、
「あなたに負担を掛けたくないの…私に気を使ってくれるのは嬉しいけど、あまりお金のかかるところは…」
と、辛そうに身を捩りながら、言った。
それを見て、はっきりと久兵衛は、このマミが今までの女と違うのだということを認識した。
チンピラ時代に付き合った女は、久兵衛が飯をおごったり、何かを買い与えたりするのが当たり前だと言わんばかりに振舞った。
そしてその度に増長していき、それが久兵衛の目に余る状態になるくらいに、彼が女を壊し始めるのがだいたいのパターンであった。
年が若くて浅ましさが育ちきってないからなのか、今までのDQN女達と違って育ちがいいからなのかなんなのかは分からないが、
とにかくこのマミは異質であった。
しかし久兵衛にとって、その事実はうれしさよりも、今までとは勝手が違うという扱いづらさ、面倒くささが先に立つ。
それは、その受け取り方は、とても悲しいことであったが、久兵衛は勿論そんな事実に気づくことはないのだった。 - 574: 2011/07/25(月) 19:12:45.25 ID:PJIL60mEo
- 「そんなに男の財布に気を使うなんて、君は普通じゃないね。
とにかく、今日はそのまめまめしい性格を何とか抑えこんで、僕の財布の心配は一切しないことだね。 出来るかい?」
久兵衛が一息に言うと、マミは暗い顔で、うん、と頷いた。
「そのほうが、僕も気が楽ってもんだ」
久兵衛はそう言って、冷めないうちにと、急いでムニエルを口に運び出した。
メインディッシュが下げられ、デザート、コーヒーと続いても、
マミの表情はどこか物憂げで、抱えている心配の種がなんなのかわからない。
久兵衛はさすがに疲れ切り、そんなマミを無視して、味気ない料理を胃袋に放りこみ続けた。 - 575: 2011/07/25(月) 19:13:18.20 ID:PJIL60mEo
- ホテルを出、マミに何かを買ってやろうと駅前の中心街に向けて歩いていると、
ふと彼女が立ち止まり、小さな公園に久兵衛を引っ張っていった。
まだ昼間であったが、久兵衛はマミが発情したのだと思い、公衆トイレの存在を確認し、歩きながら自らも陰茎を勃起させたが、
公園のベンチの前に来るなりマミが泣き崩れたので、彼は予想外の展開に対応策を見失った。
「私、あなたと別れたくない!」
ワケがわからなかった。
「( ゚Д゚)ハァ? どうしてそうなるんだよ?」
マミは久兵衛に抱きつき、泣き声に絡めながら言うには、
「だって今日の久兵衛、いつもと全然違うんだもの…まるで別人みたいで…とにかく怖いの…不安になるの…
もしかして、私のこと、嫌いになって…それでこんな風にしてくれるのかも知れないって…」
と、まるで要領を得ないので、
「ちょっと、訳がわからないから、どうしてそこまで不安になるのか説明してくれよ」
久兵衛はぐらぐら揺れる思考の中で、とりあえず何かをつかんで安定させるように、冷静を演じながら聞いた。 - 576: 2011/07/25(月) 19:13:53.96 ID:PJIL60mEo
- 「別れる前みたい…だって、もうダメだと分かっている病人とか、退院させて、みんなでパーティーとかしたりするでしょう?
なんか私も、そんな風されているように思えるの…今日の久兵衛…優しすぎるから…」
豪勢な飯をおごったり、優しくしたりするのが、まるで手切れ金であるかのように感じたらしい。
「そんなことないって…ないない…あるわけないじゃないか…」
今日何度目かわからないが、面倒な女だと思った。 やはりいじめられている方が性に合っているというのだろうか?
かと言って、今日もいじめ続けていたら確実に発狂しそうな勢いだったし、
一体この女のメンタルはどうやったら最良のコンディションに持っていけるのだろうか? と、さすがの久兵衛もお手上げ状態であった。
「…本当?」
「本当さ! 別れたりしないよ!」
――涙に濡れた瞳を見ていると、胸がズキズキと痛い。 後で痛み止めでも飲んでおこうと思う。 - 577: 2011/07/25(月) 19:14:21.58 ID:PJIL60mEo
- 「久兵衛…?」
「何だよ?」
「私のこと、本当に好き?」
またである。 この女は、一体何度同じ事を言わせれば気がすむのであろうか?
「すきだよ。 なんども言っているじゃないか」
「だって不安なんだもの…目を逸らすし…」
久兵衛はそう言われるとマミの眼を直視しなければいけない気がしたが、同時にそれを見てはいけない気もするのであった。
「目を逸らすのはねぇ、泣き顔なんか見たくないからさ!」
結局目を逸らしたままの、その口を衝いて出た言葉に、久兵衛は重く、黒い衝撃を受けた気がした。
いつもは泣き顔が見たくてたまらなくなってマミをいじめているのに、今日に限ってはそうではないというのか?
――もう、やめよう。 久兵衛はそう思った。 マミに優しくするのは今日限りだ。 でないと自分まで、おかしくなってしまう。
そうだ、気まぐれとはいえ、普段と違うことをすると、こんな風にろくな事にならないのだ。 - 578: 2011/07/25(月) 19:14:49.08 ID:PJIL60mEo
- マミは、そうね、泣き顔はよくないわね、とか言いながら涙を拭いて久兵衛に向き直った。
「ねえ久兵衛…もう一度好きって言って」
胸を圧するような痛みに抗うように、久兵衛はとっさにマミを抱き寄せていた。
「好きだよ、マミ。 大好きだ」
抱きしめると、マミの肩越しに人気のない小さな公園の景色だけが見えた。
顔を見なくてもいいと、楽に好きだと言える。
すんなりと、嘘が言える。
久兵衛は、今度から好きだと言うときは、マミを抱きしめてからにしようと思った。 - 579: 2011/07/25(月) 19:15:47.17 ID:PJIL60mEo
- 駅ビルのデパートで、久兵衛はマミを婦人服売り場に連れていったが、しばらくしてそれを猛烈に後悔し始めた。
マミはしばしば立ち止まり、引き返し、その度にワンピースやらブラウスやらを取り出して、
ハンガーのかかったまま自分の胸元に持って行き、久兵衛にどう? といちいち聞いた。
似たような服ばかりで、久兵衛はどれでもいいのではないかと思ったが、マミのこだわりは凄まじく、
久兵衛がいいと言っても、この模様が、この襟の形がと、どこか気に入らないとすぐに商品を取り替え、また久兵衛にどうかと聞いた。
自分がいいと意見しているのに、それを無視するならいちいち聞いてくれるなよ、と思いつつ、
久兵衛は彼にとって拷問のようなマミの服選びに付き合わされたのである。
そして、なにより恐ろしかったのは2時間ほど粘り付くように婦人服売り場に居たにもかかわらず、
マミは一着も服を買わなかったことであった。
久兵衛は婦人服売り場を離れる時、二度とマミと一緒に買物なんか行くものか、と、思っていた。 - 580: 2011/07/25(月) 19:16:17.08 ID:PJIL60mEo
- 漸く婦人服売り場から解放され、デパートをぶらぶらしていると、マミがデパート内の本屋に行きたいと言い出した。
「いいよ、行こうか」
「えっと…本屋へは、一人で行くわ」
「( ゚Д゚)ハァ? 何故だい?」
「い…いいじゃない…ちょっとそこで待っていてね」
マミは久兵衛を休憩用の長椅子に座らせ、いそいそと小走りで本屋の方に消えていく。
変態的なエロ本でも買いに行くのかと興味をいだいた久兵衛は、そんなマミを尾行することにし、立ち上がった。
途中、マミはキョロキョロと周囲の警戒をし、危うく久兵衛は見つかってしまうところであったが、
何とか彼女の警戒網をかわし、本屋の前まで到着した。
しかしマミは、本屋をスルーし、歩いて行くではないか!
久兵衛はますます興味を引かれた。 - 581: 2011/07/25(月) 19:16:43.36 ID:PJIL60mEo
- 結局マミが立ち止まったのは、宝飾店の前であった。
彼女は、ガラスケースにへばりつき、なにやら商品をみているらしい。
買わずに眺めているだけのマミを、店員が迷惑そうにしているのが面白くて、
久兵衛はクックッと忍び笑いをしてから、ソロリソロリと近づいていった。 - 582: 2011/07/25(月) 19:17:09.44 ID:PJIL60mEo
- 「…きれい…」
マミの視界には、ガラスケース内のプラチナネックレスが映し出されている。
トップにはトパーズだろうか? 黄色い宝石がセットされていて、トップを、宝石を中心とした花に見立て、その周りを5枚の花弁の輪郭を描くようにプラチナの線が飾っている。
ちなみにプライスタグには、78000円と書かれている。
「はあ…」
マミが溜息をつくと、ショーケースのガラスが吐息で少し曇り、しばらくすると晴れるようにもとに戻っていった。
「何見てるんだい?」
いきなり後ろから浴びせかけられた声に、マミは心臓が鷲掴みされたように感じ、それと連動するようにギクリと背筋が縮み上がった。 - 583: 2011/07/25(月) 19:17:53.99 ID:PJIL60mEo
- 「き、久兵衛…どうしてここにいるの?」
マミがまだ驚愕に昂ったまま収まりのつかない胸を押さえ、そう言いながら振り返ると、
「放ったらかしにされるのもつまらないからね、付いてきたのさ」
久兵衛は、マミの肩越しに伸び上がるように、ショーケースの中身を見ながら言った。
「君はこれが欲しいのかい?」
マミは観念したように、
「…そうよ、ちょっと前に見つけて、とても気に入ったから、それから少しづつお給料をためているの…
クレジットカードもあるけど…借金はこわいし…」
と、教えてくれた。
「ふうん、だから君は服を買わなかったんだね。 僕に言えば買ってあげたのに」
久兵衛が、疑問を解消させた心地良さとともにポツリというと、マミはそんな、悪いわと言って、寂しそうにショーケースを離れようとした。 - 584: 2011/07/25(月) 19:18:28.10 ID:PJIL60mEo
- 久兵衛はマミの手を取って引き止め、
「…何だよ、買わないのかい?」
と、聞くと、マミは、
「…まだお金が溜まっていないの」
残念そうに言った。
「まだって、君ねえ…いつになったら貯まる予定なんだい?」
「あと、3ヶ月位あれば…」
久兵衛は、ネックレス一つ満足に買えないマミの経済力を心から哀れんだ。
クスリで荒稼ぎしている久兵衛にとって、こんな金額ははした金の領域であったのだった。
「ええー、3ヶ月? そんな悠長なこと言ってたら、売れちゃうんじゃないの? 無くなっちゃうよ?」
久兵衛が嫌味っぽくマミをいじめていると、店員が目ざとく久兵衛に擦り寄り、そうですとも、このデザインは大変人気で…
などと講釈を垂れ始めたので、久兵衛はシッシッ、と、野良犬を追い払うように店員を遠ざけた。 - 585: 2011/07/25(月) 19:18:54.50 ID:PJIL60mEo
- 「つまり君は、お金を貯めるだけ貯めて、このネックレスを、
鳶に油揚げをさらわれるが如く、誰かに買われてしまうんだよ?
あーあ…可哀想なマミ! 君みたいなみみっちい消費者は、いつだってそうさ! 欲しい時に、肝腎の商品がないんだ!」
マミは、いつものように、目に涙を溜め、ブルブルと震え始めた。
泣き出す時のサインである。 久兵衛はすかさず、
「だから、僕が買ってあげるよ」
と、フォローを入れた。 するとマミは、えっ、と言って体の動きと表情とを硬直させ、我に返るとすぐ、
「そんな、高いし…悪いわ…」
またレストランの時と同じようにオロオロし始めた。
「…でも、ここで買わないと、他の誰かに取られちゃうよ? いいのかなあ? いいのかなあ?」
「…でも…悪いし…」 - 586: 2011/07/25(月) 19:19:43.94 ID:PJIL60mEo
- マミは強情であった。
どうあっても久兵衛に金を出させたくないらしい。
久兵衛は、やはりマミは異質だと思った。 最早彼にとって変人の領域である。
むしろ宝飾店に久兵衛を引っ張っていき、これ買って、と、傲岸不遜にねだるのが彼にとっての女のスタンダードであったから、
買ってやると言っているのになお峻拒するマミは、久兵衛にとって気味悪くさえあった。
「おーい、これ下さい。 着けて帰るんで包まなくていいです」
業を煮やした久兵衛は、勝手に店員を呼びつけ、そう伝えていた。
店員は、魚肉ソーセージを見せつけられた野良犬のように素早く近寄ってき、ショーケースを開け、ネックレスを取り出した。
マミはその様子を、本当に他人に買われてしまっているところに遭遇してしまったかのように、呆然と見つめている。 - 587: 2011/07/25(月) 19:20:15.63 ID:PJIL60mEo
- 「はい、プレゼント」
久兵衛は会計を終え、持ってきたネックレスをマミの首に装着してやりながらそう言うと、
今まで放心していたマミが弾けるような笑顔を作り、
「ありがとう、久兵衛!」
と、感謝し、興奮しながらショーケースの上に置いてある鏡にプラチナと黄色い石の輝く自分の胸元を写し、
「わあきれい!」とか「すてき!」とか、言いながら次第にボルテージを上げていき、仕舞いには泣き出す始末だったので、
久兵衛は慌ててマミの手を引き、階段まで連れていき、
「バカ! 人前で泣くなよ! 一体何が気に入らないんだよ!?」
と、必要以上に慌てなくてはいけなかった。
「…ごめんなさい…でも嬉しくって…嬉しくって…」
マミは涙を流しながら笑っていて、久兵衛はどっちかにしろよ、と、思いながら、
しかし嬉しいというのならメンテナンスは成功だな、やっぱり女の機嫌をとる時はモノを買ってやるに限ると、内心ほくそ笑んでいた。 - 588: 2011/07/25(月) 19:20:53.96 ID:PJIL60mEo
- 「嬉しいのは分かったからさあ、人前で泣くなって。 店員や通行人にジロジロ見られて、恥ずかしいんだから…」
「うん…ごめんなさい…ちょっとトイレに…」
と言って、マミが階段の踊場にあるトイレに入るやいなや、搾り出すような鳴き声が聞こえてきたので、久兵衛は本当に嬉しいのか?
と、心配になってきた。 本当は自分で買おうとしていた物が僕に買われてしまって、プライドを傷つけているのではないだろうか?
しばらくそんなことを考えていると、マミがトイレから出てきて、まだ涙の痕跡が見える顔で、
「ありがとう」とか「嬉しい」とかまた連呼しだしたので、久兵衛はその顔をハンカチで拭い、
「もうここを出よう。 ちょっと早いけど、料亭に行くんだ。
あそこなら個室だから、いくら君が泣いても人前に付かないしね」
と言って、その手を引きながら階段を、人目につかぬように急いで降りていかねばならなかった。
- 589: 2011/07/25(月) 19:21:22.42 ID:PJIL60mEo
- 外に出ると、既に辺りは薄暗くなってきており、
ビルのイルミネーションが輝きだし、車もポジションランプかヘッドライトをつけて走行している。
久兵衛はマミとタクシーに乗り込み、料亭の名を伝えた。
タクシーが動き出す。
一つ目の信号を右に折れ、次の信号で停まった辺りで、今まで買い物をしていた駅ビルの時計が窓の外に見えた。
「本当ね、時計の看板が綺麗に光っているわ」
レストランでの夜景の話を思い出しているのだろう。 マミがそう言って窓の外を指さした。
「ネチズンウォッチの宣伝看板だね。 今度またホテルのレストランで、夜に見てみようね」
久兵衛はマミにそう約束し、腕時計と、外で電飾が輝いている時計と、時刻が同じであることを確かめるように交互に見た。
どちらの時計にも、netizenというロゴが光っている。 - 590: 2011/07/25(月) 19:21:51.70 ID:PJIL60mEo
- 「…僕はね、ネチズン派なんだ」
久兵衛がポロッとしゃべると、マミはえっ? と言って夜景から久兵衛の方に向き直った。
「腕時計さ。 会社では、スイス製のオメーガとかロラックス、それにタグ・ハイヤーとか、国産ならサイコーが人気なんだけどね」
「そういうのって、こだわりなの?」
「子供の頃からのね。 腐れ縁みたいなものかな」
久兵衛は、そう言った後で視線を窓の外に転じ、話題を切ったが、
「あなたの子供の頃の話って、聞いてみたいわ」
そう言ったマミの言葉に、つまらない話だけどね、と、前置き、話し始めた。 - 591: 2011/07/25(月) 19:22:22.40 ID:PJIL60mEo
-
… - 598: 2011/07/26(火) 19:31:14.51 ID:NgDOzvxIo
- 番外章2 時の記念日
――久兵衛が小学校に入ったばかりの頃、彼の家はどちらかというと裕福な方ではなかった。
彼の父は、しがない地方公務員であった。 その当時、この国は景気が良く、民間の給与は公務員の俸給を完全に凌駕していたのである。
月曜日が来るたび、クラスメートたちが日曜日に遊びに行った先のことを話すのに、久兵衛はいつも羨望の眼差しを送ってばかりだった。
彼の家は、週末の度に、ネズミーランドだの、動物園だのに、遊びにいく余裕は無かったのだ。
そんな彼のこだわりがその萌芽を見た日――その日も、日曜日だった。
「久兵衛、ヘリコプターを見に行こう」
久兵衛は父の言葉に、退屈を感じながら読んでいた漫画本を放り出し、
「行く!」 と、脊髄反射で応答していた。
それは6月10日、時の記念日のことであった。 - 599: 2011/07/26(火) 19:32:06.35 ID:NgDOzvxIo
- 「ヘリコプター、どこに来るの!?」
久兵衛は運転席の父に、大声で話しかけた。
父の車は、安いというだけで買った中古の乗用車で、ズコバコとエンジン音が酷く、運転中は大声で話さないと聞こえないのだった。
「見滝原市役所だ。 ネチズンウォッチが自社製品の宣伝を兼ねた実験をするんだってさ!」
ボロボロボロボロ…ズドドドドっ…バコバコ
久兵衛は想像力をフルに発揮してみたが、時計とヘリコプターという二つのものがどうやっても結びつかなかった。
ズズズズッ…ゴクン…バコココココっ
それはこのお粗末なエンジンのせいでもあるのではないかと思う。
彼がいくら考える事に集中しようと思っても、エンジンのやかましさと振動が、積み上げた思考をいとも簡単に突き崩すのだった。
そしてしばらく乗っていると、シートを通して振動が股間を激しく突き動かし、決まって久兵衛は勃起をしてしまうのだ。 - 600: 2011/07/26(火) 19:32:35.79 ID:NgDOzvxIo
- 信号待ちの時間は、いきり立った股間を鎮める時間だったが、それがうまく行った試しがなかった。
むしろアイドリングの、低い回転に伴うドロドロした振動のほうが股間を優しく刺激し、陰茎は最早手がつけられない状態に育ってしまう。
そして自分のすぐ右で、エンジンの振動を拾ってガクガクと揺れているシフトレバーなんか見てしまうともうどうしようもない。
負けず嫌いの彼は、シフトレバーと張り合って、自らの陰茎を更に硬くしようとしてしまうのだ。
しかしいくら硬くしても、シフトノブが分身するほどの、あの振動だけは真似できない。
陰茎がなぜ硬く、大きくなるのかさえ分からない子供時代の久兵衛であったが、
陰茎をあのように振動させることができたら、きっとものすごい特技になるに違いない、と、何故か確信を持っていた。 - 601: 2011/07/26(火) 19:33:01.90 ID:NgDOzvxIo
- 信号が青になった。
ボルボルボル…ゴクッ
久兵衛は父親の真似をして、自らの陰茎をローギアに押し込んでみた。
「イテッ!」
ズダダダダッ…グン…バンバンバン…ガコン
「久兵衛、お前、なにチンコいじってるんだ?」
バコバコバコ…
「えっ?」 エンジン音にかき消され、父の声は聞こえなかった。
「なにチンコいじっているんだって、聞いてるんだ!」
漸く聞こえた。 大きな声で言うには恥ずかしすぎるセリフだ。 - 602: 2011/07/26(火) 19:33:31.09 ID:NgDOzvxIo
- 「いじってないよ!」
言ってしまった後で、久兵衛は自らの陰茎をズボン越しに握り締めている事に気がついて、その手を膝の上にすべらせてごまかした。
「別に悪いことじゃないぞ! 今のうちいじっておくと、チンコが大きく育つ! そうすると女の子にもてるんだ!」
信号で停止した途端に父は大声を張り上げて言った。
エンジン音のこもっている室内では聞き取りづらいが、窓を全開にしているので車の外にはよく聞こえるらしい。
歩道を歩いていた女の人が、顔を歪めて車を覗き込んだので、久兵衛はウィンドウレギュレターを超速で回し、汗みどろになって窓を閉めた。
「何故閉めるんだ? 暑いから開けておきなさい!」
ちなみに昔の大衆車はエアコンなど付いてはいない。
久兵衛はまた窓を開けながら、
「別にもてたくなんか無いよ」 通行人に配慮し、小さな声で言った。 - 603: 2011/07/26(火) 19:34:00.96 ID:NgDOzvxIo
- 「それは久兵衛がまだガキだからだ! あと十年もしたら、モテたくてしょうがなくなる!
その時に小さなチンコだったら、お前は後悔することになるんだぞ!」
久兵衛は、話の途中から、ぐるぐるとまた窓を閉め始めた。
「開けておきなさい!!」
父の叫びが怒気を含んでおったので、久兵衛はしぶしぶ窓を全開にした。
「モテたところで、何の特があるのさ?」
うんざりした表情の久兵衛に、父がニヤリと笑った。 - 604: 2011/07/26(火) 19:34:27.96 ID:NgDOzvxIo
- 「エンジンになれる!」
父は、アクセルを踏み込んだ。
ヴァウゥゥウウウウン!!
ギアがニュートラルなので、エンジンが空回りする。 ひどい音と振動で、眩暈がしそうだ。
ガクガク揺れるシフトノブが生きているように思える。
それを横目で見た久兵衛は、グッと陰茎に力を入れた。
「わけがわからないよ。 どうして女の子にモテると、エンジンになれるんだい?」
振動が落ち着いてから、久兵衛が非難を込めたアクセントで聞くと、
「エンジンの構造を、勉強してみろ! エンジンになると、気持ちいいぞ!! それ、快楽の雄叫びだ!!」
父は喋りながらハイテンションになり、またアクセルを景気よく踏み込んだ。 - 605: 2011/07/26(火) 19:35:05.81 ID:NgDOzvxIo
- ヴァヴウウウウウウウウウウウウン ガボッ!
何が快楽の音だ? 久兵衛にはそのやかましい音が、やめてくれと言っているように聞こえた。
それは、幼稚園の時の運動会の、おやこ競争とか言う競技に、父の代わりに駆りだされ、走っていた祖父を思い出させる。
――ひい…ひい…
――おじいちゃん、頑張れ!
ガボン ガボン ヴァウゥゥウウウウン
爆音が聞こえる。 祖父は、久兵衛に会うたびに、いつも戦争の話をした。
――いいか久兵衛、戦場での生き死には、足で決まるんだ。走って、伏せて、走って、伏せて!
そのうち、伏せる時が辛いことに気がつく。 だけど走ってばかりいると、的になるんだ。
走って、伏せて。 これを続けられる奴が生き残る。 おじいちゃんは強かったんだぞ。
しかし久兵衛は、運動会でビリッケツを取った祖父を見たとき、彼の話は嘘だったのだと思った。
――おじいちゃんのうそつき! 伏せるどころか、走ることも出来なかったじゃないか!
祖父は、運動会の3日後、息を引き取った。 久兵衛は、嘘を付いた罰が当たったのだと思った。 - 606: 2011/07/26(火) 19:35:41.58 ID:NgDOzvxIo
- 父が調子にのって空吹かしを続けていると、不意にパパアン!と、後ろからクラクションが鳴らされた。
冷たいプレッシャーが、ヤレたシートを突き抜けて背中に刺さる。
信号は、青になっていた。
車はガクンガクンとまるで巨人に蹴飛ばされたように発進し、久兵衛はシートの上で跳ね回った。
父は、「ロデオだ!」と叫んだが、久兵衛はその言葉の意味がさっぱり分からなかった。
なんとなく、卑猥な意味なんだろうなと思って、脳内に接続したその言葉の響きに、陰茎を更に膨張させたのだった。 - 607: 2011/07/26(火) 19:36:07.69 ID:NgDOzvxIo
- 見滝原市役所に着くと、見物人や新聞社も来ているようで、かなりの人ごみであった。
しかしそれらは、新聞記者やら、難しそうな顔をした大人たちばかりで、ただ市役所前の広場に大きな円を作って、
流れる汗を拭いているだけであったので、久兵衛はすぐに退屈になってしまった。
6月10日のその日は、相当な蒸し暑さであった。 久兵衛は早くヘリコプターが見たいと思っていた。
しかしなかなかやってこない。
「ねえ、ヘリコプターは?」
久兵衛はなじるように父に聞いたが、彼もまた暑さでイライラし始めており、
「黙って待っていなさい!」と叱責されてしまった。
久兵衛は付いてきたことを後悔し、することもないので、陰茎をいじくりながらその時を待つことにした。 - 608: 2011/07/26(火) 19:36:35.50 ID:NgDOzvxIo
- 漸くヘリの音がし始めたとき、久兵衛はクローバーの花に群がっているコガネムシを殺している最中だった。
――それではこれより、当社ネチズンウォッチが開発いたしました国産初の耐震装置、Pショック付き腕時計の投下実演を開始します――
そんなアナウンスがなされたが、久兵衛には上の空であった。
「来た!」
久兵衛は3匹目のコガネムシをアスファルトに叩きつけ、上空を見上げ、眩しさに目を細めた。
空の青に付いたシミのようなヘリコプターの影は、ぐるぐる旋回をしながら大きくなっていき、
次第に塗装された機体の模様まで見て取れるくらいの大きさになっていった。
そしてそのあたりに来ると、バタバタとローターの回る音が、猛烈な重量感を含んでおり、久兵衛は圧倒された。
彼はこんな近くをヘリが飛んでいるところを、見たことがなかった。
その上、ヘリがホバリング飛行までし始めたとき、久兵衛は感激のあまり雄叫びを上げていた。
「うおおおおっ! 凄い! 空中で止まっている!!」
彼にとっては、その精一杯の叫び声がヘリの音で聞き取りづらくなっていたことさえ、珍しかったのである。 - 609: 2011/07/26(火) 19:37:13.39 ID:NgDOzvxIo
- 不意にヘリのドアが開き、そこからぬっ、と、手が出てきたのを見て、久兵衛の興奮は更なるステージへとレヴェルアップを果たした。
「父さん! 人がのっている!」
久兵衛の子どもらしい感嘆に、父は、
「当たり前だろ? 人が乗らないと飛ばないに決まっている。 航空機は、人を空に持っていくための道具だしな」
大人の感覚でそれを流した。
久兵衛は、言いたいことはそんなんじゃなかったんだ…と、もどかしい気持ちになった。
しかし、ヘリから生えたその手が、何かを落としたとき、久兵衛はそんなもどかしさなど瞬時にどうでも良くなってしまった。
「なんか落とした! ねえ、なにあれ?」
地面に落ちたそれを手に取り、男が「動いています」とマイクで叫ぶと、
歓声と拍手とが巻き起こり、久兵衛は独りだけ仲間はずれになったような寂しさを感じた。
「ねえ、父さん、なにあれ?」
父もまた、周りの大人達に倣って拍手をしており、久兵衛は肉親に裏切られた感覚を、子供の精神に覚えこまされた。 - 610: 2011/07/26(火) 19:37:40.71 ID:NgDOzvxIo
- 「ねえ父さん! ねえってば!」
久兵衛は父の手にぶら下がり、彼が拍手をし続けるのを邪魔し、自分に注意を向けさせた。
「何だ久兵衛! 怒るぞ!」
「あれ何って、聞いているじゃないか!」
久兵衛の必死に、父は面倒くさそうな顔をしながら、
「時計だよ、腕時計。 車の中で教えただろ? ネチズンウォッチが自社製品の宣伝を兼ねた実験をするって」
「時計!?」
久兵衛が唖然としていると、またヘリから、ひらひらとたなびくリボンを付けられ、観衆から見やすく配慮された腕時計が投下された。
久兵衛はまた歓声が沸き起こったら話しかける機会が完全になくなってしまうと思い、
「あんな事して、壊れないの?」
割りこむように大声で聞くと、
「だから壊れないように作ったんだろ?」
父は面倒くさそうに答え、二つ目に投下された時計も壊れていないことを確認し、歓声を上げ、拍手した。 - 611: 2011/07/26(火) 19:38:22.36 ID:NgDOzvxIo
- 結局、投下された腕時計10個は全て壊れることが無く、ヘリは悠々と飛んでいき、投下実演は大成功で終了した。
「すごいなあ、久兵衛。 国産品もあそこまで性能がよくなったんだなあ。 なんだか誇らしい気分だな。」
久兵衛は未だ信じられない気分だった。
当時の腕時計というのは、今からすると信じられないほど壊れやすく、
久兵衛も父が時計を着けたり外したりするときにうっかり取り落とし、時計が壊れて止まってしまうのを何度も見たことがあったから、
ヘリから落として壊れないなどと、まるで手品でも見せられているかのような気分であった。
「父さんもあれ買ったら? 落としても壊れないならいちいち修理代かからなくていいんじゃない?」
「バカ、新製品なんか高くて買えるか! あれ5千円もするんだぞ! 俺みたいなクソ公務員の給料には高嶺の花ってやつだ!」
久兵衛の父の給料が1万3千円位、かけソバ一杯25円位の時代であった。
車のローンに、久兵衛の給食費と、家計は苦しかったのである。 - 612: 2011/07/26(火) 19:38:56.07 ID:NgDOzvxIo
- 「いいか久兵衛。 公務員にだけはなるなよ。 ちゃんと勉強して、いい仕事に就いて、俺と母さんを楽させてくれ!」
父は、自らの人生を諦めてしまっている者特有の、諦念と悔しさとが入り交じったような歪んだ表情を作り、
小学校に上がったばかりのガキに嘆願した。
久兵衛は、「ああ」だか「うう」だか、適当に流すような返事をして、その答えを保留した。
彼は嫌だった。 自分の、未来の可能性が無くなってしまって、子供に頼るしか無い、情けない親の姿を見せられるのが。
それに勉強なんてよく分からないし、何をどう頑張ったら、そのいい仕事とやらに就けるのか、久兵衛には皆目見当が付かなかったのである。
恐らく父親も知らないのだろう。 知らないくせに、子供にはそれをやらせようとしている。
そしてあわよくば、自分が楽をしたいのである。 久兵衛にとってこういう事を口走る父は、卑怯者の見本であった。
貧乏人はそうやって親子で足を引っ張り合いながら、貧乏の連鎖を繰り返すしか無いのだと、
久兵衛も子供心に自分の人生を諦め始めていた。 - 613: 2011/07/26(火) 19:39:22.34 ID:NgDOzvxIo
-
… - 614: 2011/07/26(火) 19:39:49.46 ID:NgDOzvxIo
- 「…へえ、久兵衛も大変だったのね」
マミが慈愛に満ちた言葉をかけてくれたそのとき、タクシーはゆっくりと停車し、料亭に到着したことを知らせた。
「3250円です」
タクシーの運ちゃんがニコニコしながら金額を伝えると、
あろうことかマミが代金を払おうとしたので、久兵衛は慌ててそれを止めねばならなかった。
「おい、マミ! なに勝手に払おうとしているんだよ! 全く、君は本当に手癖が悪いね!
お金のことは心配しないでくれと言ったはずじゃないか! いいかい、今日という日が終わるまで、君が財布に触れることは禁止する!」
久兵衛が支払うと、マミはふくれっ面になって、
「別にタクシー代くらいいいじゃない! 私たち、恋人同士でしょ? だったら支え合うのが普通だわ!
ねえ、少しは私を頼ってくれてもいいじゃない! そんなに私って、頼りないのかしら…あなたの役に立ちたいのに…」
だんだんとそのメンタルが怪しくなってくる始末であった。 - 615: 2011/07/26(火) 19:40:20.50 ID:NgDOzvxIo
- 「お…おいおい…そんなに気にすること無いじゃないか! 今日は君が主役なんだから、堂々としていていいんだよ!」
久兵衛が慌ててフォローをしたが、
「でも…なんだか必要ないって言われているみたいな気がして…」
マミは自分で自分を追い詰めるように言いながら俯いて、また泣き出しそうな勢いである。
久兵衛は慌てた。
「そんなこと無い無い! むしろ君が大事だから、こうして色々おもてなししているんじゃないか!」
「でも…でも…」
マミは心底つらそうな顔をしていて、それを見た久兵衛の胸のあたりが、また疼くように痛み出した。
――また始まった! 途中でドラッグストアに寄ってもらって、痛み止めを買ってくるんだった!
久兵衛は後悔した。 そして腹が減ってきた。
「とにかく店に入ろう! こんなところで喋っていても埒があかないからさ、いいだろ?」
久兵衛は、マミの顔を見ずに、手を引き、料亭に入り込んでいった。 - 622: 2011/07/27(水) 19:11:40.64 ID:9D66Aakko
- 部屋に案内されると、またマミは座椅子に腰掛けるなりキョロキョロとし始め、
「お金のことは気にしなくていいんだからね!」
と、また久兵衛が念を押さねばならなかった。
「ねえ久兵衛…なに食べるの?」
そんな事を聞いたところで、不安が消えるわけでは無いのだが、マミは聞かざるを得なかった。
「とりあえず和牛のしゃぶしゃぶと、舟盛りが出るんだ! でっかい船に、ヒラメとか、タイとかが乗っかっているんだよ!
他のおかずはとにかく一番いいのを作れって言って、任せてある。 勿論君のためさ!」
それを聞いたマミはやはり高そうだと思ったのか、顔面を引きつらせながら、「うれしい、うれしい」と、棒読みで感激していた。 - 623: 2011/07/27(水) 19:12:13.16 ID:9D66Aakko
- 「あのね、久兵衛…」
豪勢な料理の話で放心気味だったマミは、不意に顔を引き締め、なにか決心をしたように語りだしたので、
「何だい? 改まって…」と、久兵衛も真剣に聞き返してみた。
「次のデートは、もっと私も、久兵衛に何かしてあげられるような、そんなデートにしたいの…」
久兵衛が口を挟もうとしたが、
「あ、違うの…今日のデートは楽しいの。 だけど…ほら、さっきも言ったじゃない?
私たち、恋人同士だから、お互い協力しあって…そういう関係にしていきたいの…
私はお金とか無いから、こんなお店に久兵衛をつれてくることは出来ないけど、
料理は得意だから、愛情込めて、久兵衛の好きなもの、何でも作ってあげるわ。
…こんな私だけど、頼りないかも知れないけど、それでも何か出来ることがあると思うから、だからお願い、少しでいいから私を頼ってね」 - 624: 2011/07/27(水) 19:12:50.37 ID:9D66Aakko
- 久兵衛はおかしな事を言うものだと思いながら、また胸の疼くような痛みが生じているのに気が付いた。
今までの女たちは、久兵衛を利用しつくす事しか考えていなかった。
飯を奢らせ、宝飾品やブランドバッグを買わせ、自分がいかに多くの男を虜にし、恵まれているかという事を、
周囲に披瀝する為に生きているのが女だと、久兵衛は思っていたのである。
だからこうして、自分に何かをしてやりたいなどと言う女は、寧ろ何か裏があるのではないかと、久兵衛は勘ぐってしまう。
彼は、女に騙されて死んでいったチンピラ共もまた、幾人も見てきたのであるから、
この臆病なまでの感じ方が、彼をここまで生き延びさせてきた処世術でもあったし、
そんなふうに感じることが、寧ろ久兵衛にとって当然の感覚であった。
――マミは一体、何を考えているんだ?
久兵衛の脳裏に、女にハメられた記憶の数々が蘇ってくる。
しかしどの記憶も、このマミの考えを見抜くための材料にはならなそうなのであった。 - 625: 2011/07/27(水) 19:13:22.92 ID:9D66Aakko
- 「分かったよ、これからは、デートの時も晩ご飯は君の料理を御馳走になろうかな?」
久兵衛は、これは駆け引きだと思った。 女が何かを申し出ると、それ以上の何かを求められる。
そうやって女によって泥沼に引きこまれ、借金まみれにされ、
借金取りのヤクザ達に連れ去られ、精肉工場で肉骨粉にされてうなぎの養殖場に放りこまれたチンピラの顔が久兵衛の脳裏をよぎった。
バカだったが、いい奴だった。 いい奴ばかりが、死んでいくのだ。
「ええ、そうして! 私、頑張るから! 何を作って欲しい?」
マミの弾けるような声が、思い出に浸る久兵衛の思考を打ち破った。
「何でもいいよ」
この女は、自分で料理を作るという安上がりの行為の先に、どんな見返りを求めているのだろうか?
久兵衛がポーカーフェイスの下に疑いを隠した眼でマミを観察していると、
「じゃあ何を作ってあげようかしらね」とか言いながら独りで勝手に機嫌を良くしていて見苦しかった。
早くどんな見返りが欲しいのか、言って欲しい。 でないと喉に何かが引っかかったようなもどかしい気分が解消されないではないか。 - 626: 2011/07/27(水) 19:14:18.79 ID:9D66Aakko
- 「――そうだ、ねえ、久兵衛――」
――嘆願するような言葉の響き――そら、来た。 漸くこのマミの中の女の本性が拝めるってわけだね。
君は一体、どんな見返りが欲しいんだい――?
「――さっきの話の続き、してくれない?」
「えっ?」
久兵衛は拍子抜けし、マミが何を話しているのか分からなくなった。
「久兵衛の、子供の頃のお話。 私、あなたの事、何も知らないんだもの。 色々知りたいわ!」
――何か弱みでも握るつもりなのだろうか?
久兵衛は不気味に思いながらも、警戒しながら、昔話を始めた。
「確か親父とヘリを見に行った話をしたんだったよね」
「ええ」
「君さ、昔ワルプルギスの夜っていう、大災害が起こったのを知っているかい?」
「昔そういう災害があったというのを社会の授業でやったことがあるわ」
久兵衛は、自分が知っているあの大災害を、授業でしか知らないというマミの言葉の中に、彼女との年齢の差をずしりと感じ、
年の離れた二人がこうして一緒にいることの、不思議を思った。 - 627: 2011/07/27(水) 19:14:47.71 ID:9D66Aakko
-
… - 628: 2011/07/27(水) 19:15:15.62 ID:9D66Aakko
- 久兵衛が小学校の4年生に上がったばかりの頃、見滝原市を、後にワルプルギスの夜と言われる大災害が襲った。
久兵衛達家族の住んでいた公務員用の公営住宅や、彼の通っていた小学校も相当の被害を受け、彼らは隣の下部暮市に引っ越すことになった。
この時、父が公務員だったことにより、優先的に下部暮市職員用の公営住宅があてがわれ、
素早く住むところが決まったのはこの貧乏家族始まって以来の幸福であった。
そして久兵衛の父は、災害復興担当職員として勤務するようになったのである。
それは、彼ら貧しい家族にとって、まさに転機であった。
久兵衛の父は被災者の為と言いながら土建屋と癒着し、工事の落札金額を教えるなどの見返りに、大量の賄賂を受け取り始めたのである。
これにより、久兵衛の家はみるみる裕福になっていった。 - 629: 2011/07/27(水) 19:16:21.60 ID:9D66Aakko
- 久兵衛が中学に上がる年、彼の家は念願の二階建てガレージ付きマイホームを新築し、車は陰茎の勃起を誘発するゴミのような中古車ではなく、
嘘のようにエンジン音が小さく、エアコンやパワーウインドウまでもが装備された、
オッサン自動車の「ダイトーリョー」を、新型が出るたびに買い換えるという裕福っぷりであった。
本当はメルセデス・ベンキを買いたかったらしいが、あまり派手にやると税務署や警察がうるさいというので、車は国産にしていたのである。
久兵衛がそんな裕福な生活のカラクリに感づきはじめたとき、父が自慢の愛車に久兵衛を乗せ、走りだして言ったのは、
「お前に中学の入学祝いを買ってやらないとな」
という言葉であった。 それを聞いて久兵衛は暗澹とした気分になった。
彼は父に何かを買ってもらうのがたまらなく嫌だったのである。
父は少し前まで、自分で人生を切り開くことを諦めており、久兵衛を頼ろうとしていた寄生虫のような男なのだ。
しかし断ると機嫌を悪くされて後が面倒なので、彼はしぶしぶ振動のない車に乗って、勃起もせずについて行ったのであった。 - 630: 2011/07/27(水) 19:17:09.18 ID:9D66Aakko
- 到着した先は、駅前にあった時計屋であった。
「よし、まずは腕時計を買ってやる!」
「要らないよ。 学校に時計くらい設置されているしさ」
当時まだ腕時計は高級品であり、厨房が持つシロモノではなかった。
ネチズンのジュニヤを始め、ヤングヒッター、サイコーのマドニーなど、学童用の低廉価手巻商品がポツポツと市場に出回り始めていたが、
それすら金持ちのガキを対象にした商品であったし、
高価なものを学校に持ってくるとトラブルの元となるので久兵衛にとって腕時計は無用の長物に思われたのだった。
「いいから黙って付いてきなさい!」
しかし父は峻拒する久兵衛を叱りつけ、彼を引っ張って時計店に入っていった。 - 631: 2011/07/27(水) 19:17:53.99 ID:9D66Aakko
- 久兵衛は、どれも同じに見えるショーケース内の時計たちを眺めながら、
早く時間が過ぎ去り、閉店になるか、父が諦めるかして何も買わずに済ませたいと考えていた。
しかし昼を回ったばかりで、閉店まではまだ時間があったし、父も意地でも久兵衛に腕時計を買わせたいらしく、一歩も引かない構えであった。
そして久兵衛がグズグズと逡巡していると、父が痺れを切らしたようにショーケースから時計を取り出してもらい、久兵衛の目の前に並べ、
「ほら、この中ならどれがいい?」
選ぶことを強要し始める有様であった。
目の前に並べられたそれらは、漸く高級サラリーマンに普及し始めた自動巻きのサイコーマチックやネチズンジェット、
それに手巻高級機のサイコーロードマーブルなどで、やはりまったくもってガキの持つシロモノではない。 - 632: 2011/07/27(水) 19:19:23.34 ID:9D66Aakko
- 分不相応なものを自分のガキに持たせようという父の成金根性に心底辟易した久兵衛は学童用廉価商品のコーナーに行こうとしたが、
「ああいうのは俺の息子に似つかわしくない。 だいたいジュニヤだの何だのと、商品名が安くさいじゃないか。 ダメだダメだ」
と、父によって阻止されてしまった。 もともと貧乏だったから腕時計自体、似つかわしくないだろ、と、久兵衛は思った。
しかし彼は仕舞いには、「俺の息子だから目が高い」などとのたまい、
国産最高級品のグランドサイコーやら、ロラックス、オメーガなどの超級品を並べ、更に分不相応の選択を息子に強要する有様だった。
そしてその時久兵衛は思い出したのだった。 3年程前の、見滝原市役所での、投下実演の事を。 そして彼は時計屋の主に、
「あのさ、昔ネチズンウォッチが時計をヘリから落とすパフォーマンスやったことあるだろ? あれと同じのって、無いかな?」
と、聞いてしまっていた。 - 633: 2011/07/27(水) 19:19:51.59 ID:9D66Aakko
- あの時父は、歪んだ表情で言ったのだった。 俺にはあれは高嶺の花だと。
それが今はアコギな事で稼ぎまくり、超高級品を息子に買わせようとする豹変ぶりだ。
しかもあれほど公務員である己が嫌だったはずなのに、最近は、公務員になるなら俺のコネがあるからすぐだぞ、とかのたまっている。
久兵衛はその、手のひらを返すような父の変貌を気に入らなかった。 だから彼に物を買ってもらうのも嫌だったのだろうか。
いや、もしかしたら汚い金で生きている自分自身が嫌だったのかも知れない。
久兵衛はこの頃、善悪について考え込む事が多くなっていた。 - 634: 2011/07/27(水) 19:20:26.01 ID:9D66Aakko
- 「ああ、あれね、大量に仕入れた当時の売れ筋商品だったから、まだ在庫が残っている筈だ…」
時計屋の主は、長期在庫がはけるのが嬉しくて仕方ない、という表情で店の奥に引っ込んでいき、しばらく後、
「あったよ、これだ! コイツを指名買いするなんて、子供にしちゃあ渋い趣味してるね、君」
ホクホク顔で、色あせたプライスタグが付いた幾つかの商品を持ってきたのだった。
「父さん、僕これが欲しい。 ヘリを見に行った時から、ずっと欲しかったんだ」
売れ残りの中から好みのデザインを探り出し、久兵衛が父にそう伝えると、父の表情が歪んだ。
それはあの時の、俺には5千円の時計は高嶺の花だと言ったときの、そして久兵衛に、いい仕事に就いて楽をさせてくれと言ったときの、
あの、人生の負け犬で、卑怯者の父の表情そのままであった。
久兵衛はそれを見て、父があの時の惨めさを思い出しているのだろうと思い、
成金になって偉そうになった彼の、化けの皮を剥いだような、勝利の感覚に身も震えんばかりに昂った。
それは被災者の為の仕事、と言う言葉を連発して人当たりを良くしながら、
影では賄賂を受け取っているという父の卑怯に対する久兵衛の勝利の瞬間に、彼には思えた。 - 635: 2011/07/27(水) 19:21:07.47 ID:9D66Aakko
- 時計は長らく動かずに眠っていたので油切れを起こしているだろうからというので、油を差して調整をするため、
しばらく時計屋に預けることになって、父と久兵衛は手ぶらで時計店を後にした。
その後、父は無言になり、次に久兵衛を文房具屋に連れていき、今度は彼に選ばせること無く、
ドイツ製のペンギンとか言う一番高い万年筆を買い与えた。
「お前には、失望した」
父が帰りの車内で、久兵衛に吐き捨てた言葉であった。
久兵衛はそれを無視していた。
「あろうことか売れ残りなんか買うなんて…」
父は苦悩しているようであった。 恐らく貧乏であった頃の自分と息子とを重ねあわせているのだろうと、久兵衛は思った。
あの時高嶺の花だと言った商品を、時を経て売れ残りになったそれを、その事実を覚えていた息子が指名買いしたことで、
そこに在りし日の惨めな自分を勝手に見ているのだろう。 - 636: 2011/07/27(水) 19:21:57.86 ID:9D66Aakko
- ――小物。 久兵衛は脳内に父をそう、評した。
成金根性は、彼の薄汚い卑金属の地金を覆う薄いメッキなのだ。
高いものを買い、家を建て、高級車に乗る彼を、皮一枚はいでやると、そこには小汚い貧乏人が確かに存在しているのである。
父は何度も、俺は被災者の為に働いているのだと、久兵衛に言った。
それすらも、メッキであるのだと久兵衛は思った。
自分の悪事を正当化するために、そんな人当たりのいいセリフで取り繕っているのだ。
――偽善。
父は、人当たりのいいセリフでごまかし続けないと、悪事を行うことが出来ない、
情けない、貧乏人だった自分を忘れられない小心者の偽善者だったのだ。
そんな父から何か買ってもらうのが嫌だったのもむべなるかなである。
久兵衛は、自分はそんなふうにならないと決心した。
しかし、彼の見てきた社会は、善人がバカを見、父のような悪人が得をする社会であったことも事実であった。
善人は、ニコニコしながら、その裏にある悪に気づかないまま、
いいように扱われ続ける家畜のような存在として、久兵衛の眼に映ったのである。
久兵衛はまた、そんな善人にもなりたくないと思った。
彼はこの時、本当の悪人になろうと決心した。
父のような偽善者ではなく、また家畜のような善人でもない、本当の、悪人に。 - 637: 2011/07/27(水) 19:22:27.92 ID:9D66Aakko
-
… - 638: 2011/07/27(水) 19:23:02.09 ID:9D66Aakko
- 「それじゃあ久兵衛は、お父さんが悪いことしているのが、ずっと許せなかったのね」
「まあね。 僕が今もネチズンの時計にこだわっているのは、それが僕にとって、父に対する反逆と勝利の象徴であったからなのかも知れない」
久兵衛は、彼が悪人になろうと決心した事を省いて、マミに昔話をしていた。
マミは何一つ気づいていない。
自分がクスリで荒稼ぎしていることも、役員達を利用して会社を悪の組織にしていることも、平然と殺しをさせていることも。
久兵衛は、マミに自分が悪の権化であることを、話さないほうがいいと踏んでいた。 それは、余計なトラブルに繋がる気がする。
久兵衛がそんな事を考えていると、料亭の女将が部屋まで来て、
「お料理の準備が遅れていて、誠に申し訳ありまへん。 もうすぐ準備ができますよって…」
と、深々と頭を下げて謝し始めた。
「ああ、別にいいんだよ。 僕らが早くここに着きすぎただけだから。 お喋りでもして気長に待っているから、気にしないでくれ。」
腹が減ってはいたが、マミが居るのでキレる訳にもいかず、優しく対応した久兵衛に女将が微笑んで引っ込んでいった。
久兵衛は、もしかしたら自分がいましたことは偽善の一種なのかも知れないと思って、背筋がじわりと寒くなった。 - 646: 2011/07/28(木) 19:48:10.99 ID:030eTpfUo
- 番外章3 少年の日
「中学に上がったって言ってたわね。 そういえば久兵衛は、初恋いつだったの?」
マミの突然の質問に、久兵衛は戸惑った。
彼は、恋を知らない。
「そんなの知らないよ。 君はどうなんだい?」
「私は――」
言いながらマミが俯いて恥ずかしそうな笑顔を作るのを確認し、久兵衛は彼女から眼を逸らした。
「――あなたが初恋の相手」
久兵衛はぐっと拳を握り締め、「ふうん、そうかい」と、こともなげに答えた。
マミに対して、何も情が無いことを自分に言い聞かせるように。
そして久兵衛は、恋の記憶の代わりに、始めて女とヤリたいと、心から思ったときのことを考え始めていた。 - 647: 2011/07/28(木) 19:48:40.74 ID:030eTpfUo
-
… - 648: 2011/07/28(木) 19:49:07.54 ID:030eTpfUo
- 久兵衛は中学に上がり、ガキの頭で考えることの出来る全ての悪に手を染めだした。
「おばちゃん、チェリーくれ」
学校の購買でタバコを買うなどは、一番最初に行った悪であり、今日も授業をサボって彼は校庭のスミでいい香りの煙をふかすのである。
体育館の裏。 いつもの場所で、ソフトパッケージの封を切ると、酸味の効いた豊かな香りがふわりと広がった。
これが厨房になっていた久兵衛の、至福の時であった。
切った封の反対側をトントンと叩いて、出てきた白い紙の巻かれたフィルターをつまんで引きぬく。
フィルターに印刷された、ピンクの桜のマークが少し色っぽい。 吸い込みながら100円ライターで火をつける。
「ふう、美味い」
フルーティーな酸味を含んだフレーバーが柔らかく嗅覚に触れる。 その知覚が恋しくて、もう一度煙を吸い込んだ瞬間―― - 649: 2011/07/28(木) 19:49:35.53 ID:030eTpfUo
- 「コラ、久兵衛君!」
甲高い声に呼び止められた。
誰に何を咎められても動じることのなくなっていた彼であったから、煙を吐いてその余韻を楽しんだ後、漸く振り返り、
「なんだ、パトリシアか」
おせっかい焼きの学級委員長が立っているのを、あだ名を呼ぶことで認めてやった。 本当の名前は知らないし、どうでもいい。
「教室に戻りなさい! 授業が始まるわよ!」
久兵衛はまた煙を吐き出した後、
「やなこったね」
返事をするなり、また壁に向き直って煙を吸い込み始めた。
「たばこは体に悪いからやめなさい!」
パトリシアはそう言うなり、久兵衛の口元から吸いかけのタバコを奪いとり、地面に投げ捨ててふみ消した。 - 650: 2011/07/28(木) 19:50:09.52 ID:030eTpfUo
- 「何をするんだよ! 僕がタバコを吸ったところで君の体がおかしくなるはずはないだろう? なら僕の好きにさせてくれよ!」
「ダメなの! 規則だから!」
パトリシアは、規則を盲信していた。 馬鹿なのだと、久兵衛は思う。
いくら勉強が出来るか知らぬが、人に何かをさせようというのにその理由が
「規則だから」というのは規則という垣根を超えて考える事の出来ない自らの馬鹿を丸出した哀れな所業である。
久兵衛はこの女の相手をするのが阿呆らしくなって、彼女を突き飛ばし、学校を飛び出した。
その日一日、久兵衛の手には、彼女を突き飛ばした時の、あまりに軽く、柔らかで非力そうな感触が留まり続けていた。
その後もパトリシアは久兵衛を更生させようと、何度も彼が非行を働いているときに介入して来、
その度に久兵衛が学校から逃げ出すのが彼ら二人の日常となっていった。 - 651: 2011/07/28(木) 19:51:01.82 ID:030eTpfUo
- 久兵衛が中学校3年になったある日、パトリシアが学校に来なくなった。
ニュースでは下部暮市在住の高級官僚が、商社に極秘資料を横流ししたとかで家宅捜索が行われているところが映しだされており、
テレビの前の親の会話と、学校内のうわさ話とで、久兵衛はその高級官僚がパトリシアの父であることを確信した。
「ちーす」
久兵衛は、気がつけば登校してすぐに職員室に顔を出していた。
普段は職員室などに、間違っても自分から来る筈のない生徒に対するざわめきが上がるたびに、
不穏な空気が充填されていくような感じがする。
空間そのものが久兵衛を拒絶していた。 しかし彼は臆すること無く、担任の机に歩み寄り、それを思い切り蹴って教師を怯えさせてから、
「溜まっているプリントとかさ、パトリシアの家に届けてきてあげようと思うんだけどね。 どうかな?」
一息に言った後、挑発するように教師の顔を覗き込んだ。 - 652: 2011/07/28(木) 19:51:28.94 ID:030eTpfUo
- 「そ、そんなの先生が行くから、君が心配することじゃないんだよ…」
教師は汗を拭き、目を逸らしながら久兵衛に伝え、暗に彼に職員室から出ていくように伝えているかのようであったが、
久兵衛はそんな彼の醸しだす雰囲気を無視し、
「でももう3日も溜めているだろう? パトリシアの机はプリントで一杯だ。
本来は毎日持って行ってあげなきゃならないのに、こんな扱いってないんじゃないかな?
つまり何だ、先生がちゃんと仕事してないから、僕みたいなクズがクラスメートの心配をしなくちゃならないってわけさ。 分かる?」
教師の仕事ぶりをバカにするように、嫌味を職員室中に吐き散らした。
「…でも、まあ…色々と問題が、ねえ…特に君は…その、アレだし…」
担任はなおも逡巡している。
パトリシアの家は捜査やら何やらで色々とゴタゴタしているため、教師でさえ行きづらいというのに、
久兵衛のような不良が顔を出して余計なトラブルを巻き起こしはしないかと、気が気では無いのだろう。 - 653: 2011/07/28(木) 19:52:02.81 ID:030eTpfUo
- 「全く君たち教師はいつだってそうだね。 ハナッから僕が問題を起こすって決めつけているんだろう?
そんなだから学校が嫌になってしまうんだってどうして分からないのかねぇ。
パトリシアは、君ら教師が見捨てて無視を決め込んでいる、クズである僕の更生を馬鹿みたいに信じて、いつも小言を言ってくれた。
だから恩返しをしたいっていうこの僕の気持ちも分からないって言うんじゃあ、もう教育なんてやめちまえよ。 君らには無理だから」
久兵衛が得意げに嫌味を吐き続けていると、ジャージィを着た生徒指導担当が、「貴様、先生にどういう口を聞いているんだ、コラァ!」
と、久兵衛の襟首を掴み上げたが、彼は動じなかった。
「だからさあ、暴力でしか物事を解決できない低能に、教育なんて無理だって言っているのさ。
僕をどうにかしたいなら、ちゃんと言葉で伝えてくれよ。 僕も言葉で君らの相手をしてやっているんだからさ。
税金で給料貰っているんだろ? 税金泥棒で人生終わりたくないならちょっとは本気出せよ」
「何だと、コラァ…」と、生徒指導が拳を握り締め、職員室に冷たい暴力の予感が立ち込めた。
「ま…まあまあ、ジャージィ先生、落ち着いて…。 久兵衛君、プリントの件はそれじゃあ君に任せたから、ね。 これで満足だろう?」
担任が割って入り、生徒指導をなだめて、久兵衛の目的を達成させ、問題を集結させた。
久兵衛は襟に食い込んだ生徒指導の手を引き剥がし、
「じゃあ僕は早退しますんで」
と言い、タバコを咥えて火をつけながら、足で職員室のドアを蹴り、出て行った。 - 654: 2011/07/28(木) 19:52:37.97 ID:030eTpfUo
- 久兵衛が呼び鈴を押したとき、玄関口に出てきたのはパトリシアその人であった。
「あ、久兵衛君…どうしたの?」
しかし顔は真っ青で、頬がこけて以前の元気は無くなっている。
「プリント持ってきてやったんだ」
久兵衛が束になったそれらを差し出すと、パトリシアは小さくありがとう、と言ってそれを受け取った。
「いつから学校に戻るんだよ?」
久兵衛の問い掛けに、パトリシアは俯いて、分からない、と答えた。
パトリシアは青い顔に精一杯の悲愴を浮かべ、下唇を噛んで小刻みに震えている。
久兵衛はその表情を見て、ここに来てよかったと思った。
そして、陰茎がムクムクと起立するのを感じていた。 - 655: 2011/07/28(木) 19:53:12.80 ID:030eTpfUo
- 「ねえ、久兵衛君…」
久兵衛が帰ろうと思ったとき、何かを決心したようにパトリシアが引き止めてき、話し始めた。
「何かな?」
「どうして、人は悪いことするの? どうして、みんな笑顔で暮らしていけないの?
一人ひとりが正しいことをちゃんとやっていれば、みんながそんなふうに幸せに生活していけるのに、どうしてそうはならないの?
教えて。 久兵衛くんはどうして、悪いことばかりするのか。 そうすれば、私、お父さんが悪いことした理由も、分かる気がするの」
パトリシアは真剣であった。 その真剣さに、久兵衛は笑いそうになった。
いや、笑った。
ひと通り笑って、バケツいっぱいの絶望をぶっかけられたようなパトリシアの顔を見、陰茎を極限まで勃起させ、言った。
「君は秀才だから熱力学のナントカ法則を知っているだろう? エントロピーは増大するんだよ。 物事は無秩序に帰する。
それは僕らも同じでね、君がいくら秩序を叫んだところで、だらしない人間って奴は、どうしたって堕落するんだ。
規則があったら、それを誤魔化して得をしたい奴が必ず出てくる。 世の中、それが自然なんだよ」
パトリシアはショックで何も言えないようだった。
それを認めた久兵衛は、更にその嗜虐性を加速させた。 - 656: 2011/07/28(木) 19:53:48.63 ID:030eTpfUo
- 「それにねえ、君は僕の事を悪い奴だと思っているみたいだけど、君だって似たようなものじゃないか」
パトリシアはギクリと久兵衛を見上げ、「…どういう事?」と、かすれた声で呟いた。
「僕の親父は今、ワルプルギスの夜の復興担当部長をやっていてね、好き放題汚職してるんだ。 尤も、捕まるようなヘマはしていないけどね。
君の父親も汚職官僚なんだろう? 僕ら二人は似たもの同士さ。」
「私は父とは違うわ! 一生懸命、世の中がよくなるように、その前にクラスがよくなるように、委員長として頑張ってきたんだもの!
私は悪いことは絶対にしない! 久兵衛君にもさせたくない!
だから私は、頑張り続けるわ! 父にも、ちゃんと罪を償ってもらって、それからまた家族みんなで頑張るの!
そうやって頑張り続ければ、きっと世の中は答えてくれる! そうすれば、きっとよくなっていくはずよ!」
久兵衛は、目の前の女が絶望的にバカなのだと思い、溜息を吐いて肩をすくめた。
全く、何のためにお勉強なんてするんだろうか?
この女は、こんな幼稚な理論を展開するバカ女は、学年で五本の指に入るほどの秀才なのである。
久兵衛は勉強という奴が三文の特にもならぬことをこの時はっきりと理解した。 - 657: 2011/07/28(木) 19:54:40.16 ID:030eTpfUo
- 「まあ君の願いがエントロピーを凌駕すればそれは可能かもしれないけどねえ、
実際熱力学の法則に反する事実なんか見たこと無いしね。 あるとしたらそれは魔法って奴じゃないかな?
それに君はお父さんのことを自分と関係ないって言ってたけど、
そのお父さんの爛れた稼ぎで君は今まで生活してきたんだと言う事を分かっていないのかな?
汚職官僚の子供同士、君と僕は限りなく等価な罪を背負って生きている、いわば同じ穴のムジナなんだよ。
僕はその罪を充分に理解しているからマシだけど、君はそれを理解していないみたいだね。 その無知はさらなる罪だよ。
人間は発達した頭脳を持っている。 知らなかったで済まされる罪なんて、人間である以上どこにもないんだ。
人は自らのあり方や行いについて深く考察しながら生活していく義務を持っている動物だ。 それが知性の意味だ。
君はそれを無視して、自分に都合のいいことだけを考え、自分の罪を省みること無く、今まで過ごしてきた。 それはもうとんでもない罪悪さ。
人が人たる、動物と人とを分けることの出来る唯一のもの、すなわち知性という尊いものに対する重大な反逆なんだから」
「…やめて…そんなの…違うわ…」
パトリシアは久兵衛の植えつける罪の意識に耐えられず、次第に涙に濡れ、嗚咽に震え、その体勢を小さくうずくめていった。
久兵衛は張り裂けんばかりに膨張し、それでもなおギンギンと鼓動のたびに血液を送り込まれる陰茎を感じながら、
また自らの残虐性をも大きくふくらませていくのだった。 - 658: 2011/07/28(木) 19:55:18.32 ID:030eTpfUo
- 「ハハハッ、パトリシア。 安心してよ。 僕らだけじゃない。 みんながみんな罪だらけなんだから。
よくテレビCMでやっているだろう? アフリカの恵まれない子供らが1円の募金でワクチン打てば助かるって。
あんなの嘘っぱちさ。 病気にならなくってもそのうち飢えて死ぬんだからさ。 当然だよね。
その一方で僕らは一日三食美味しくご飯をいただくだろう?
江戸の昔は一日二食が主流だったっていうのに、それを三食に増やして、アフリカの恵まれない子供らが一日一食も食えないときに、
僕らは三食がっつり食べて、無駄なエネルギーを消費し続けているんだ。 大罪だよ。
僕らが一食分削って、彼らに分け与えれば、何人が助かるか知れない。 だけどそんな事誰もしない。
アフリカの恵まれない子供らなんて何人死のうが知ったことじゃないし、
彼らを遠いこの国から見殺しにしたところでどんな法律にだって引っ掛かりはしないんだからね。
そんな薄情者たちが1円募金して、ガキが飢えに苦しむ時間を伸ばしたくらいで良い事したって満足しているのがこの世の中さ。
結局ね、そうやって人が人を踏みつぶして成り立っているのが世の中であり、僕らの人生なんだよ。
君がいくら頑張ったところで、世の中なんて良くなりゃしない。 それ以前に、君も貧乏国の社会を踏みつぶす悪人のひとりだ。
いいかい、僕らは生きているだけで人殺しの罪人であり続ける運命を持っているんだ。
殺人犯って奴らとは、その行為が眼に見えるか見えないかの違いがあるだけなんだよ。
もっと広く、犯罪者というものと対比するなら、それが法律という血の通わないシステムに否定されるか否か、それだけだ。
そうやって君が生きる為に眼に見えない犠牲が生ずるのが嫌なら、君自身が死ぬしか無いね」
久兵衛はナイフで傷口をえぐり続けるようにパトリシアを責め、最後にうずくまっている彼女に覆いかぶさるようにして、
その耳元で「明日もプリントを届けに来るからね」と、囁いた。 - 659: 2011/07/28(木) 19:55:59.96 ID:030eTpfUo
- 久兵衛はパトリシアの家を出ると、何かに急かされるように全速力で駆け出し、
自宅に帰って自室に駆け込み、扉の鍵をかけて全裸になり、オナニーを始めた。
三こすり半で最初の射精を迎えたが、久兵衛は陰茎を更にしごき続け、
涙に震えるパトリシアの姿を想像しながら更に2発の射精をして力尽きた。
頭が血流の鼓動を拾ってズキズキと痛み、シンシンとおかしな耳鳴りがして思考が手の届かないどこかによせて置かれているような気がした。
呼吸を整え、思考が脳に引き戻されていく感覚に身を晒しながら、久兵衛はパトリシアの家に彼女以外人がいなかったことを思い出していた。
明日またプリントを持っていったとき、パトリシアをレイプしようと久兵衛は思った。 - 660: 2011/07/28(木) 19:56:31.84 ID:030eTpfUo
- 彼女を突き飛ばした時の、弱々しい感触が手のひらに蘇ってくる。
あんなの、ちょっと力を入れただけで、すぐに押さえつけることが出来るだろう。
そう考えると、3回の射精を経て弱り切っていた陰茎が、また起床してウーンと伸びを始めた。
ああ! 始めてのセックスがレイプだなんて、最高にイカしているじゃないか!
そうやって汚職官僚の子供同士が心さえも通わせないセックスをし、悪人の血の濃い子供を産ませるのだ。
その子供を、生まれ落ちたその時から本物の悪人として、自分の知るあらゆるネガティヴを教えながら汚い金を使って育ててやろう。
純粋な悪人をこの世に降り立たせること。 それが彼流の愛であり、この世に対する復讐であり、義務でもあるのだと、久兵衛は思った。 - 661: 2011/07/28(木) 19:57:30.24 ID:030eTpfUo
- 翌朝、久兵衛は起きがけにまたパトリシアを思い出して朝立ちオナニーをし、
朝食の後、またオナニーをして、それでもおさまらない陰茎をズボンの中で上向きにセットして登校した。
久兵衛はそのままパトリシアの家に直行したくなったが、もし家族が居たときのことを考えると、
一応プリントを持って、これを届けに来たという格好位をつけて置かなければいけない気がしたので、とりあえず学校に向かうことにした。
学校に着くと、全校集会を行うということで慌ただしく、久兵衛は立たされたり座らされたりする全校集会が嫌いであったから、
クラスから離れて、集会の行われる体育館の外で居眠りをこくことを決め、
いつもタバコを吸っているあの場所に行き、寝転がってスパスパやり出した。
集会は校長の話で始まったようであった。 マイクを通してスピーカーで拡声されたしわがれ声は、久兵衛の居るところまではっきり届いた。
――悲しいお知らせがあります――
久兵衛は心臓を握り締められたかのような感覚に起き上がり、校長の言葉を待った。
彼が学校で教師の話しを聞こうなどと思ったのは、これが最初で最後であった。
校長のゆっくりした声は、悲痛を演じながら、パトリシアの死を伝えた。 - 662: 2011/07/28(木) 19:58:16.23 ID:030eTpfUo
- 久兵衛はタバコを消し、しばし放心した。
そして、黙祷、と、スピーカーが震えたとき、久兵衛はファスナーを下ろして陰茎を出し、シコシコとオナニーを始めた。
久兵衛は、オナニーしながらパトリシアの死に顔をはっきりと想像できた。
昨日見た彼女の表情が、死体のそれに近いと思ったからなのかも知れない。
久兵衛はパトリシアの死体に精液を注ぎこむ想像をしながら陰茎を超速でしごき続けた。
そして黙祷やめ、の、号令がかかるまでに、久兵衛は体育館の外壁に射精を終えた。
――パトリシアが死んだ! きっと自殺したんだ!
そうだ、父親が捕まって弱っている所に僕が罪の話をして、君が死ぬしか無い、と、言ったから死んだんだ! 僕が殺したんだ!
久兵衛は、感動に震えた。 レイプして子供を産ませるなど、陳腐なアイデアでしか無かったことを思い知った。
人生を終わらせる。 それは素晴らしいことだった。 何も無駄がない。
久兵衛は女と付き合うときの極意を得た気がした。
がやがやと集会の終わりの雰囲気が壁越しに伝わってくる。
久兵衛はうきうきと体の底から沸き起こる春の陽気のような温かみに突き動かされ、走りだした。
そして教室に帰ろうとしている自分のクラスに合流し、担任の肩を掴んで、目があった瞬間ニンマリと笑い、その耳元で呟いた。
「先生。 パトリシアを殺したのは、僕ですよ」
久兵衛はこの時、漸く本当の悪人になれた気がしたのだった。 - 663: 2011/07/28(木) 19:58:42.37 ID:030eTpfUo
-
… - 664: 2011/07/28(木) 19:59:15.52 ID:030eTpfUo
- 「ねえ、どうしたの、久兵衛?」
その言葉に我に返ったとき、マミの顔は驚くほど近くにあって久兵衛を疑惑に満ち満ちた目で眺めており、
久兵衛はそれを確認して始めて、マミをほったらかして考え事をしていたことに気が付いた。
「ん、ああ、なんでもないよ」
久兵衛は取り繕ったが、マミは更に表情に混じる疑惑分を強め、
「久兵衛ったら、私が初恋の話をしたから、初恋の人の事を思い出していたのね」
嫉妬のアクセントを含んだ言葉を吐きかけた。
「そうじゃないよ。 ちょっと中学の時の同級生のことを思い出していたんだ」
久兵衛はマミの、初恋、という言葉に戸惑った。 パトリシアに感じたのは、そんな上等な感情ではない。 はっきりと劣情だった。
「女の子のことでしょう? どうして素直にその娘のこと、好きだったって言えないの? 何か後ろめたいことでもあるの?」
久兵衛はマミの反応に、中学の同級生の事を思い出していた、というのが失言だったことに気が付き、またまた焦った。
「そんな事無いさ。 僕が好きになったのは君が初めてだよ」
久兵衛はマミの疑り深い問いかけに疲れ始めていた。架空の女に、死んだ女。 一体どれほどの存在しない者たちに嫉妬するのだろうか? - 665: 2011/07/28(木) 19:59:42.00 ID:030eTpfUo
- 「30にもなって初恋なんて嘘くさいわ。 久兵衛はその娘のこと好きだったのよね?」
「マミ、誤解だ。 勘弁してくれよ。 その娘とはデートだってしてないんだから、本当に何にもなかったんだ。
父親が犯罪をしてね、それを苦にして自殺しちゃったんだよ。 そういう事って、時々思い出したりするだろ? 僕もトラウマなんだよ」
「別に怒っていないわ」
顔は怒っているけどね。
「ごめんよ。 君を前にして考え事をしてしまったことは謝るよ。
でも本当にびっくりした出来事だったんだ。 だから時々思い出しちゃうんだよ」
久兵衛は言いながら、何故こうも自分が下手に出なくてはならないのかというムカつきが溜まっていくのを感じていた。
やはり女は疲れる。 早く明日になって、この女を虐めなくては―― - 666: 2011/07/28(木) 20:00:13.38 ID:030eTpfUo
- 久兵衛がそんな事を考えていると、座卓を挟んで向かいに座っていたマミが立ち上がろうと中腰になり、
「ねえ、そっちに移動していい? あなたの隣に…」
と言って久兵衛を、何か思いつめたような目で見てきた。
久兵衛はそれを見た瞬間に、弾かれるように目を背けていた。
それは、精神に直接訴えかけるような、見続けてはいけない類の目付きであった。 マミは時々、そういう目をするのだ。
マミは、久兵衛の隣に座椅子を設置し、座った。
「なんだか急に寂しくなって…あなたが他の女の子のこと考えているって思ったら、居ても立ってもいられなくなって…」
マミはそう言って、久兵衛の手を握った。
「だからこうして、あなたに触れたくなったの。 座卓を挟んで向かい合っていると、なんだかあなたが遠くにいるような気がして…」
「だからそんな風に考えていた訳じゃあ…まあ、勝手にしなよ」
久兵衛はその手を振りほどきたくなったが、明日が来るまでと思い、なんとか耐えた。 - 667: 2011/07/28(木) 20:00:41.40 ID:030eTpfUo
- マミに寄り添われているという、ムズ痒いような不快感に半身を支配され、
それが話題さえ吸収したようになって個室に沈黙が訪れたとき、料理が運ばれてきて、久兵衛は助けられたような気分になった。
「ほら、料理が来たよ。 食べようか」
久兵衛がそう言いながら、目の前に運ばれてきたどんぶり茶碗のフタを開けたとき、
視界に飛び込んできたのがうなぎだったので、彼はギクリとその動きを止めた。
「久兵衛、どうしたの?」
過去の記憶に誘われた彼には、隣にいるマミの声が、またしても聞こえなくなっていくのだった。 - 668: 2011/07/28(木) 20:01:19.07 ID:030eTpfUo
-
… - 680: 2011/07/29(金) 21:09:35.49 ID:HjE5MlJWo
- 番外章4 土用の丑の日
中学校を卒業し、高校を2週間で中退し、家をでた久兵衛は、麻薬の売人や風俗の下っ端をやりながら徐々に闇の世界での信用を得ていき、
体良く使える一匹狼としてヤクザたちから珍重される一方、小さな組からスカウトなどが来たりもするくらいになっていた。
しかしそんな彼は今、闇の仕事を休み、あるチンピラと行動を共にし、擬似的な逃亡生活をエンジョイしていた。
このチンピラはロベルタとか言う源氏名のキャバ嬢に入れ込みすぎ、服だのバッグだのを買わされ続け、
闇金に手を出し、その借金がかさんで今、ヤクザたちから追われている最中なのだ。
コイツはもうすぐ死ぬ――久兵衛が行動を共にしている一番の理由はそれだった。
彼は人が破滅し、死にゆくさまを見るのが一番の楽しみになっていたのだ。
しかし今回はちょっとやり過ぎかなと、さすがの久兵衛も時々後悔のような感情に突き動かされていた。
ヤクザに追われている男と行動を共にするということは、
自分が手助けなどを何もしなかったとしても、その相手側のヤクザを敵に回す可能性が強いからである。
だがそんなスリルさえ、久兵衛は楽しんでいるフシがあった。
彼は、この腐りきった人生がいつ終わってもいいというような、半ば投げやりとも言えるような気分で生きていたのである。 - 681: 2011/07/29(金) 21:10:16.00 ID:HjE5MlJWo
- 「ハラ減ったなあ…久兵衛。 昨日食った生ごみの蛆、プチプチしててうまかったなあ…」
そのチンピラは、カラになっている胃袋を腹の上から撫でさすりながら久兵衛を振り返った。
「最近はカツアゲやオヤジ狩りもやりづらくなってきたよね。 あちこちにヤクザが君を探してパトロールしている。
だから金があったとしてもおちおち買い物にもいけない。
もうΓ県を離れて、死国にでも高飛びしたほうがいいんじゃないかな?」
「よせよ、どこ行ったって俺の顔は知れているんだ。 それに金もなければ高飛びもできねえ」
チンピラは、既に何をしてもダメだと悟ってしまっているようであった。
久兵衛はそんな他人の絶望を見て、自がその埒外に居ることの優越を体中に染み渡らせた。
「そういえばここら辺に教会がある筈だよ。 そこで施しを頂こうじゃないか」
久兵衛はピクニック気分であった。
しかしそんな彼の明るさがチンピラにとっては救いでもあるらしく、
「オメエと居ると、本当に気分が楽になるなあ…よし、行ってみるか!」
彼は不健康に痩せこけた顔を精一杯笑顔に作り替え、公園の近くにある小さな教会に向け、足を引きずりながら歩き出したのだった。 - 682: 2011/07/29(金) 21:10:55.16 ID:HjE5MlJWo
- 教会の扉をノックし、しばらくして扉が開けられると法衣をまとった貧相な神父が立っており、
チンピラはそれを確認するなり、まるでΖガンダムが変形をするように超速で土下座の体勢を取り、
「俺たちを匿ってください! ちょっとやばい連中に追われていて、のっぴきならねえんです! 頼んます!」
と、元気な声を張り上げたものだから、久兵衛はコイツはもう少し生き延びるかも知れない、と、暗澹とした気分になった。
「何も御構いできませんが、神様はすべての方に平等です。 どうぞこちらへ…」
神父が奥へ案内をすると、チンピラはイヌのように付いていき、
「腹が減って死にそうだなあ! もう3日も食ってねえや!」
と、わざとらしい、嘘の独り言を張り上げた。
久兵衛は昨日、生ごみをタカっている蛆ごと腹いっぱい食ったこの男の浅ましさとしぶとさを目の当たりにし、
更に気持ちが陰っていくようであった。
そしてこのままではこの男がだらだらと生き延びてしまい、自分の時間が無駄になると思った久兵衛は、
便所に行くふりをして事務所のようなところに忍びこみ、勝手に電話を使ってヤクザの事務所にかけ、
この教会に彼がいることを教える代わりに、2万円を貰う取引を瞬く間に終了させた。 - 683: 2011/07/29(金) 21:11:48.58 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛が物置のような部屋に入ると、そこにはあのチンピラの他に、くたびれた背広を着たサラリーマンだった風の男と、
浮浪者みたいな男とが座り込んでいて、異様な臭気が立ち込めており、まるでカブトムシの飼育箱のようだと彼は思った。
彼が床に腰掛けるとすぐに飼育箱の扉がノックされ、
小学校高学年に届いたか届かないか位のと、小学校に上がるか上がらないか位の2名のロリガキが、お盆におかゆを持って参上した。
「くーかい?」
大きい方のガキがそう言っておかゆを一膳ずつ配って回っており、
それを受け取った浮浪者もサラリーマン風も、
「ありがとう、きょうこちゃん」
と、礼を言ったので、久兵衛はそのガキがキョウコ、という名前なのだと知ったが、だからどうなるものでもなかった。
キョウコは、久兵衛が口説くにはあまりにも幼なすぎた。 そんなガキの名前を覚えたところで、意味はないのである。
キョウコじゃない方のガキは、指をしゃぶりながら、黙っておかゆを食っている連中のほうを見ている。 - 684: 2011/07/29(金) 21:12:16.78 ID:HjE5MlJWo
- 「くーかい?」
久兵衛にも、キョウコがおかゆを持ってきたので、彼はそれを奪うように取ると、ちびガキが久兵衛の方を見た。
そして久兵衛がおかゆを口に運ぶと、ちびガキはそれを目で追っているではないか。
久兵衛はわざとらしく見せびらかすようにおかゆを食い、次いで一匙のおかゆをちびガキの方に差し出し、
「欲しいのかい?」
と言ってやると、その顔に期待が満ちて表情がほころび、トテトテと久兵衛の方に近寄ってきたので、
頃合いを見計らってそのおかゆを素早く自分の口に持って行き、旨そうに飲み下して、
「あげない」
と、舌を出してやると、ちびガキの顔はみるみる梅干しのようにくしゃくしゃになり、仕舞いにはサイレンのような大声で泣き出した。 - 685: 2011/07/29(金) 21:12:43.21 ID:HjE5MlJWo
- 「こら、なくんじゃねえ」
とか言いながらキョウコが飛んできてちびガキをひっぱたき、部屋から引き摺り出すのを見て、久兵衛は腹を抱えて笑った。
廊下からは退場させられたちびガキの鳴き声が間断なく聞こえており、
それに混じって「あたしのりんごをわけてやるからさあ」とかいうキョウコのあやす声が飼育箱の中まで届いてくる。
「何だあのガキ、トンだ三文芝居だねえ!
表では神の前では皆平等とか言っていながら、本心は僕らみたいなクズが邪魔で仕方なくて、
あんなふうに飢えたふりしたガキを使って僕らの痩せこけた良心を刺激し、早々に追いだそうって魂胆なんだねえ!
きっとあいつら、僕らにこんな不味い粥を食わせておいてさ、陰ではものすごくいい物食べているんだぜ!」
久兵衛が得意満面にそう言って周囲を見回すと、サラリーマン風と浮浪者とが彼を猛烈に睨みつけており、チンピラがおろおろとしていた。 - 686: 2011/07/29(金) 21:13:29.42 ID:HjE5MlJWo
- 「君、施しを受けておいて、そんな言い方って無いじゃないか!」
サラリーマン風が立ち上がって久兵衛を糾弾し始めたので、久兵衛は無言で彼をぶん殴り、言った。
「うるさいねえ、不味い粥だけしか貰えなくて腹が減っているってのに余計なエネルギーを使わせるなよ」
伸びているサラリーマン風にそう吐き捨てると、久兵衛は座っておかゆをかき込み、食い終わると器を放り投げて寝転がった。
浮浪者はサラリーマン風を介抱しながら久兵衛を睨んでいる。
しばらくするとまたキョウコが入ってきて、浮浪者たちにごちそうさまでした、とか言われながら器を回収し始めた。
浮浪者など、まるでキョウコが女神であるかのように手を合わせ、拝むような格好をしていて、久兵衛はそれを見て爆笑してしまった。
そしてキョウコは久兵衛の器を拾うなり、歩み寄ってきて、
「おじさん、のこさないでください」
と言って彼に器を突き返してきたではないか。 - 687: 2011/07/29(金) 21:14:12.66 ID:HjE5MlJWo
- 「僕はまだ20代前半だからおじさんなんて呼ばれる筋合いはないけどね、ちゃんと食べたじゃないか!
こんな不味い粥を食べてあげたのに、なんで君はそうやってケチをつけてくるのかなあ?」
久兵衛が面倒くさそうに返答すると、キョウコは器を指さし、飯粒が4つほど残っていることを示し、
「おこめは、のうかのひとたちが、いっしょうけんめいつくったものだから、こんなふうにのこしたりしちゃ、いけないんだぞ!」
と、ガキの分際で説教をしてきたものだから、久兵衛は脳天を怒りが突き抜けていく感覚に立ち上がり、
彼女を見下ろす体勢になって充分に威圧し、ガンを飛ばしてから、
「それはあのちっこい方のガキに分けてあげる分さ。 お腹がすいているそうだから、食べさせるといい」
と言ってやり、器を突き出したが、キョウコは受け取らず、
「これはおまえのぶんなんだ! たべものをそまつにしちゃだめなんだぞ!」
と強情を張ったので、久兵衛は握りこぶしを振り上げて脅かした。 大抵のガキはこれでビビる。
しかしキョウコは一歩も引かなかった。 器を力いっぱい突き返したまま、久兵衛を見据えている。 - 688: 2011/07/29(金) 21:15:01.00 ID:HjE5MlJWo
- すると不意に、久兵衛のこめかみに鈍い衝撃が走り、彼は床に叩きつけられた。
「久兵衛!」
チンピラの声が聞こえた、と思ったら久兵衛の腹が蹴られ、彼はおう、という声と共に呼吸が出来なくなった。
「オメエは黙ってみていればよ、杏子ちゃん達に失礼なことしやがって、許せねえんだよ!!」
浮浪者の声がして顎が蹴り上げられ、コチン、と前歯がかち合う音と衝撃が響いて口の中に血の味が滲み、
脇腹に靴の先が刺さり込んで喉元に酸っぱいものが込みあげた。
サラリーマン風と、浮浪者にリンチされているのだと悟り、久兵衛は必死で左腕をかばった。
「止めろやオラァ!」
チンピラの吠える声が聞こえ、自分を痛めつける圧力が減った。 ひとりを引き受けてくれたのだと思った。
「やめろ! けんかはだめ! やめろ!」
キョウコの必死に叫ぶ声が聞こえる。 久兵衛は左腕が気になって反撃できない。
「何をしているんだ! やめなさい!!」
その時、神父のよく通る声が小汚い部屋に響き渡り、全ての闘争が一斉に止んだ。
久兵衛は痛む腹を右手で押さえ、左腕の時計を見た。
「…よかった…壊れてない…」
久兵衛の左腕にはめられた時計の金色の秒針が、部屋の乏しい明かりを受けて輝きながら一秒を五回に刻んでいた。 - 689: 2011/07/29(金) 21:15:56.24 ID:HjE5MlJWo
- 神父の説教が終わり、なお重苦しさが留まる部屋の中で、久兵衛が時計を外し、ジコジコとゼンマイを巻き出したとき、
チンピラが久兵衛の手元を覗き込み、
「なにかと思ったら、随分ボロっちい時計じゃねえか。 だいたい今の時代に、そんな非防水の手巻きなんか流行らねえぞ。
自動巻き買えよ。 サイコーファイブとかさ、安いのあるじゃん」
と、つまらなそうに言ってきた。
「一応僕にも宝物って言うのがあるのさ」
久兵衛はそう言ってゼンマイを巻き終え、時計を腕にはめ直した。
それは彼が中学の入学祝いに、汚職成金の父に買わせた売れ残りの腕時計であった。
「ふうん、そういえばやられているとき、必死でかばっていたもんな」
久兵衛はチンピラの言葉を流し、本当に壊れていないことを確かめるように秒針の動きを目で追っていた。 - 690: 2011/07/29(金) 21:16:46.50 ID:HjE5MlJWo
- 「お前って、なんかそういうトコあるよな」
久兵衛はチンピラの言った言葉の意味がよくわからなくて、そういうトコって? と聞き返した。
「なんか優しいっていうかさ、そんなボロを買い換えずに使い続けるあたり、お前らしいとか、思うんだよな。
今もさ、俺みたいなクズに付き合ってさ、一緒に逃げてくれているだろ? 俺、嬉しいんだよ。
こんな騙されてばかりの人生だったけど、なんて言うかさ、一人だけでも、友達って言うのができたんだって、そんな感じでさ、
俺、お前のこと、本当に友達だと思っているんだ」
久兵衛は、勝手な解釈をして自分を友達にでっち上げようとしているこの男が不憫になった。
そしてこんなだから、簡単に騙されてしまうんだなと、自らの脳内の辞書の中の、反面教師の頁にこの男のこういった習性を書き加えた。
自分は、この男がどんなふうに破滅し、死んでいくのかを間近で観察しようというだけの傍観者なのである。
それ以上でも以下でもない。 友達なんてもっての外だ。 - 691: 2011/07/29(金) 21:17:21.01 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛がそんな風なことを考えていると、不意に外から賑やかな雰囲気が久兵衛たちの居る部屋まで漂ってきた。
久兵衛はチンピラを追っているヤクザが来たのだと確信した。
「ひぃっ! 奴らが来やがった!!」
チンピラも同感したらしい。 頭を抱えてうずくまり、震えだした。
「僕が様子を見てこようね」
部外者というか、寧ろ通報した本人である久兵衛はそう言って立ち上がり、クズ人間達が溜まっている牢獄のような小さな部屋を出た。
歩いている途中で、生活スペースのような部屋からは、「こわいよおねえちゃーん」と、さっきのちびガキが恐怖に泣き叫ぶ声に混じって、
キョウコが「だいじょうぶだぞ、おやじもねえちゃんもついているから、こわくないぞ」と、ちびガキを励ます声が聞こえてきた。
久兵衛は先程脅したときに全く動じなかったキョウコの態度をちらと思い出し、
もしかしたらあのガキは大したタマなのかも知れないと思った。 - 692: 2011/07/29(金) 21:18:05.60 ID:HjE5MlJWo
- 入り口に向かうにつれ、ヤクザたちの罵り声は明瞭となっていき、
久兵衛と行動を共にしていたチンピラを求めているのだということが久兵衛にもわかるようになっていった。
「オラァ!! チンピラァ!! おるんじゃろがあ!! 金返せやあ!!」
「チンピラ出せや糞坊主がァ!! ヤクザなめとんかワリャあ!!」
貧相な神父は、扉越しに、
「お引き取りください!! ここは神の家ですよ!! 狼藉は許しません!!」
などと久兵衛にとって意味不明な事を言っており、
「アハハッ! 何が神の家だよ! お前の家じゃないか! もしかしてあの小汚い神父は神様のつもりなのかな!?」
彼は腹を抱え、声を殺して笑った。
そして久兵衛は、この偽善者じみた神父があのチンピラをヤクザに引き渡すシーンを、どうしても見たいと思うようになっていた。 - 693: 2011/07/29(金) 21:18:52.96 ID:HjE5MlJWo
- それから一週間ほど、久兵衛はこの「さくら会」とか言う貧乏な教会崩れの宗教団体施設で、
その神父の娘である姉妹のうち、弱っちい妹の方をいじめながらだらだらと過ごしていた。
チンピラを含む三人は、すっかりとこの団体の信者となってしまい、積極的に掃除や買い物を手伝ったり神父の教えを聞いたりしていたが、
久兵衛はそんなあほらしいことはせず、官能小説を読んだり日光浴をしたりしながら、そんな連中を傍観しているのだった。
そんな中、浮浪者とサラリーマン風は何かのアルバイトを始め、日給から毎日団体に金を納めだした。
そしてサラリーマン風に至っては、なにやら起業したかったんですとか言い出してへんてこな発明品を作り、営業活動まで始める次第であった。
そしてヤクザに目を付けられて外に出られないチンピラは、次第に働いている他の二人に引け目を感じていき、
自分の情け無さに悶えながら、鬱々と引き篭っていたのだった。
その間、毎日のようにヤクザが彼を求めて教会に脅しに来続けていたことは、言うまでもなかろう。 - 694: 2011/07/29(金) 21:19:52.26 ID:HjE5MlJWo
- 「なあ、久兵衛」
ある日、チンピラが蚊の羽音のようなか細い声で、久兵衛に問いかけてきた。
普段はそんな小さな声が聞こえない彼であったが、極限まで退屈していたため、
「なんだよ?」
即座に返事が出来た。
「俺さ、ここから出ていこうと思うんだけどさ…」
「何いってんだよ! 出たら殺されるじゃないか!!」
久兵衛は、その馬鹿げた提案に即座に反対した。
そして、殺されるのを待ち望んでいたはずなのに、何故そんな事を言ってしまったのだろうとおかしな気分になった。
「俺さ、団体に対して何も奉仕できてないしさ、もうなんか嫌になっちゃってさ。
だからもう、思い切って出ちゃってさ、当たって砕けろでさ。 あいつらも、俺を殺すまではしないんじゃないかって、思うんだよ。
だからさ、一生懸命働いてあいつらに金返してさ、真っ白になった体で、もう一回ここに帰ってきてさ、
みんなみたいに働いてさ、教会を支えていけるようになりたいんだ」
チンピラはそう言って、肯定を求めるように久兵衛を見た。 - 695: 2011/07/29(金) 21:20:33.20 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛はコイツが本当にバカになってしまったのだと思った。
宗教に頭がやられてしまって、正しいことが理解できなくなってしまって、もうきっとどうしようもないのだろう。
そんなチンピラの豹変ぶりを見て、久兵衛は賄賂を貰う身分になってころりと変わった父の事を思い出していた。
「じゃあ勝手にするがいいさ」
頭がおかしくなった奴には、もう何を言っても無駄なのだと諦め、久兵衛はチンピラを放り出すように吐き捨てた。
「もう一つ、頼みがあるんだ」
久兵衛は無言で顔だけを向け、なんとか聞いてはやるけどさ、という態度を示した。
「俺のこと追ってるヤクザは、死体を処理する時、精肉工場でミンチにした死体を、うなぎの餌にするって知っているか?」
「まあ裏業界では有名な話だね。 そこのうなぎがうまいって事も」
「もし俺が帰って来なかったらさ、あそこの系列のうなぎ養殖場からうなぎを買ってきてさ、食べて欲しいんだ。
俺とお前は友達だからさ、だから俺の一部を持っているうなぎをさ、お前に食べて欲しいんだよ。
俺さ、お前の体の何分の一かになってさ、そうすると、ずっと一緒にいられるじゃん。
俺、お前と友達だからさ、だからずっと一緒にいたいんだよ。 バカで騙されてばかりの俺にさ、付き合ってくれたお前だからさ、
なあ、ゴメンな、気持ちわりいよな、だけどさ、もしかしたら死ぬって考えたらさ、無性にお前に食って欲しくなったんだよ。
だから頼むよ。 うなぎ食ってくれ」 - 696: 2011/07/29(金) 21:21:22.16 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛は意外な展開になったな、と思いながらも、うん、と肯定の返事をしていた。
「うん、分かったよ。 約束する」
「ありがとう、ありがとう。 うなぎボーンも食べてくれよな」
「分かったよ。 骨まで食べるよ」
チンピラは、久兵衛の返事を聞くと晴れやかな表情で立ち上がった。
「ありがとう。 じゃ、俺、行くよ。 気が変わらないうちに行く。神父さんたちによろしくな」
彼は、ここに来て始めて、外に通じる扉を自分で開けた。
薄暗い建物の中から見えるその姿は、溢れる光に飲み込まれてよく分からなかった。
チンピラが出て行くと、待ち構えていたヤクザが、
「出てきやがった!!」
と声を上げ、次いで、
「俺は逃げないぞ!」
と、チンピラの声が聞こえた。 彼らに関する音はそれっきりで、久兵衛が追うように教会を出た時、もうチンピラの姿はなかった。
「久兵衛君、彼はどうしたんだ!?」
声に慌てて出てきた神父が、後ろから久兵衛に声をかけてきた。
「みんなが働いているのを見せつけられて、外に出られない自分が役に立たない人間だと思い込んで、絶望して死にに行ったんだよ。
あいつはそんなタマじゃなかったのに、そんな奴を虚弱にして、ヤケクソにして…何が新しい教えだ。 この偽善者め」
久兵衛は神父を振り返ること無くそのままさくら会を出て、二度と戻らなかった。 - 697: 2011/07/29(金) 21:22:02.03 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛はさくら会を出て3日後、チンピラを連れ去ったヤクザ、「射太興業」の事務所に呼び出されていた。
「まあ座れや」
久兵衛が示されたソファに腰掛けると、3万円が渡された。
そしてその時初めて久兵衛は、ヤクザとチンピラの身元を取引した自分を思い出した。
「お金は2万円のはずですが」
ヤクザは、久兵衛の律儀さを豪快に笑い、
「あいつをあの教会から出るように説得してくれたんじゃろ? あいつが全て吐いたわ。 1万はその追加料金じゃ」
と、教えてくれた。
久兵衛はそれを聞いて、あのチンピラが、自分に被害が及ばぬように嘘の供述をしたのだと直感した。 あいつは、そういう奴だった。 - 698: 2011/07/29(金) 21:22:36.38 ID:HjE5MlJWo
- しかし久兵衛は余分にもらった1万円を返した。
「何や、もらっとけいうたじゃろ」
久兵衛は首を左右に振って否定の意を示し、
「彼は、うなぎの餌に?」
ヤクザの、色眼鏡の先にある冷たい眼をのぞき込みながら、聞いた。
ヤクザは、ほう、わしらが死体始末するカラクリを知っとるのか、と、腕を組みながら言い、少し考え込んだ後、
「まあお前がキレ者だって噂はよく聞いているからな、そんなアングラ情報誌に書いてあるような知識があったところで、
そんなのを使ってうちの組をどうこうしようってバカ言うんじゃあ無いんじゃろ?
奴はな、肉骨粉に加工されてな、今朝、養殖場に持って行かれたわ。
人肉飼料はのぉ、うなぎの大好物なんじゃ。 バクバク食いよるでぇ。 そんでな、味も良くなるし、大きく育つ。
そんでこっちも、邪魔な死体をな、綺麗に処理できるしな、いいことずくめよ。」
開き直ったように説明した。 それを無表情で聞いていた久兵衛は、
「その1万でうなぎをご馳走してください。 彼の肉を食った、まさにそのうなぎを」
と言って、ヤクザを見据えた。 - 699: 2011/07/29(金) 21:23:09.49 ID:HjE5MlJWo
- ヤクザはしばしあっけに取られたように放心していたが、
「コイツは傑作じゃあ! 人肉うなぎの事実を知ってる人間で、食いたいなんて言ったのはお前が始めてじゃ!」
おもむろに笑い出し、うなぎ養殖場と、どこかの料理屋に電話を入れ、うな重を作らせる段取りを付け、
「昼飯時までまちいや」
と言って、ニヤリと笑った。
久兵衛は退屈だったが、待つことにした。
そしてそのヤクザのボスと世間話をしながら意気投合していき、その組の専属のような身分になることを決めた。
その1時間ほど後、昼飯に運ばれてきたうな重は、開けてみると何の変哲もないうな重であった。
久兵衛がそれを凝視していると、
「何や、怖気付いたんか? 食わんのか?」
馬鹿にしたようなアクセントで問いかけるヤクザのボスは、ニヤニヤと上辺だけは笑ってはいたが、肝腎の目が笑っていない。 - 700: 2011/07/29(金) 21:24:07.75 ID:HjE5MlJWo
- 久兵衛はそんな表情を見、これを食べなかったら次は自分がうなぎの餌にされるのだと直感した。
「いただきますよ。 一万円が勿体無いじゃないですか」
そう言いながら箸で切り取った身は柔らかく、立ち上る湯気はうなぎの香りを孕んで嗅覚から食欲を刺激し、
久兵衛は空腹に加速されたその知覚に抗うこと無く、一口目を口に入れた。
「美味い!」
そ れは、本当に極上のうなぎであった。
久兵衛は人肉を食ったうなぎだということを完全に忘却し、二口目にとりかかった。
あまりのウマさに箸と咀嚼の動きが徐々に加速していき、仕舞いには喉が詰まってお茶をもらった。
そしてそのお茶で喉の詰まりを胃袋に押しやり、さあ次の一口と思ったときに、重箱はカラであった。
「きゅっぷい」
それは最高に美味かった。 久兵衛はそれ以上美味い物を未だ知らぬ。
だがしかしそれ以来、久兵衛は何故かうなぎを食べることが出来なくなってしまったのだった。
ちなみに新興宗教団体さくら会が、ベンチャー企業を立ち上げて成功した、
木手英一とかいうサラリーマン風の男の支援を受けて全国に広がり始めるのは、それから2年ほど後のことであった。 - 701: 2011/07/29(金) 21:24:37.28 ID:HjE5MlJWo
-
… - 712: 2011/07/30(土) 18:49:46.76 ID:ObSJY7JKo
- 番外章5 涙のキス
「どうしたの、ねえ、久兵衛! ねえってば!」
マミに体を揺さぶられ、久兵衛はハッと我に帰り、自分がうな丼を凝視したまま固まっていることに気が付いた。
そして震える手でどんぶり茶碗の蓋を閉じ、
「ああ、何でもないんだ…何でもない…ちょっと疲れただけだよ…」
と言いながら、うな丼の茶碗を床にどけた。
「ごめんなさいね。 私が買い物に付きあわせたり、我侭言ったりしたから、久兵衛疲れちゃったのね。 本当に、ごめんなさい」
「いや、マミのせいじゃないよ…僕はうなぎが駄目でさ、ちょっと見ただけでアレルギー反応って言うか、そんなふうなんだ」
久兵衛は震えていた。
蒲焼になったうなぎを見ているだけで、自分がその一部となって吸い込まれてしまいそうなおぞましい不安に襲われる。
マミはそんな久兵衛の体を優しく抱き寄せ、
「落ち着いて、落ち着いて」
と、背中をさすってくれていた。
マミがそばにいて、うなぎから自分を守ってくれている…なんだかそんな気分であった。 - 713: 2011/07/30(土) 18:50:21.68 ID:ObSJY7JKo
- 久兵衛は、ふう、と溜息を吐いて、
「もう大丈夫だ。 マミ、腹減ったよ。 一緒にしゃぶしゃぶを食べよう。 うなぎのことはもう忘れたから、大丈夫だ」
と言ったそばから、箸を取り落としてしまっていた。
「大丈夫じゃないじゃない!」
マミはそう言って、腹減った、を連発している久兵衛のために、しゃぶしゃぶを湯にくぐらせ、口元まで運んでやった。
「ほら、食べられる? しゃぶしゃぶよ。 うなぎじゃないわよ」
久兵衛はマミの箸からしゃぶしゃぶを食い、飲み込んで、
「ああ、美味い」
と言って、もう一度溜息を吐いた。
マミが自分を喰らわんとするうなぎを退治してくれたような安心感に、久兵衛は、震える手でなんとか箸をつかめるようになった。
「マミも食べろよ。 美味しいよ」
マミは久兵衛の方を見てクスッと照れたように笑い、「あーん」と、口を控えめに開けた。
久兵衛はしゃぶしゃぶを湯にくぐらせ、マミの口に放りこんで、
「まるで、鳥がヒナに餌をやっているみたいだ」
そう言って、笑った。 あまりにも自然に笑みが出たので、久兵衛はこの時、自分が笑ったことに気がつかなかった。 - 714: 2011/07/30(土) 18:50:50.83 ID:ObSJY7JKo
- 久兵衛が刺身やら吸い物やら茶碗蒸しやらを食っている間、マミはちょくちょく箸を久兵衛の口元に持って行き、
「はい、これも食べて」
とか言いながら女房気取りで物を食わせ、その後決まって「あーん」とか言って自らも食べさせてもらおうとしてくるので、
久兵衛はいい加減面倒くさくなって、そんな応酬にピリオドを打とうと思い、
マミが口を開けている際に眼を閉じる性質を逆手に取り、大量のわさびをヒラメの刺身に包んでその口に放りこんでやった。
マミは餌を貰ってニコニコと満足そうに咀嚼したが、いきなり生真面目な表情になり、次いで手を口に当てて2秒ほど固まり、
「ふぁっ!」
と悲鳴を上げ蹲ったとき、久兵衛はマミが自分の事を見えていないのをいいことに、口を押さえてクックッと、声に出さずに笑った。 - 715: 2011/07/30(土) 18:51:19.81 ID:ObSJY7JKo
- 「うーっ! うーっ! うーっ!」
マミはわさびの刺激で喋ることが出来なくなっており、久兵衛は何故そうなっとるのかを知らぬと言った風に、
「どうしたんだいマミ? ヒラメはふぐじゃないから毒は無いはずなんだけどなあ…」
これ以上無いほどのんびりと声を掛けてやった。
マミはしばらく悶えた後、「うんっ! うん!」と、大袈裟に体中を使って飲み込んで、ボロボロと涙を流しながら、
「わさび! わさび!」
と、鼻のあたりを抑えながら、くぐもった、訴えるような声を上げた。
「そうか、わさびの量が多すぎたんだね。 ごめんごめん」
久兵衛はマミの背中をさすってやりながら、白々しくそう言った後、耐え切れずにプッ、と吹き出してしまい、
それを聞いて振り向いたマミの顔が猛烈な怒りを含んでおったので、久兵衛は、
「ほんとうにごめんよ」
と、形ばかり謝り、次に「あーん」されたときはわさび山盛りの逆襲が来るなと予想を立てた。
もしかしたら、うなぎが放り込まれるかも知れないが、その時はマミ自身をうなぎの餌にするしかあるまい。 - 716: 2011/07/30(土) 18:51:46.32 ID:ObSJY7JKo
- しかし、待てど暮らせど一向に「あーん」をしてこないマミに、久兵衛は次第に不安を覚えていった。
――もしかして機嫌を悪くされたんじゃあるまいか!
――げっ! そういえば今日はマミをメンテナンスする日じゃなかったか! ヤバい! 忘れてた!
久兵衛は隣で黙々と、わさび抜きで刺身を食べているマミの方を向いて、
「マミ…おーい、マミさあん…」
か細く、長く伸ばした気味悪い声で、マミの機嫌を伺うように声をかけたが、一向に反応がない。
「…もしかして、怒っているのかい?」
腹の底に鬱積した冷たい予感を言葉にし、恐る恐る質問すると、
マミはふぐのように頬をふくらませながら久兵衛の方に顔を向け、無言のプレッシャーをかけてきたので、彼は絶望した。
――ヤバいなんてもんじゃない! 今日一日、僕が自分を殺して頑張ってきた努力が水の泡じゃないか! - 717: 2011/07/30(土) 18:52:19.52 ID:ObSJY7JKo
- 「マミ、本当にゴメン! 僕に山盛りのわさびを食べさせていいから、どうか許してもらえないだろうか?」
久兵衛は背に腹を代えられず、とうとう最大限の譲歩をしてしまった。
マミはそれを聞くなりおぞましい表情でニヤリと笑い、
「言ったわね、久兵衛」
待ってました、と言わんばかりであった。
久兵衛はそれを見て、自分が罠にハメられたような、恐怖にも似た感覚に震えた。
――やはりコイツは女だった!
なかなかしっぽを出さないから油断していたが、確かに男なんかよりずっと卑劣で残忍な女の一面を、このマミも持っていたんだ!
「さあ久兵衛! 眼を閉じてあーんしなさい!」
しかし久兵衛は観念し、言われたとおりにした。
自分が言い出したことだ。 そこから逃げるのは直接に彼の負けたことを意味するのである。 だからそれだけは出来なかった。 - 718: 2011/07/30(土) 18:52:47.20 ID:ObSJY7JKo
- 久兵衛が目を閉じ、口を開けて待っていても、一向に何も放り込まれる気配が無かったので、
どんなにおぞましい量のわさびが口に入れられるのかと、彼の中には恐怖の蓄積が起こり始めていた。
「マミ、まだかい?」
動かぬ状況に痺れを切らした久兵衛が問うと、
「今お刺身に、うんと沢山のわさびを仕込んでいるの」
と、おぞましき返答が成されたので、久兵衛は更に恐々とした。
このままではうなぎばかりでなく、刺身も食べられぬ人間になってしまうおそれがあるではないか!
「さあ、準備ができたわよ! 観念なさい!」
久兵衛の体が強張った。 まるで歯医者だな、と思う。
「はい、あーん」
口を開けて待っているのに、あーん、とは手の込んだ嫌がらせである。 体が恐怖の予感に、更にこわばっちまう。 - 719: 2011/07/30(土) 18:53:18.79 ID:ObSJY7JKo
- そしてとうとう放りこまれた刺身の味は…
久兵衛は、歯ざわりでそれがタイであることを突き止めた。
醤油と入り交じった魚の旨味。
それにわさびが溶けて…
「あれ?」
久兵衛は咀嚼してみた。 わさびの味は無かった。 そのまま飲み下す。
「おい、どういう事なんだい? わさびが無いじゃないか!」
目を開けて、マミを問い詰めると、その顔は先程のおぞましい表情が嘘のようにしおらしくなっている。
「私、そんな酷い事出来ないわ。 あなたが謝ってくれただけで充分なの。 せっかくのお料理なんだから、美味しく頂きましょう」
久兵衛はマミの言葉を聞いて、穴に落ち込んでゆくような、強烈なショックを覚えた。
単に肩透かしを食らったから、というだけの陳腐な落胆ではない。 - 720: 2011/07/30(土) 18:53:43.46 ID:ObSJY7JKo
- 「マミ! そんなんじゃ君はだめになるぞ!」
久兵衛は、絶望的なまでのもどかしさをマミに感じ、どうしていいか分からぬまま、大きめの声を張り上げてしまっていた。
「やられたらやり返さないと、どんどん負け犬になっていってしまうんだ! こう言うのは、きちっとけじめをつけたほうがいいの!」
マミはオロオロしながら、でも…とか言ってまたまた逡巡し始めたので、久兵衛はヤケクソになって、
「君がやらないなら、僕自身がやる! ハラキリだ!」
と言って、舟盛りのスミに盛りつけて置かれたわさびの塊を箸でつまみ、一息に自分の口に放り込んだのである。
「久兵衛!」
マミのシャウトが聞こえるやいなや、久兵衛の口内ではわさびのあのねちっこい、
頭骸骨を貫いて脳を直接に刺激しているかとさえ思える猛攻がまさにスタートしていた。 - 721: 2011/07/30(土) 18:54:49.67 ID:ObSJY7JKo
- 「くをーーっ!!!」
悶えながら畳に蹲ってゆく久兵衛を、マミが背中をさすりながら、
「あなたなんて事するの!?」
呆れた声を上げて介抱していると、久兵衛は涙で滲んだ目をマミに向け、
「けじめだよ」
ニヤリと笑い、やせ我慢をして蹲った姿勢から起き上がった。
「もう、馬鹿なんだから!」
そんなマミの言葉に、バカとは何だ、と、久兵衛が反論しようとしたとき、
彼の唇に、ひやりと、マミの柔らかいそれの感触が触れ、一気に口が塞がれた。
舌が挿し入れられ、わさびに痺れたそれに絡まりあい、不快を溶かして取り去ってくれているように、久兵衛には思えた。
そしてマミは久兵衛から離れるなり、
「ツーンと来たわ!」
と言ってまた蹲ることになった。 - 722: 2011/07/30(土) 18:55:16.04 ID:ObSJY7JKo
- 「馬鹿だな君は! 一体何を考えているんだ!」
涙を流し、頭を抱えながら叫んだ久兵衛に、
「お互い様よ!」
と、マミが返し、久兵衛はもう何が何だか、何故こんな事が起こったのかさえ分からなくなった。
「そういえば、これが今日初めてのキスよ! 酷いキスだわ! 折角のデートなのに…」
そう言っているマミの目から流れている涙は、
わさびの為のものなのか、酷いキスをしてしまった情け無さのようなものから来ているのか分からない。
まあ、多分どちらでもあるのだろう。 - 723: 2011/07/30(土) 18:55:50.43 ID:ObSJY7JKo
- それより未だ酷いわさびの、脳への攻撃のほうが久兵衛にとって深刻であった。
「キスしてきたのは君の方じゃないか!」
なんとか久兵衛が答えると、
「全くそのとおりだわ!」
マミが泣き顔で答えた。 久兵衛はそれを見て、
「ひどい顔だね!」と言い、マミが、
「あなたもよ!」と、返した。
そして二人は、涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、最低の笑顔を作り、笑い合った。 - 724: 2011/07/30(土) 18:56:17.76 ID:ObSJY7JKo
- 飯を食った後、店の者にタクシーを呼ぶように言って、久兵衛は「ああ、食ったくった」と言って寝転がった。
するとマミが近寄ってきて、久兵衛の頭を持ち上げて、膝枕にのっけてくれた。
「よせよ、恥ずかしいじゃないか」
「いいじゃないの、誰も見ていないんだから。 それに私たち、恋人同士だもの」
「恋人同士でも、やってみっともないことはあるものさ」
久兵衛はマミの行動を牽制するように言ったが、マミは動じず、
「おうちに帰ったら膝枕で耳掃除してあげるわ」
などと言っている。 久兵衛はそんなマミの言葉を受け、
「またわさびを口に放り込むぞ!」
ふざけた調子で怒鳴ると、
「じゃあ今度こそ、私もあなたにわさびを食べさせるわ!」
と、マミも応酬してきて、久兵衛は、その調子だ、やられたらやり返すんだ、と言って、また自然に笑った。 - 725: 2011/07/30(土) 18:56:47.78 ID:ObSJY7JKo
- 帰りのタクシーに乗り込み、久兵衛が運転手に、マミのマンションの名前を伝えたとき、彼はその胸の内に微かな違和感の萌芽を見た。
そしてその隣にマミが寄り添ってきたとき、その柔らかな感触と温もりとがその違和感に送り込まれ、
それは鮮明に、冷たくトゲトゲしい形をもって心の内壁を削り、焦りにも似た知覚を持って久兵衛を追い立てるようであった。
――何かが、おかしいぞ? 何だ?
久兵衛は、そ知らぬ顔で、座席の上の尻を横に滑らせ、少しマミから距離をおいた。 そうすると、違和感は和らいだのだ。
それに気がついたのか、マミは久兵衛の左手に自らのそれを重ねようとしたが、久兵衛は時計を見る振りをして、それをかわした。
マミが久兵衛の方に顔を向けた。 視線がくすぐったかったが、久兵衛は気づかぬふりをした。
「久兵衛、どうしたの? なにか変よ?」
そら来た、と、久兵衛は思った。
「何が変なんだい?」
久兵衛は、白々しくそう答えた。 - 726: 2011/07/30(土) 18:57:15.43 ID:ObSJY7JKo
- 「なんか、急によそよそしくなったわ」
久兵衛はマミの方に顔を向け、なんでそんな事を言うのか分からないなあ、という表情を作り、そんなことないよ、と言った。
「じゃあどうして離れていくの?」
「タクシーは広いからね。 ゆったりと使わないと勿体無いじゃないか」
久兵衛はそう言った後、ああ、疲れた、と、大袈裟に溜息を付いて、話しかけるな、という無言の圧力をマミにかけ、
外の景色を眺めながら違和感の理由を探り始めた。
マミは相変わらず視線をこちらに向けている。
久兵衛はそれを気にしながらも、急速にマミに対してどう接すればいいのかを分からなくなり、
ただただ、この違和感が無くなってくれれば、その答えが得られるはずだと考えながら、ぼんやりとガラス越しに流れる街の明かりを眺めていた。 - 727: 2011/07/30(土) 18:57:50.95 ID:ObSJY7JKo
- 交差点でタクシーが停止したとき、とある喫茶店の看板に照明がついており、目に飛び込んできたそれが、
久兵衛の心に絡みついて違和感を形作っていた疑念の糸を、瞬時に解き放ったようであった。
その喫茶店「喫茶ワルプルギス」は、彼がマミの家に通うのに、毎回その前を通る、いわばランドマークのようなものであった。
照明を付けられて煌々としているその看板が闇を切り裂いて視覚に訴えかけ、
いつも久兵衛がその前を通るとき、考えていることを再確認させる。
そう、この前を歩くとき、久兵衛はいつも、マミをいじめようと、どうやって彼女を人として終わらせようかと、考えていたのだった。
それが、今日はどうだった?
最初はよかった。 久兵衛はその心に距離を保ちながら、マミの恋人を演じていたのだから。
しかしだんだんと、マミに優しくするのが苦痛ではなくなっていった。 久兵衛は慣れたのだと思った。
嘘を付くのに慣れたのだ、と、浮かび出た考えを補強しようとして、
嘘を吐き続ければ本当になる、という言葉が思いがけなく浮かんできて、久兵衛はハッとした。
建前の天秤が、いつの間にか傾いたまま停止しているような気がした。 - 728: 2011/07/30(土) 18:58:27.74 ID:ObSJY7JKo
- そういえばついさっき、料亭で食事をしているとき、どうだった?
考えがそこに至ったとき、久兵衛の中を戦慄が走った。
――豹変。 久兵衛の脳裏に、その単語が浮かび上がった。
そのキーワードは、久兵衛にとって最も忌むべきものだった。
災害後に偽善者になった父や、宗教にやられて精神虚弱になり、まるで自殺するようにヤクザに捕まったチンピラが思考の中を駆け巡った。
豹変は、裏切りの象徴であり、結果、急速な堕落をそれが起こった本人にもたらす。
しかも今まで見てきた豹変者は、それに気がついていなかった。
久兵衛は、はっきりとマミによって堕落させられかけていた己を発見していた。
そして取り返しの付かない事になっていたかも知れないと、冷や汗の浮き上がるのをシャツの下に感じた。
久兵衛はいつの間にか自分より、そのヒエラルキーを下に設置されていたマミと、対等に接してしまっていた事を、思い出していた。
しかも、それはごく自然に成されていたのだ。 久兵衛は恐ろしくなった。 - 729: 2011/07/30(土) 18:59:26.21 ID:ObSJY7JKo
- 自分がマミとそういう接し方をするきっかけはなんだったのかと、久兵衛は考え始めた。
その答えはすぐに見つかった。 うなぎだった。 自分の弱点だ。
うなぎを見て、まるでスポンジのようにグズグズと泡だった自分の心の隙間に、
うなぎを退治すると見せかけて、滲み込むようにマミが入ってきた。
自分の心に、マミがその存在を植えつけようとしたのだと、久兵衛は思った。 自分の弱みにつけ込んで。
マミはうなぎを退治してくれたのではなく、本当はうなぎそのものだったのだと、久兵衛は思った。
自分の中の古いしがらみを取り去り、そこに、全く同じ形をして絡みつく、新しいだけの、同じようなしがらみだ。
マミは狙っていたのだろう、と久兵衛は思った。
自分の過去を探り、弱みを見つけ出し、そこに入り込まんと、ずっと下手に出ながら、自分の事を観察していたのだ。
久兵衛の中で、全てのつじつまが合うように、論理が形作られた。
それは当然マミの意図とは違うものだったが、そんな事は、マミの意思などは、始めから彼にとって関係の無いものだったのだ。
――なんて卑劣な女だ! 今まで見てきた中で、一番性悪な女じゃないか! 飛んだ食わせ物だ!!
沸き起こるどす黒く冷たい情動――
久兵衛は、マミに対する距離というものを、狂っていたそれを、その感情の力でそれ以前の通りに補正した。
そして、こんな事が起こるなら、やはりマミは危険だから、いつか殺すしか無い、と、自分に言い聞かせた。 - 739: 2011/07/31(日) 15:29:30.72 ID:iSV2qj4Jo
- 番外章6 受胎日
マミのマンションに到着すると、久兵衛の陰茎はムクムクと勃起を始めた。
それは、彼が思い出したマミへの害意に、あたかも従っているようであった。
久兵衛は心を遠ざけたまま、熱くなってきた体をマミのそれに寄り添わせ、
「さっきはごめんね。 ちょっと疲れていたみたいだ」
作られた優しい調子で言った。
マミは滲ませた笑顔を俯かせ、いいえ、私も…と、呟いた。
久兵衛はマミの手を握り、自動ドアをくぐり、エレベーターに入って彼女の部屋のある階のボタンを押した。
上昇するエレベーターの中、二人は無言であった。 それは、何かが何かに堰き止められているかのようであった。 - 740: 2011/07/31(日) 15:30:22.58 ID:iSV2qj4Jo
- エレベーターが上昇するにつれ、久兵衛の中に、今日、マミに対して蓄積され続けた何かが、はちきれんばかりに膨らんでいく。
それは単なる欲望としてしか、彼には知覚できない。 それは今まで劣情だと思い続けてきた感覚であったからである。
久兵衛はマミの横顔を見て、心に疼くものが嗜虐心であると感じている。
うずうずと腹の底に、何かが溜まっていく感じ。 もどかしくて、それ自体を破壊したくなる衝動。
それは少年だったあの日、パトリシアというあだ名の学級委員長に罪の意識を植えつけ、
いじめ抜いて自殺させた時に感じたそれと酷似していた。
エレベーターが開くと、久兵衛はマミの手を乱暴に掴んで引き、早足で歩き出した。
そしてマミの部屋の前まで来ると、久兵衛が素早く合鍵で扉を開け、部屋に滑りこみ、彼女を力いっぱい玄関に引きずり込んだ。
バタン、と、ドアの閉まる音と共に辺りが真っ暗になり、久兵衛は力強くマミを引き寄せて、唇を重ねていた。
マミの舌を吸い、自らもそれを挿し入れ、とろけるような愛撫を体中に染み渡らせながら、
しかし久兵衛の左手だけはそんな甘い感覚を享受していないかのように時々壁にぶつかりながら電気のスイッチを探り当てた。 - 741: 2011/07/31(日) 15:31:06.52 ID:iSV2qj4Jo
- 電気が付くや否や、久兵衛は唇をマミのそれから離し、乱暴に靴を脱いで玄関に放り出し、マミを部屋の中に引きずって行った。
マミは慌てて久兵衛と同じように靴を玄関に放るように脱ぎ捨て、
「久兵衛!?」
セックスの始まる予感に彼の名を叫んで足を踏ん張り、
「シャワーを浴びさせて!」
と、嘆願した。 しかし久兵衛は、抵抗されている、というシチュエーションに、更に欲望を加速させ、
「そんなのどうだっていいだろ! もう我慢ができないんだ!」
言いながら、マミのブラウスのボタンを外し始めた。
「ダメよ! 汗臭いわ!」
ブラウスのボタンをあらかた外し、胸をはだけさせると、そこからむわっと濃縮された女の匂いが解き放たれ、
久兵衛の、毛ほどまでに擦り切れていた理性を完全に懲らしめた。
マミは体臭の強い方では無かったが、やはり一日中蓄積され続けてきたそれは、男の理性を破壊するに十分な威力を持っていたのである。
「いい匂いじゃないか! シャワーで流してしまうなんて勿体無いよ!」
久兵衛はそう言ってマミの豊満な胸の谷間に顔を突っ込み、クンカクンカと深呼吸を繰り返しながらジリジリと寝室に向かっていった。 - 742: 2011/07/31(日) 15:32:12.85 ID:iSV2qj4Jo
- 寝室の扉を開くと、二人は縺れ合うようにベッドに倒れ込み、久兵衛はマミのブラウスを剥がし取り、
ブラジャーを外して乳首を吸い、乳房を揉みしだいた。
そして嗅覚が胸の匂いになれてきた頃、久兵衛はマミの腕を力づくで、バンザイの姿勢にベッドに押し付け、
「嫌っ!! ヤメテ!! シャワーを浴びたいの!!」と嘆願する、マミの泣きそうな声に後押しされる欲望を感じながら、鼻をワキに押し付け、
「マミの匂いで頭がバカになりそうだ!!」
その卑猥な香りに赤熱し、ズボンを突きあげてテントを作っている陰茎をマミの太腿に、腰を蠢かしていやらしくこすりつけ始めた。
マミは恥ずかしい部分の匂いを嗅がれているという事実に嫌悪を感じ、当初は抗っていたが、
匂いを嗅いで狂喜する久兵衛と、自分の下半身をこすりまわっているその陰茎の熱と感触とに、
徐々に理性を侵食され、体臭を嗅がれるという恥そのものを受け入れる自らの精神の浅ましさを感じ始めていた。
しかし久兵衛が器用に彼女の服を脱がせ、スカートをとっぱらって歓声を上げたとき、その脳内に瞬時に凝結した理性が、
「ダメぇ!!」と、その両手に股間を押さえさせ、両の足にその股をしっかりと閉じさせるだけの力を与えた。 - 743: 2011/07/31(日) 15:33:17.40 ID:iSV2qj4Jo
- しかし久兵衛はいとも簡単にマミの手を取り払い、ぴったりと閉じられたその股間に鼻を押し付け、
「色々なものが混じり合った、とにかく凄い匂いがする!! 最高だよ、マミ!!」
フガフガとパンティー越しに熱い鼻息を押し付けながら彼女にとっては恥ずかし過ぎる感想を述べた。
マミはその精神を恥の濃縮液に浸け込まれたようになって、両手で目を覆い、
どうしたらいいのか、ワケが分からなくなり、混乱をきたし、そのうちにパンティーを温める久兵衛の鼻息を快く感じ、
徐々に股を閉じる力が薄れていく自分の底抜けのいやらしさに、さらなる恥を上塗りされ、とうとうすすり泣きを始める有様だった。
久兵衛は、そんなマミの気持ちなど完全に無視して思う存分股の匂いを堪能し、
その嗅覚に刺激された欲望に耐えられなくなったその時、そこから顔を離し、いそいそと服を脱いで全裸になった。 - 744: 2011/07/31(日) 15:34:40.08 ID:iSV2qj4Jo
- 鼻を押し付け始めたときはぴったりと閉じられていたマミの股間であったが、
その香りを貪っているうちに徐々に開いていったのか、久兵衛が裸になりながら見やったそこは既に大開脚の状態であった。
股を開きながらめそめそと泣いているマミに、久兵衛は精神と肉体との葛藤を見出し、
なんとも形容しがたいいじらしさのような、もどかしさにも似た感覚の沸き起こるのを感じた。
久兵衛は素早くマミのパンティーを下ろし、彼女が否定を喚く中、
それと正反対を唱えるように粘液に染まり、充血して花開いた女性器が、時々ぴくぴくと蠢く様を鑑賞し始めた。
しかもそこからは、パンティー越しとはまた違う、濃密な香りが立ち上っており、
久兵衛の陰茎は最早勃起の限界点を突破したのか、痛みすら感じるほどになっており、
それを何とかするにはもう、女性器にそれを突っ込み、快楽を染みこませるしか方策が無いまでとなっていた。 - 745: 2011/07/31(日) 15:35:18.61 ID:iSV2qj4Jo
- 久兵衛がのしかかってくるのを感じ、マミはピクンとはねるように体を反転させ、
性欲に支配されんとしている脳の、かすれかかった理性の部分をフルに働かせ、
枕元の棚に置いてあるティッシュ箱の裏を必死にまさぐり、ビニール包装に包まれた丸いものを久兵衛に差し出して、
「お願い! 今日はこれを使って!」
なんとか懇願することに成功をした。 それはマミの理性が、まさに性欲に打ち勝ったその瞬間であった。
「何だい、これは?」
しかし久兵衛は、しかめっ面を作り、マミの手渡したそれを見ながら、冷たい言葉を彼女に吐きかけた。
「こ、コンドームよ。 今日は赤ちゃんが出来ちゃうかも知れない日だから、ちゃんと避妊をして欲しいの」
コンドーム、という単語を語るにも恥ずかしそうに赤面をするマミの、その必死の懇願を無視し、
久兵衛は、「へっ」と鼻で笑ってそれを後ろに放り投げた。 - 746: 2011/07/31(日) 15:35:56.00 ID:iSV2qj4Jo
- 「コンドームなんて使うのは、ちゃんとしたセックスじゃないね!そもそもセックスをすれば子どもが出来るのは当然の成り行きじゃないか!
いいかい、セックスは、常に子供が出来るかどうかの博打なんだ!それに抗おうとする避妊なんて、つまり甘ったれの概念なんだよ!
子どもができないようにヤろうだなんて、呆れた考えだ! 卑怯だ! そんなのは、ガキがやるセックスだ!
君はこの僕に、ガキのセックスをさせようって言うのかい? ええ? どうなんだい?」
久兵衛の言葉責めに、マミは「違うの、違うの」と泣きながら首を横に振り、なんとか分かってもらおうと必死である。
しかしその必死は、彼女の体がいきなり仰け反り、「あっ!」という声が漏れたその瞬間に中断を見た。
久兵衛の指が、マミの女性器に触れたのだ。 それが膣口に至るやいなや、膣内に吸い込まれ、温かく包みこまれていく。
「お願い、コンドームを使って! あっ!!」
マミがコンドーム、という単語を放つと、久兵衛は膣の中で指を動かし、感じさせた。
「コンドームを使わなければ駄目なら、セックスは中断だ! それでもいいのかい?」
「…仕方ないわ…ひゃん!! あっ!! きゃう!!」
久兵衛は、セックス中断も辞さぬというマミの決意を、揺るがせるように指を使い、マミを攻めた。 - 747: 2011/07/31(日) 15:36:22.83 ID:iSV2qj4Jo
- 「ここをこんな風にしている癖にさ、そんな事言ったって説得力のカケラもないって、どうして分からないのかねえ…」
久兵衛は膣内の指でマミのGスポットを刺激し、その体が仰け反り、悲鳴が漏れるのを鑑賞しながら、のんびりと言った。
そして引き込まれるような力に抗い、おもむろに指を引きぬくと、マミの性器がチュポっ、と、卑猥な音を立てた。
「こんなに指に吸いついてきてさ、ここは陰茎と精液を飲み込みたくてしょうがないって言っているじゃないか」
久兵衛はそう言いながら、正常位でマミとの性交を始めんと、のしかかりながら女性器にあてがう陰茎の角度を調整している。
「だめ! だめ!」
しかし、マミの理性はかろうじて言葉による否定を浴びせかけ続けておる。
「嘘言うない! 正直な下の口が、なんて言っているのか教えてやる!」
久兵衛はマミの理性を否定して、陰茎の先端を、マミの膣口にグッ、とあてがった。 - 748: 2011/07/31(日) 15:37:04.48 ID:iSV2qj4Jo
- 「ああーっ! ああーっ! だめ…だめだめだめぇ!!」
ゆっくりと陰茎が侵入してくるのを感じながら、マミの口が否定の連発をするのを受け、久兵衛は、
「僕のせいにするなよ! これは君のいやらしいあそこが、勝手に僕の性器に吸い付いて、飲み込もうとしているんだからね!
言っておくけど、僕はなんにも力を入れていないんだよ? まさしくこれが、君の体の、セックスに対する答えなんだ!
避妊しなくても、セックスしたいってさ! つまり僕の考えに同意してくれているって訳だ! ありがたいねぇ!」
言い終わるくらいに、久兵衛の性器は完全にマミのそれに飲み込まれ、二つの体は密着していた。
マミは、自分の無力感にまた、泣き出していた。 - 749: 2011/07/31(日) 15:37:56.78 ID:iSV2qj4Jo
- 久兵衛はその涙を舐めとりながら、口をマミの耳元に持って行き、
「大丈夫だよ。 そんなに簡単に妊娠なんてしないよ。 世の中、子供ができないって苦労しているカップルがいっぱいいるじゃないか。
そういうもんだよ。 もし子供ができても、それはとても素晴らしいことじゃないのかい? 君は、僕の子供が欲しくないのかい?」
と、優しさを演じながら囁きかけた。
久兵衛はその時、パトリシアというあだ名の、中学時代の学級委員長を妊娠させたいと考えたときのことを思い出していた。
マミに対して沸き起こる何らかの感情は、パトリシアに感じたそれをはるかに凌駕するものだったが、
感情の種類としては同じ種類のそれであった。 久兵衛には単なる劣情と知覚されるそれである。
料亭でマミが久兵衛にわさびを食わせなかったとき、パトリシアとよく似ていると思った。 お人好しで、勝手に自分が傷つくタイプだ。
「欲しいわ。 私、あなたの赤ちゃんを産みたい」
マミの言葉に、久兵衛はその内面に勝ち誇ったような笑みを作った。
「じゃあ何だって避妊なんかしようとするんだい?」
「だって、色々心配だったんだもの…その、責任とか…」
「君は心配性なんだね、今日のデートみたいに、全部僕にドーンと任せておけばいいじゃないか、ね?」
久兵衛は優しく囁きかけ、瞳を潤ませながらコクリと頷いたマミを抱きしめて、
自分の内面が浮き上がったような黒々とした笑みで、その表情を歪めた。 - 750: 2011/07/31(日) 15:39:03.20 ID:iSV2qj4Jo
- 「それじゃあ動くよ。 セックスを始めるよ。 僕達の赤ちゃんをつくろうね」
マミが小さく、うん、と言って頷くのを確認した久兵衛は、ゆっくりと腰を使い、
それを徐々に早めていって、マミが狂っていく様を鑑賞した。
今まで、マミはセックスの時に苦痛の表情を示すことが多かったが、今日、彼女がはっきりと豹変したのだという事を久兵衛は感じ取った。
彼とのセックスにおいて、マミは純粋に、快楽だけを享受し始めたのだと、久兵衛は思った。 豹変は堕落である。
それは彼に取り、とてもつまらない変化であったが、今日という限りにおいては、そのようなことがどうでもいい事だと感じられた。
マミに対してあふれ出る感情の波に翻弄され、混乱し、そんな事にかまっている暇や精神的余裕は無かったのである。
久兵衛は腰をせっせと動かしながら快楽に興じ、自らがそれを感じるたびに、体を捩り、くねらせ、悲鳴をあえぐマミを見て、
さらなる加速を見る自らの欲望に、抗うこと無くまた更に腰の速度を高めていくのだった。
それは快楽の輪が、二つの体をつないで、ぐるぐると回っているようにも感じられた。
久兵衛は昂っていた。 その気分の上昇は、マミの処女を破壊したときのそれを確実に凌駕していたが、
彼はそれが何故なのか深く考えなかった。 そもそも、快楽を享受せんと必死の動作を続ける彼に、思考の余裕があったハズはない。
彼はエンジンになっていた。 子供の久兵衛に、セックスをそう形容した父の言葉が、脳裏にフラッシュバックしていた。 - 752: 2011/07/31(日) 15:40:58.64 ID:iSV2qj4Jo
- 「久兵衛…なんかヘン…わたし…なんかヘンなの…」
マミは口の端からヨダレを垂らしながら、喘ぎ混じりに訴えてきた。
久兵衛はそれを聞いて、マミが絶頂に近いのだという事を感じ取った。
愛撫の際、何度か絶頂したことのあるマミであったが、彼と交わって乱暴な性交に翻弄されていたときに絶頂するなど、
今までに全くなかったことであった。
「イッちゃえよ。 イキそうなんだろ? ほら、ほらぁ」
「嫌っ! 久兵衛も一緒に…じゃなきゃ…嫌なの…」
マミはそんな事を言いながら抗っていたが、久兵衛がピストンの速度を早めながら乳首を刺激してやると、
まるでブリッジするように仰け反って、長く尾を引く悲鳴を上げ、それが尽きた後に、絶息したままがくがくと痙攣し、
次いで糸が切れたようにぐにゃりと脱力して、少しして思い出したように肩で息を吐きはじめた。
その際下半身では強烈な締め付けと吸いつきが起こって、久兵衛は下腹に力を込めてその快楽に抗い、
なんとか射精の衝動を抑えこむことに成功をした。
マミは荒い呼吸をしながら、その顔を満足気に緩めており、
久兵衛はその表情に少女のそれではない女の色気と共に、底の見えぬ穴のような欲望を見た気がした。 - 753: 2011/07/31(日) 15:42:23.01 ID:iSV2qj4Jo
- マミの呼吸が整うのを待って、久兵衛がピストンを再開すると、マミは賢者タイムをすっ飛ばしてまた快楽に声を上げて溺れ始め、
久兵衛は先程感じた底なしの欲望をその中にはっきりと見た。
いつの間にかマミは、久兵衛の動きにあわせ、自らも腰をくねらせ、積極的に快楽の収集に勤しんでいるようであった。
乳房が揺れ、買ってやったネックレスが跳ね回りながら光り、汗と粘液との区別が曖昧になって、
体臭やらなにやら、この部屋の全てが溶け合うような感覚に、久兵衛もその精神を流しこんで肉体を空っぽにし、
自らも射精の予感を追い求め、エンジンを動かす為の、単なる部品になったような気分に堕ちていった。
そして堕ち切らんとしたまさにその時、下腹に生じた射精の予感が急速に大きく、具体性を持って、
久兵衛の陰茎を、快楽を押し出す痙攣が襲って、彼はマミの膣内に、今までに体験したことのないほどの大量の精液を注ぎこんでいた。
マミは久兵衛の陰茎が脈打ち、精液が粘膜を叩くその感触さえ快楽に変換し、
二度目の絶頂を迎えて体を仰け反らせ、またストンと落ちるように脱力した。
久兵衛は射精の虚脱感にモヤのかかったような思考を捨ておいたまま、
震えながら息を切らしているマミを力強く抱き寄せて、自らも2、3度大きく息を吐いた。 - 754: 2011/07/31(日) 15:43:14.89 ID:iSV2qj4Jo
- ぼんやりとした思考のモヤが晴れてきて、久兵衛は無意識にマミを抱き寄せていた自分を発見し、その事実に驚愕した。
しかしすぐに今日という日がマミに対して徹底的に優しく接する日だという事を思い出し、
それを持って頭を重くする疑念を無理くり納得させた。
そして久兵衛がベッドから立ち上がろうとしたその時、
「一つ、わがままを言わせて」
同じように快楽の世界から帰還したマミの声が、脳に直接響いた。
「何だよ? わがままって?」
マミは一呼吸おいてから、言った。
「今夜は、泊まっていって欲しいの」
いつもの如く、わがままとも言えぬ小さなわがままである。 久兵衛は目の前の女の、あまりに欲の小さいことを不憫に思った。
「別にいいけどさ。 なんで?」
「だって久兵衛、いつもエッチした後帰っちゃうでしょ? 私ずっと寂しくって…」
「泊まると迷惑じゃないかい?」
「いいの、寧ろ側に居てほしいわ」
久兵衛は分かった、と言って起き上がるのをヤメた。
普段はそんな事を言われたらウザイと思うのに、何故かこのときはその限りではなかったが、
久兵衛はデートで疲れていたから帰るのが面倒なのだろうと、自分を納得させた。 - 755: 2011/07/31(日) 15:44:02.11 ID:iSV2qj4Jo
- シャワーを浴びせてやった後、マミを腕枕していると、彼女がいきなりフフッと笑ったので、久兵衛は気味悪くなった。
「一体何だよ? いきなり笑ったりして」
久兵衛が問うと、マミはまたフフッと笑い、
「久兵衛と一緒」
そう言って、撫でるように彼の腕に触れた。
「分かりきったこと言うなよ」
「だってお話ししていたいんだもの」
マミの手は、久兵衛の胸板を優しく撫で回し始めた。
「何も話題がないのに話なんかしても仕方ないだろう? 明日は仕事があるんだろうし、今日はもう疲れたろうから、寝たら?」
言いながら、久兵衛は明日、仕事をサボろうと思っていた。
だいたい彼は、マトモに仕事をした事があまり無い。
役員達に女をあてがったり、適当なビジネスモデルの提案をしているだけで彼は生活の安定を約束されているのだ。
それに今は、グリーフシードと合成麻薬の工場すら持っている。 - 756: 2011/07/31(日) 15:44:58.08 ID:iSV2qj4Jo
- 不意にまた、マミがフフッと笑った。
「今度は何だよ?」
マミはまた一呼吸おいてから、言った。
「音がするわ」
「何の音だよ?」
「時限爆弾みたいな音」
久兵衛は腕時計を外さずにマミを抱いたことに気が付き、「ちょっとごめんよ」と言って彼女の頭をどけて腕をフリーにし、
ステンレスのブレスが付いたそれを外して、枕元の棚に置いた。
「私もこれ、外さないと…」
マミはそう言って、久兵衛が買ってやったネックレスを外して、時計の隣に置いた。 - 757: 2011/07/31(日) 15:45:28.95 ID:iSV2qj4Jo
- しかし何度も伸び上がるように起き上がり、ネックレスがそこにあることを確認しようとするものだから、久兵衛は鬱陶しくなって、
「そんなに心配なら、ここに掛けといたらいいんじゃないか?」
そう言って、ベッドの支柱にネックレスを掛けてやると、マミは「これならいつでも目が届くわね」と言って上機嫌になったが、
また伸び上がるように棚に目をやったので、久兵衛が、
「今度は何だよ?」
とまた聞いてやる羽目になった。
「腕時計、見せてもらおうと思って」
「勝手にどうぞ。 ただの売れ残りの国産品だから、思う存分見るがいいさ」
そう言ってやるとマミはまた上機嫌になり、腕時計を見ながら、
「なんで針が細かく動いているの?」
と聞いた。 - 758: 2011/07/31(日) 15:46:35.59 ID:iSV2qj4Jo
- 「それクォーツじゃないからね。 機械式時計だから、針がそんな風に動くんだ。 昔はみんなそうだったんだよ」
マミはよく分かっていないのか、ふうん、と曖昧な反応をして時計を耳に当て、「優しい音がするわ」といった後、また久兵衛に向き直って、
「これがお父さんから買ってもらった腕時計なの?」
と聞いてきた。
「違うよ。 それは2本目。 親父から買ってもらったのはさ、壊しちゃったんだ」
久兵衛は父から買ってもらった腕時計を壊した後、時計屋を巡って、ネチズンの古い機械式の売れ残りがあるかどうかを訪ね、
クリスタルヘブン33石とか言う自動巻きのカレンダー付き腕時計を購入していた。 - 759: 2011/07/31(日) 15:47:22.49 ID:iSV2qj4Jo
- 彼は何故か、自分の身につける腕時計はあの耐震装置の付いた機械式時計の、さらに売れ残りでなければいけない気がしたのだった。
構造上、耐震装置というのはクォーツ時計には付いていないのである。
「どうして?」
マミは久兵衛が父から買ってもらった腕時計を、何故壊したかを聞いた。
「あれさあ、随分長いこと動いていてさ、水没して止まったことも二回くらいあったな。
それでも修理屋に持って行くと、錆びた文字盤も取り替えられて、ちゃんと動くようになって帰ってきてさ、
そんな風で、定期的に油差すだけで十年以上もきちんと動きつづけてさ、なんだか気持ち悪くなってきたんだよね。
不安って言うかさ、コイツは、僕より長生きしてしまうんじゃないかって疎ましくなったりしてさ、
そんで、ある日腕につけたまま喧嘩したんだよ。そしたら止まっちゃった。
そしたらなんか安心しちゃってさ、ああ、コイツも死んだんだなって、それから机の中に放り込んだまま直していないな」
久兵衛は喋りながら、自分がマミにも同じように不安のような、漠然とした何かを感じて、彼女を壊そうとしている事を考えていた。 - 760: 2011/07/31(日) 15:48:14.12 ID:iSV2qj4Jo
- 「喧嘩しちゃ駄目じゃない!」
マミは父から買ってもらった腕時計の顛末よりも、喧嘩という単語に大きく反応をした。
マミは、久兵衛がチンピラではなく模範的な人間であると思っているらしい。 久兵衛は失言をした事を後悔しながら、
「まあ済んだことだしいいじゃないか! もう喧嘩なんかしていないよ」
そう言ってごまかした。
マミは、それならいいんだけど、と言った後で、
「それ、直してみない?」と、提案してきた。
「直りっこないよ」
「私は直ると思うわ、そうだ、賭けをしましょうよ。 私は直る方に、あなたは直らない方に、面白そうじゃない?」
「一体何を賭けるんだよ?」
と、久兵衛が訊くと、マミは困った顔になって考え込んだ後、
「勝った時に決めるわ」と、適当であった。 やはり欲のない、気の毒な女であると久兵衛は思った。
久兵衛は、「なんだよ、それ」と言いながら、明日にでも机から出して、時計屋に持って行ってみようと思った。 - 761: 2011/07/31(日) 15:48:49.97 ID:iSV2qj4Jo
- 「ねえ」
「今度は何だい?」
「ナカノさん、すごく働いてくれるようになったの、知ってる?」
何を言い出すのかと思いきや、ぶっ続けの契約をして、グリーフシードを飲んだジジイの話だった。
それは当然、久兵衛にとっては触れたくない話題だった。
「彼がどうかしたのかい?」
マミはまた一呼吸、置いた。
「私もね、あんなふうにばりばり働けるようになりたいわ」
久兵衛の腹の底に、冷たく重いものがひやりとのしかかったように感じられた。それは感情に直結され、怒りを弾きだした。
「いきなり変なこと言うなよ! 怒るよ!」
めらめらと燃え上がるような、怒りだった。 燃え上がっているくせに、腹の中は妙に寒々とする。 - 762: 2011/07/31(日) 15:49:22.99 ID:iSV2qj4Jo
- 「…ごめんなさい。 でもなんとか、あなたの役に立ちたかったの」
マミは久兵衛の豹変に、驚いたように縮こまり、謝した。
「全く、君は本当にろくな事を言い出さないね、君がぶっ続けなんかやったら、一体僕はいつ君の紅茶を飲みに来ればいいんだい?」
とっさに、自分はマミの紅茶を飲むためだけにここに来ているのだとも言えるような内容が口を突いて出たので、
久兵衛はマミとの関係の、意外にドライな本当の意味を見た気がして安心したが、
今日は一滴も紅茶を飲んでいないことを思い出し、それで満足をしたような自分にまた薄暗い不安のようなものを感じた。
「ねえ久兵衛」
久兵衛はマミに思考を覗かれはしないかと不要な警戒をしながら、落ち着き払った自分を演じ、
「何だい?」
と、さっきの苛立ちを嘘のように沈め、優しく応じた。 - 763: 2011/07/31(日) 15:51:29.72 ID:iSV2qj4Jo
- しかしマミの問い掛けは、
「あなた、悪いことしていないわよね?」
先の質問をはるかに凌駕するほどの衝撃を備えていたのだった。
久兵衛はどうでもいいような質問をされたときのことを必死に思い出し、
「なんで? 僕がそんなふうに見えるのかい?」
声が不自然にならぬよう注意し、落ち着いて答えた。
「この前ね、あなたが居ないとき、うちの店に警察がきたの。
ほら、あの鹿目さんと一緒に暮らしている、暁美さんって言う、目付きの鋭い人ね。
あの人が来て、ナカノさんのこと、いつからあんな風なんだとか、あと、あなたの事も聞いて行ったわ。
私、怖くなって、それからずっと、怖くて、独りぼっちになると辛くって、
あなたが来た時も、そのことが脳裏に蘇って…」
久兵衛は、最近マミが狂おしかったのは、もしかしたらそのせいだったのかと思い、ほむらに対する怒りがこみ上げてきた。
先の質問も、不安で自分が何をやっているのかを、あのジジイに何が起こっているのかを探ろうとしたに違いない。
思いがけず強い調子でマミを叱ってしまったことに、久兵衛は薄暗い後悔をその背に滲ませた。 - 764: 2011/07/31(日) 15:52:22.69 ID:iSV2qj4Jo
- しかし久兵衛は、そんな心の乱れさえもマミに気取られぬよう、ニッコリと笑顔を作って、
「ああ、暁美ほむらかい? 彼女はちょっと頭がおかしいから、心配しなくていいんだよ。
僕も仕事で警察署によく行くんだけど、彼女だけ空気が読めていないって言うか、周りから疎外されているのが分かるんだ。
それでね、ああいう輩はたまに目立とうとして、そういう突飛なことをやらかして、それがまた周りを困らせる結果になっちゃうんだよ。
本当、あんな問題児が居ると警察も大変なんだなって思うよ」
ほむらをバカにするように、一息に言ってやった。
「そうなの…頭がおかしい警察官が居るなんて、なんだか怖いわ…」
マミは、まだ何か引っかかっているようであったが、久兵衛が優しく彼女を抱き寄せ、
「警察は公務員だから、民間と比べて一度採用してしまったら首にしづらい所があるらしくてね、
ああいうおかしな人間が結構多いんだ。 税金泥棒って奴さ、あんな奴何も出来ないから、本当に安心していいんだよ。
だって考えても見てよ、暁美ほむら意外に、警察官がお店に来たことがあるかい?」
「無いわ。 全然無いわ」
久兵衛は更に力を込めてマミを抱きしめ、
「つまりはそういう事さ」
と言って頭を撫でてやり、安心させた。 - 765: 2011/07/31(日) 15:53:19.19 ID:iSV2qj4Jo
- しばらくマミの声が聞こえないと思っていたら、見るとマミは目を閉じているではないか。
「寝たのか」
久兵衛が独りごちると、マミは急に目を開けて、「寝ていないわ」
と言ってまた目を閉じた。
そしてしばらくするとまた目を開け、「ねむい、ねむい」と言い出したので、久兵衛は可笑しくなって、
「じゃあ寝ろよ。 明日仕事なんだろう?」
と聞いてやると、またマミはかっと目を見開き、
「寝たくないの、今日が終わってしまうのが嫌」
言いながら、またゆっくりと眼を閉じてしまって、かと思ったらまた思い出したように目を開けて、
「眠くない、ねむくない」と、不毛な自己暗示をかけ始めたので、久兵衛は笑いながら、
「もう寝ちゃえ、寝ちゃえよ。 眠くなーる、眠くなーる」
ゆったりとしたリズムで、か細い声を出してマミに催眠をかけ始めた。 - 766: 2011/07/31(日) 15:54:33.63 ID:iSV2qj4Jo
- マミは数分間頑張り続けていたが、ドロドロとした眠りの世界に、ゆっくりと沈んでいくように沈黙し、静かな寝息を立て始めた。
その様子を見て、フッ、と微笑んでしまった久兵衛は、また自らの行為に、絶望にも近い違和感を覚えた。
――オイ、お前、何やっているんだ?
その違和感に追われ、久兵衛はマミを起こさぬようにゆっくりとベッドから起き上がり、
密着していた体を離して、独りベッドの縁に座り込んだ。
頭の中に、幾多の人影が、浮かび上がっては消えて行くような感じがした。
最初に、死んだ父親が、お前も豹変したじゃないか、と、自分を笑っている映像が浮かんだ。
次いでうなぎの餌になったあのチンピラが、お前もこっちに来いよ、と、手招いていた。 こっちに来ると楽だぞ。
それから、チンピラの彼女だったロベルタを殺したときの映像がよみがえってきた。
あの後久兵衛はロベルタと付き合うふりをして人気のない山奥に連れていき、チンピラを食ったうなぎを食ったことを話しながらリンチし、
仲間のヤクザたち数名にさんざんレイプさせ、彼らが満足した後、お前みたいなクズはこうしてやる、
と言って女性器にシガーライターを押し付けて、焦げ臭い匂いとそれに交じる彼女の悲鳴とを聞いて、久兵衛は大爆笑し、
満足してロベルタを山中に放逐して帰ってきたのだった。
ロベルタは後に、山中で首を吊っているのを発見され、その場所は心霊スポットになった。 - 767: 2011/07/31(日) 15:55:35.15 ID:iSV2qj4Jo
- それから、付き合ってきた幾多の女たちが、脳裏に現れては久兵衛に恨み言を言い続けた。
3回中絶させ、精神病院に入れた女や、自分を財布がわりに使おうとしたので、頭に来てゴルフクラブで殴り、うなぎの餌にした女、
そしてコンクリート詰めにして港に沈めた女に、クスリ漬けにしてワタリ蟹の餌にした女。
名前さえ忘れた幾多の女の影が、久兵衛を謗り、現れては消えていった。
そして最後に、パトリシアが現れて、マミを見て、この人も私とおんなじにしてあげるわ、と言って、消えた。
久兵衛はマミを見た。
女たちの黒々と重い影は、久兵衛の背中にのしかかって、一斉にマミに避難の視線を向けているように感じられる。
久兵衛は頭痛にも似た、強烈な苛立ちを覚えた。
「今日は優しくする日だからね。 明日からは違うよ」
久兵衛は女たちに確認をするように言った。
すると、苛立ちは嘘のように引いていったのだ。 まとわりつくようなそれらの気配も。 - 768: 2011/07/31(日) 15:56:53.47 ID:iSV2qj4Jo
- 時計を見ると午前0時を今、まさに回ったところだった。
それを見て、久兵衛の頭の中にスイッチが入ったような気がした。
堰を切ったように、マミをいじめるアイデアが脳内を駆け巡り、久兵衛は彼女の悲鳴と鳴き声と、絶望の予感に身を震わせた。
そして久兵衛はおもむろに、ベッドの支柱に掛かっているネックレスを掴んで、思い切り引っ張った。
プラチナのチェーンは軽い抵抗を示した後、ブツッ、という音と、何か金属の質感以上のものを含んだような、有機的な感触と共に千切れ、
久兵衛はその感触に、ゾクリと背筋が冷えた気がしたが、それを振り払うようにネックレスを、ベッドと壁の隙間に放り込んだ。
ネックレスは、軽くチェーンの音をさせ、絨毯に着地したようだった。
――あーあ、君の寝相が悪いから、せっかく買ってあげたネックレスが千切れてどこかに飛んでいっちゃったんだね、僕は知らないよ。
久兵衛はそう自分に罵られて、泣き出すマミの姿を明瞭に想像することができた。
それに満足し、遅いからもう寝よう、と思った久兵衛の中に、またゾクリと寒い予感が走り、
彼はそれに突き動かされるようにベッドと壁の隙間を覗き込んでいた。
細く切り出した闇の先に、プラチナの光沢と、黄色い石の煌きが確かにあることを確認して、
久兵衛は漸く電気を消して寝転がり、眠りの中に入っていった。
彼らが丸一日を使ってデートをしたのは、これが最初で、最後であった。 - 773: 2011/07/31(日) 19:11:33.44 ID:iSV2qj4Jo
- 番外最終章 その日
それから四週間後のその日、久兵衛は残虐な精神を引っさげて中絶後のマミをいじめ抜くため、
陰茎を極限まで勃起させて彼女のマンションの扉を開いた。
しかしそこには、ドアノブで首を吊ったマミの姿があったのである。
久兵衛はあまりに予想とかけ離れたその光景に驚愕し、動転した思考によって得た答えは、
たぶんこれは悪い冗談に違いないという、恐ろしく陳腐なそれであった。
中絶を一回させたくらいで、死のうなんて考えるのは、彼が知るかぎり目の前の女しかいなかったのだ。
「…おいマミ、あまりふざけていると怒るよ?」
久兵衛は立ちこめる異様な臭気を無視し、マミに近寄ってその体に触れて、
そのすべてを飲み込んでしまいそうなまでの冷たさに、反射的に手を引っ込めてしまっていた。
「おい…君…」
離した後も、指先にまとわりついているようなその冷たさに、
久兵衛は漸く目の前で取り返しの付かないことが起こっているのだということを了解し始めた。
久兵衛はマミの首が引っかかっているタオルを外し、手足が硬直し始めていたその体を抱きとめ、
何をしていいのか分からなかったので、とにかく自分の体温を送り込むように抱きしめていた。 - 774: 2011/07/31(日) 19:12:10.70 ID:iSV2qj4Jo
- 「馬鹿だな君は…なんでこんな事してしまったんだよ…やられたらやり返せって、いつだったか言ったじゃないか…」
久兵衛の中に、焦りのような、不安にも似た、とにかく強大な情動が、まるで津波のように押し寄せてくるのが分かった。
久兵衛は人形のように硬直したマミの腕を、そんな事を言いながら優しく撫で、温めるようにマッサージし続けた。
しばらくそれを続けていたが、今度はマッサージしていない足がどんどんと硬直していったので、
久兵衛は恐ろしくなって救急車を呼んだ。
「マミ、頑張れ! 救急車がもう少しで来てくれるからね!」
マミはひどい顔をしていたが、久兵衛がマッサージしながら表情を整えてやると幾分かましになったので、
久兵衛は頑張ればなんとか彼女が助かるのではないかと錯覚し、更に優しく彼女を温め続けた。
久兵衛はマミの体が完全に硬直したら、本当にだめになってしまうような気がしていた。
しかし徐々に硬直は腕を履いあがってきて、抱きとめたばかりの時は柔らかかった二の腕まで、固まってくる有様であった。
足も硬くなってきて、久兵衛は弱気になりそうになっている自分を必死に持ちこたえながら、マミの体を温め続けた。 - 775: 2011/07/31(日) 19:12:46.64 ID:iSV2qj4Jo
- 「マミ、親父から買ってもらった時計だけどね、今日直ったから取りに来いって、電話があったんだよ。
君、賭けたろう? 直るか直らないかって…
賭けは君の勝ちだ。 何でも言うこと聞いてやるよ。 だから目を覚ませよ。 頼むよ」
久兵衛がマミの死体を励ましていると、救急隊が到着して、部屋に入ってき、マミを見るなり諦めた表情をしたので、
「必ず助けてやって下さい。 必ず」
久兵衛が念を押すようにそう言ってやったが、彼らは目を背け、小さく首を振って、マミを担架に乗せ、毛布を被せて運んでいった。
そして次に来たのは暁美ほむらだった。
「通報したのはあなたなんですって?」
久兵衛はマミが助からないかも知れないという、暗い穴ぐらのような、冷たい絶望に落ち込んで行く自分を感じながら、
「そうだけど」
と何とか呟くように返事をすることに成功した。
その一言を発するだけで、一日分の体力を使ったような気がして、久兵衛は座り込んだままぐったりと項垂れた。 - 776: 2011/07/31(日) 19:13:15.99 ID:iSV2qj4Jo
- 「遺体を発見したのは何時頃か聞かせてもらえないかしら?」
――遺体? この女は何を言っているんだ? マミは病院で元気になって帰ってくるに決まっているじゃないか。
十年以上使い続けた挙句、腕に付けたまま喧嘩してぶっ壊した、売れ残りの時計だってしっかりと直ったんだから、
マミだってちゃんと病院で治ってくるさ。
久兵衛はそんな事を考えながらほむらを無視した。
「どうして遺体を発見した時、警察に通報をしなかったの?」
――マミは助かるんだ。 なんで君らを呼ばなきゃあ行けないんだよ。 遺体って呼ぶなよ。
久兵衛はピクリとも動かなかった。
「答えたくないのね。 まあいいわ。 巴マミはあなたが殺したって線で捜査を進めてあげるわ。
余罪まみれのあなただから、それはそれはやりがいのある仕事でしょうね。
巴マミも、あなたと出会わなければこんな事にならなかった筈なのに、可哀想なものだわ」
――僕が、殺した? 僕と出会わなければ、よかった? - 777: 2011/07/31(日) 19:13:56.08 ID:iSV2qj4Jo
- 久兵衛の中に、冷たい何かが急速に広がっていって、
それが信管でも起爆させたかのように突然に彼は立ち上がり、ほむらの襟首を掴み上げていた。
「もう一度言ってみろよ」
自分のせいだと分かっていた。 自分がマミを不幸にしたのだと、ここまで追い詰めたのだと気がついていた。
だけど連鎖的に、爆発のように生じる感情の急激な高ぶりを、久兵衛は自分でどうすることも出来ずに、
起こったことを、そしてその結果心に生じた変化を受け止め切れない自分を、
そして何事もなかったかのように過ぎていく時間を、それに乗って流れていくこの世界そのものを、
呪い、憎んでわめき散らしたい気分なのに、体のほうがどうにも気怠くて、結局眼の前の警官を睨み据えるしか出来ぬ自分の小ささと無力に、
また更なる感情の爆発を、行動の発現を伴わぬその途方も無い絶望の空回りを自らの胸に響かせるのであった。
「何度でも言うわよ。 あなたに出会わなければね、彼女はこうなることは無かったのよ。
巴マミが何をしたのか知らないけど、あなたが彼女を殺したんでしょ? 鹿目詢子とその家族のように」
九兵衛は、自分にとってどうでもいい人間と、マミを対比されたことに対し、胸の内に新たな感情の高まりを見た。 - 778: 2011/07/31(日) 19:14:51.02 ID:iSV2qj4Jo
- ――鹿目詢子が何だって言うんだ。 あんな女とマミを一緒にするなよ。
しかしほむらは怒りに狂った表情で睨みつける久兵衛をすました表情で見返し、襟をつかんだ久兵衛の手を払いのけた。
「このあと詳しい話を聞くから、署まで同行して頂戴」
たったそれだけのことなのに、久兵衛は支えを無くしたように、へなへなと脱力し、その場にヘタリ込んだ。
そして追い打ちをかけるような、言葉――
「そうそう、マミリーマートはあなたを見捨てたみたいよ。 まるでトカゲがしっぽを切るような感じかしら?
ここに来る際も、普段みられる何の妨害も無かったしね。 そう、あなたももう終わりってわけ。
グリーフシード事件、鹿目家一家殺害事件、そしてその他もろもろの余罪を、忘れたとか知らないとかもう言わせないわ。
洗いざらい吐いてもらうわよ。」
自分を見下ろし、勝ち誇ったようなほむらの言葉を聞いて、久兵衛は、目の前の警察官は自分より更に悪人なのではないかと思った。 - 779: 2011/07/31(日) 19:15:31.22 ID:iSV2qj4Jo
- 「君には無理さ。 どれ一つ解決出来っこないよ」
久兵衛はかすれた声で、なんとか目の前の悪に対抗した。
「正義は、かならず勝つものよ」
久兵衛は、答えなかった。
悪人は、自らを正義と称す。 本当の正義というものなど見たことはないが、それは自らを正義と称さぬはずである。
この女は、やはり本物の悪人だ。 自分と同じだ。
そういえば、この女はどんなに圧力をかけても豹変をしなかった。
だが正義という言葉を使わねばならないという点において、この女は弱い。 その後ろ盾に甘えている。
久兵衛は確信した。 コイツには解決出来ない。
自らを正義と称しながら、詢子とマミとを同列にし、マミを貶めるようなこの女には、意地でも負けない。
――僕の作り上げた組織を、舐めるなよ。
久兵衛は黙したまま、ニヤリと口元を歪ませた。
ほむらが顔を覗き込む気配がした。 久兵衛は自分の自信にみちた顔を、見るがいいと思った。
「あなた、もしかして泣いているの?」
久兵衛は俯いたまま、やはり答えなかった。 - 780: 2011/07/31(日) 19:16:20.17 ID:iSV2qj4Jo
-
… - 781: 2011/07/31(日) 19:17:50.93 ID:iSV2qj4Jo
- ――あの時、と、ほむらは思った。
あの時、久兵衛は泣いていた。 ほむらには信じられぬ光景であった。
自身に満ちあふれた表情をしていてくれれば、まだ救いようはあったかも知れない。
しかし、彼は滂沱の涙を流し、だが声を上げずに、唇をかみしめて震えていた。
その時、ほむらはあの男には、勝てないのではないか、と、何故か確信してしまった。 事件は解決しないのではないかと。
何人も人を殺めてきた久兵衛であった。 そんな彼が、情婦一人の死に、あそこまで縮こまって、
その時はそんな事予想だにしなかったが、結局次の日にすべてを放り出すように死んでいったのだ。
ほむらにはその不可解さが、直接に事件の難解さにつながっているような、
不気味な不安の発生源となっているのがはっきりと感じられたのであった。
サークル杏から人材協力も成されて捜査が進められ、加えて久兵衛がいない今、マミリーマートの裏組織は瓦解寸前である。
事件は、いつか解決するのだろう。
しかし久兵衛には、決して勝つことのできないほむらであった。
番外編 終わり - 782: 2011/07/31(日) 19:20:45.69 ID:iSV2qj4Jo
- 終わりです。
長々と読んでくださった方々、本当に有難うございました。
- 関連記事
コメント
お知らせ
サイトのデザインを大幅に変更しました。まだまだ、改良していこうと思います。