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前スレ:
【艦これ】漣「ギャルゲー的展開ktkr!」 【その1】
- 309: 2018/03/11(日) 22:20:30.66 ID:SeQhtB0C0
- 『あぁ、いい夜風です。颯爽と吹いて……姉さんを思い出します』
ちゃぷん、ちゃぷん。極めて静かに、だが極めて素早く、神通は歩を進める。
『あぁ、いい月です。まるでスポットライトのようで……那珂さんを思い出します』
鉢金を巻いている。腰には魚雷が三連装。眼には光。口には決意。
『龍驤さん、提督殿、この場は私に預けていただいても?』
『好きにしぃ、どのみちウチはこいつで手いっぱいや』
「任せる。戦術論を、俺は大して知らん」
『ありがとうございます』
待っていられるかとばかりに新型が墳進。水を蹴り上げながら、最も近くにいた漣を襲う。
漣へと向けられる大口。その中に砲弾を撃ち込んで頬を半壊、けれど勢いは止まらない。すんでのところで回避、水面へと突き刺さる。
そこを支点にして新型が跳んだ。漣が応戦――砲弾は装甲の前に弾かれた。
- 310: 2018/03/11(日) 22:21:00.78 ID:SeQhtB0C0
- 『ちっ!』
『狙いがぶれてます。腰が落ち切っていない。重心を低くできていないから、反動に耐えきれないんです。一発目はきちんと撃てていても、連射するごとにずれていきます』
土壇場に至っても神通は目を見張るほど冷静で、神通と同期し通信を行う雪風と響にも、新型の異形を目にしたことによる動揺は見られない。
雪風が海面と新型の間に体をすべり込ませ、砲撃でかちあげた。効果は少ない……しかし至近距離からの攻撃により、大きく体勢が揺らいでいる。
尾を振り回し、無理やりにバランスの修正を試みる新型。しかしそこへ響の放った魚雷が炸裂、尾を半ばから大きく抉り取った。そして、ほぼ同じタイミングで、神通が新型へ接近している。
反撃は艦爆による目晦まし。だが神通は怯まない。何より躊躇がない。初めから決めていたその挙動を、例えどんな困難があっても貫き通す、一振りの刃のような鋭い意志。
リボンを焼け焦がしながら切迫した。尾の再生は間に合っていない。砲塔が四つ神通を狙うも、光が収斂するより先に神通が新型を蹴り飛ばしていた。
- 311: 2018/03/11(日) 22:21:40.26 ID:SeQhtB0C0
- その先には雪風がいる。管からありったけの魚雷を顕現させて、神通から送り込まれたそいつへ、容赦のない雷撃をぶち込んだ。
「きひ、きひぃっ!」
左の頭部から頬にかけてがごっそりと抉れている。右の腰から肋骨までが損壊、肺腑がコードに絡まって垂れ下がり、海を油で汚す。
左足の膝からしたは消失し、再生途中の尾で補っていた。
「きひひ、きひ、ぎ、ぎひぃっ!」
それでも戦意は衰えない。
『最上さん、夕張さん、漣さん、戦えますか?』
勿論、と三人が応えた。
『近接はこちらで対応します。可能な限りの魚雷を展開し、私からの合図で一斉射出をお願いします』
『響ッ、動きがありますよ!』
『……うん』
- 312: 2018/03/11(日) 22:22:06.37 ID:SeQhtB0C0
- 『基礎を疎かにしては、万事がうまくいきません。きちりと狙いを定めて……あと、そうですね。四肢の末端などを狙うのは下策です。脚や腕の一本二本吹き飛ばしたところで、それにどのような戦術的価値が?
少なくとも、私なら動きます。赤城さんでも動くでしょう。身体的欠損など、精神的支柱によって、どうとでもなるものです』
動き出す新型に対し、駆逐艦二人が応戦した。雪風は前に、響は後ろに陣取って、周囲を旋回しながらも徐々にその半径を狭めていく。
新型は荒々しい獣のようだった。一人に突進したところをもう一人が背後から狙い撃ち、それに反応すれば、今度は逆から撃つ。回避に自信のある駆逐艦ゆえの戦法だ。だが、それも僅かな動揺で瓦解する綱渡り。二人の練度は間違いなく神通の業に違いない。
『狙うなら、ここ』
と、神通は自らの顔を指さした。
『顔面を潰しましょう』
『漣も、やりますっ』
- 313: 2018/03/11(日) 22:22:54.37 ID:SeQhtB0C0
- 加勢しようと踏み出した神通へと声がかかった。神通は首だけで振り返り、肩越しに漣の姿を見る。
小さい桃色の少女は疲弊し、恐らく初めての実戦だからだろう、殺意に中てられて脚ががくがくと震えている。額は割れて眉のあたりまでが赤く染まっており、非常に痛々しい。数多の火傷。セーラー服からむき出しの肌には、いくつもの青痣ができていた。
それでも、依然として目には闘志が宿っている。いや、それは本当に闘志なのか、回線越しの俺には判断がつかない。決死の覚悟は無論あるとして、なら、なぜ漣は今にも泣きそうになっているのか。
神通は漣にかかずらわっている時間すら惜しいというふうに、無感動で前を向いた。
『待って! 待ってください!』
『自分の言葉で喋りなさい』
神通はぴしゃりとそれだけ言って、推進する。
- 314: 2018/03/11(日) 22:23:35.80 ID:SeQhtB0C0
- 新型と二人の戦いはいまだ続いていた。航空機の攻撃も、魚雷も、砲撃も、全て二人は紙一重で回避していく。神経を使うだろう。疲労の蓄積も並みの比ではないはずだ。僅かに反応が間に合わなくなってきているのを、俺は理解した。
「神通、二人が」
『無論です』
響に叩きつけられんとしていた巨大な尾を神通は正確に撃ち抜いた。砲塔が粉々に砕け、生まれた隙を見逃すまいと雪風は反転、海面を蹴って一直線に新型へと向かう。両の手には魚雷を握って。
「雪風ッ!」
『頭上!』
しかし気づいていなかった。彼女の死角から敵の航空機が編隊を組んで雪風へと向かっている。
俺の声と、神通の叱咤が雪風の意識を頭上に向ける。しかし間に合わない。既に爆弾は投下された。
闇夜が爆ぜる。爆炎に包まれはじき出された雪風を、響が咄嗟に回り込んで抱き留めた。
- 315: 2018/03/11(日) 22:24:01.55 ID:SeQhtB0C0
- 『雪風ッ、大丈夫かい!?』
『ばか、だめ! なにやってんですか!』
損傷は軽微。それ以上に位置が悪かった。
最悪、と言い換えてもいい。
二人を、新型はすでにその手の届く範囲までに近づけている。尾が振りかぶられ、左翼から航空機、右翼から魚雷群が既に放たれていた。新型の殺意に限りはなく、故に暴力も桁外れ。それはこの場にいる誰もが理解していること。
『神通ッ!』
魚雷は神通が咄嗟に迎撃、水面下で大爆発を起こして無力化させる。水柱は煙幕にも障壁にもならず、新型の吶喊は止まらない。
砲撃は装甲の前で効果はたかが知れている。最早敵は狙いを駆逐艦二人に定めたようで、神通を一瞥することすらせず、その中でも一際巨大な砲塔をがごんと構えた。
と、その時である。
水面下が一瞬の盛り上がりを見せ、数瞬後に巨大な爆炎が新型を呑みこんだのだった。
全ての火力をその一撃に籠めたかのような、途方もない光と衝撃、迫力は、その場にいた者の呼吸すらも困難にさせる。閃光に視界が潰れ、轟音が音を掻き消し、突然の出来事は意識を正常に働かせない。
- 316: 2018/03/11(日) 22:25:12.89 ID:SeQhtB0C0
- 『斉射!』
神通以外は。
漣も、最上も、夕張も、予想だにしない事態に対して反射的に行動できるほどの訓練は積んでいない。が、俺は咄嗟に海図のデータ、そして敵機の位置を照合し、網膜へと投影する形で送りつけてやった。
自分と相手の位置がわかって、あとはどちらを向くか、それだけでいい。何故ならそこは海の上で、敵も同じ平面上にいるのは自明の理。
魚雷の軌跡が海面を走り、四連装が四人分、計十六基の熱量が、新型を今度こそ、完膚なきまでに破壊しつくす。
尾が千切れ、首から上が消滅し、残った四肢も右脹脛と左上腕だけという惨状になって、ようやく新型はその動きを止めた。自動修復も起こらない。ぐずぐずの黒い油が体表へ浮かび上がると思えば、そのまま溶解して海の底へと沈んでいった。
- 317: 2018/03/11(日) 22:25:44.93 ID:SeQhtB0C0
- 『そっちはやったんか!?』
龍驤の声。
「なんとか、恐らく! 増援を送るぞ!」
『いや、もうえぇ! 負けを察したのか逃げていきおった! 深追いはする気ィはないが、神通、お前はそれでもええか』
もしも彼女が経験を欲しているというのなら、逃げた敵すらも追いすがる可能性は十二分にあった。
『いえ、今晩はやめておきます。航空機との経験はまだ浅く、いきなりあの練度のヲ級と戦わせるのは、聊か分が悪く感じますから』
『……ほうか』
龍驤は少しばかり安堵しているようだった。
『ウチは扶桑が心配や。最上、夕張、お前らもなるべく早く泊地に戻ろう。その怪我、残っても嫌やろ。
……お嬢ちゃんも』
声をかけられても漣はぽかんとしていた。先ほどまで新型のいた、新型が沈んでいった水面から視線を逸らそうとしない。
- 318: 2018/03/11(日) 22:27:00.51 ID:SeQhtB0C0
- 「漣、大丈夫か」
『……うん、大丈夫、だよ。……マジ卍。草生える』
絞り出す何のような強気。それには嘆息で答える。
『龍驤さん、漣はあとで、ちゃんと行くから、先に行ってて』
『おっさん、ええんか?』
……悩むふりをしてみるが、俺にできることなど、どう考えても何一つ存在しなかった。俺はこいつらを慮ることはできるが、寄り添えはしないのだと痛感するばかり。
「……あぁ、すまんが、漣は後で向かわせる。すぐに処置に入れる準備だけしてくれると、助かる」
『おっけー』
それだけを言うと、龍驤は最上と夕張を伴って、暗い海の向こうへと消えていった。
俺は視界を漣の視野に切り替える。
いくつか、考えなければならないことがあった。例えばあの新型はなんなのか、なぜ突如としてこの海域に出没したのか、何が目的だったのか。最後の最後で隙を生み出してくれた魚雷の主は。
だが、それらは全ていつでもできることだった。後回しにできることだった。
- 319: 2018/03/11(日) 22:27:28.97 ID:SeQhtB0C0
- 「漣」
俺が声をかける、たったそれだけのことで、漣は大きく肩を震わせた。
隠し事がばれてしまった子供のような反応。それの何が悪い、隠し事だとか後ろ暗いことだとか、言ってしまえば全部過去だ。過去がない人間なんているものか。
……そう言ってやれればどれだけよかったろう。少なくとも、そんな権利は、俺にはないのだ。
「疲れたか」
『……うん』
「風呂でも沸かしとくか」
『うん。……あ、でも、高速修復材、使うから。お風呂にも、そのとき』
「あぁ、そうか。そういうもんか」
『あの、ご主人様』
「ん?」
『……なんでもないです』
「……そっか、気を付けて」
帰投しろよ、と言いかけた俺の声を、何かが弾けるような音が掻き消した。
漣が思わず振り向いた先には、雪風が響の頬を張った、その直後の現場があった。
雪風は涙を浮かべ、響は頬の痛みではない何かを堪え、そして神通は無念そうにただ見守っている。
- 320: 2018/03/11(日) 22:27:55.58 ID:SeQhtB0C0
- 『このぐず! どうして、どうしてあそこで陣形を崩しちゃうんですか!?』
『……ごめん』
『ごめんじゃありませんっ!』
雪風が手を振り上げた。漣があわやと一歩を踏み出すが、それよりも自制のほうが早いのは助かった。ぐっと手を肩の位置でとどめ、下唇を噛み、代わりとばかりに響をきつく睨みつけている。
『先日のブリーフィングで決定したじゃないですか! ツーマンセルの基本は挟撃! だからそれを終始、しつこいくらいに徹底すると! それなのになんですか、さっきのあの動きは! 自ら的になりにいってどうするんです!』
『……ごめん』
『それはもうわかりましたったら!』
『ちょ、ちょっと、ストップ! ストーップ!』
とどまる様子を見せない雪風の激昂に、さすがに漣も割って入らざるを得なかったようだ。
- 321: 2018/03/11(日) 22:28:39.98 ID:SeQhtB0C0
- 『雪風さんの言いたいこともわかりました。でも、響さんはあなたを助けようとしたんですよ? それなのに……』
『部外者は首を突っ込まないでください。これはわたしと響、そして神通さんの問題なんですっ』
『違います! 一緒に戦って、深海棲艦を倒すという目的に変わりはないはずです!』
『わたしが響とか、たとえばあなたを守って、代わりに沈むかもしれない。今回だって、結果的に助かったからよかったものの、最悪二人で沈んでいました。作戦の遂行率を下げるような真似をする軍人がどこにいますか?』
『そりゃそうですけどっ、でも違うでしょ! 仲間じゃないんですか。まずは『ありがとう』の一言じゃないんですか!? なのになんで、そんなつらく当たれるんですか!』
『強く在るべし。弱者に生きる権利はないんですよ』
『っ!』
ひりつく何かを、疑似感覚越しに感じた。
思い出す。赤城との邂逅を。神通との激突を。その感覚はあの時に感じたものと酷似していて、いや、そもそも同一なものなのかもしれなかった。
しれなかったが、しかし。
- 322: 2018/03/11(日) 22:29:14.17 ID:SeQhtB0C0
- 漣。
「漣!」
『なんですか』
「お前」
『それよりもご主人様』
「拒否する」
『強制帰投を解除してくれませんか』
「繰り返すぞ。拒否、だ」
まさか畏怖にも近い感情を、この桃色の少女に対して抱くことになるだなんて。
意識してでの行動ではなかった。俺は半ば無意識に、反射ともいえる速度で、漣に対して強制帰投の要請を飛ばしていた。
強制帰投を俺が指示している以上、漣は艤装の使用ができない。リソースは全て足回りに消費する、航続距離と速度を重視した出力に変更されている。
- 323: 2018/03/11(日) 22:29:51.51 ID:SeQhtB0C0
- 漣は同じくらいの背丈の雪風を、不動でぎろり、睨みつけている。相対する雪風もまた同じ。
『弱者に生きる権利がない? 何言ってんですか、あんたは軍人でしょ? 艦娘じゃないんですか?』
そうして胸ぐらを掴んで、
『弱者を守るのが漣たちの役目でしょうが! 悪を挫き、弱者を助く、それが艦娘ってもんのはずです! それが「弱者に生きる権利はない」だなんて、よくもまぁ言えたもんです!
強く在るべし、確かに結構! 雪風さん、あなたはもう十分強いのかもしれません。神通さんだって百戦錬磨なのでしょう。でも、じゃあ、あなたたちが守るべき人々にまで、そんな強さを要求するんですか!
強くなれなくたっていい! 強く在れなくたっていい! 弱いままで、それでも幸せに生きていくことができる世の中にするのが、あたしたちの役目じゃん! 違う!?』
『……なに泣いてるんですか。ださ』
雪風は吐き捨てるようにそれだけ言って、もう付き合っていられないとばかりに反転、飛沫も大きく岸を目指しはじめる。
- 324: 2018/03/11(日) 22:30:19.25 ID:SeQhtB0C0
- 漣は雪風が指摘するとおりに泣いていた。大粒の涙を眼尻から眦から関係なくぼたぼた落とし、海のまにまに消えていく。それでも決して嗚咽は零すまいと歯を食いしばっているのが強情だった。
その涙が少女の心の何処から来ているのか、俺には依然判断しかねた。感情の高ぶりが自然と涙腺を刺激したのか、何か思うところがあったのか、響を悲しんでいたのか。
強くなれずとも、強く在れずとも、平穏を。寧ろ、弱者にこそ幸福を。漣のそういう価値観は過去にも垣間見たことがある。
優しい少女だと、俺は誇らしく思う。
『……ありがとう。ごめんね』
正反対の言葉に同じ想いを混めて響もまた反転。漣は一瞬何か声をかけようとしたようだが、諦めたのかうまく言葉を紡げなかったのか、伸ばした手を空中で止める。
神通も響のあとを追い、すぐに三人の姿は見えなくなった。泊地へ戻ったか、損傷は少なかったので、自分たちの棲家へ帰ったのだろう。
- 325: 2018/03/11(日) 22:31:02.66 ID:SeQhtB0C0
- 『うー……っく、ひっく』
ようやくしゃくりあげだす。誰も見ていないからだと思うが、俺がいることはすっかり忘れているようだ。
正誤の判断をするのは俺ではなかったし、そもそも正誤なんてものがこの世に存在するはずもなかった。何より俺に正誤が判断する資格があるとも思えず、三重で俺に出る幕はない。
ただ、漣の言葉は守られる側の論理であり、雪風の言葉は守る側の論理である。そこに食い違いが生じている部分はあるのかもしれない。雪風は仲間を何人も失っているのだから、なおさら。
大群が襲い、提督が死に、それでも終わらぬ地獄のような邀撃に次ぐ邀撃。押し込まれる戦線を維持するのが精一杯な、いつ終わるとも知れぬ泥沼の撤退戦。
結果として平和は訪れた――平和? 違う。彼女たちはこの平和が仮初だと知っている。一時的な安寧だと知っている。
- 326: 2018/03/11(日) 22:32:49.61 ID:SeQhtB0C0
- 兵隊は凪に身を委ねたりしない。
死にそびれたのは苦しかろう。
漫然と生きるのも辛かろう。
このままではいけないと誰もが思っている。発露の仕方が違うだけ。
……しかし、少し気になることが見つかった。アレは単なる言葉のあやだろうか。それとも。
もしそうなのだとすれば、随分と利用価値があるのではないか。
少し癪だが、仕方がない。大井に確認を取ろう。
「漣、お疲れ。怪我を治してゆっくり休め」
『……うん。わかった、そうする。もう、やだ』
- 332: 2018/03/13(火) 01:45:03.57 ID:IXUNONRt0
- 夜が明けた。
漣は結局泊地で寝泊まりするということで、本人から直々に連絡があった。監督は龍驤か鳳翔さんか……どちらにせよ、まぁ安心だ。あちらとはスタンスこそ違えど、目的は一致している。決して悪いようにはされない。
最上や夕張の損傷は酷いものだったが、話をちらりと伺う限りでは、扶桑の被害が甚大らしい。高速修復剤によって見てくれの怪我や艤装自体はどうにかなったものの、まだ目を覚まさないと。
神経や臓器、精神の状態も安定していないとのことだ。あの新型、そしてヲ級と数的不利を抱えながらの戦闘だったはず。よく沈まずに耐えてくれたと、素直に思う。
いずれ扶桑にもあって挨拶し、話も交わさなければならない。とはいえそこを急いてもしょうがない。俺にもやるべきことは山積している。
- 333: 2018/03/13(火) 01:47:04.15 ID:IXUNONRt0
- 湯を沸かしてインスタントのコーヒーを溶かす。酸味が強く、味は薄い。経年のため到底飲めた味ではないが、これくらいのまずさが意識を賦活させてくれる。ぼんやりとした朝の頭では何もできやしない。
漣を迎えに行くべきだろうか。いや、あいつも一人になりたいときはあるだろう。少なくとも、こんな歳の離れたおっさんといるよりは、同世代の女子に囲まれている方が気も休まるに違いない。
そう、たまに忘れそうになるが、あいつはまだ十代半ばの子供に過ぎないのだ。俺が理解しえない生き物なのだ。
漣が俺の傍らにいないのであれば、こちらも今しかできないことをすべきだった。邪魔というわけでは当然ないけれど、俺たちの問題と言うよりは、寧ろ向こうの問題である。
大井。あいつの顔が脳裏をよぎって、しかし俺は頭を振った。まだ、いい。あいつと話すときは自らの中で確信を得てからだ。
- 334: 2018/03/13(火) 01:47:55.99 ID:IXUNONRt0
- ならばと俺は外へ出た。朝はまだ日差しも弱い。うだるような暑さも、噎せ返るほどの湿度も、どこにもない。
海辺へときもち小走りで急ぐ。通信がとれればいいのだが、一度も回線を確立したことのない相手には、こちらからコンタクトすることができないのだった。
提督としてのあらゆる権限は龍驤にある。ネットワークの外にいる俺は、自分の脚で探すか、向こうからこちらへの接触という幸運を待つしかない。
だが、心配はさしてなかった。恐らくあちらはこちらを意識している。四六時中監視、というわけではさすがにないだろうが、海辺を歩いていれば接触を図りに来る可能性は高い。
伊58。
尾行者の正体。
なぜ、どうして、何の目的で。それらを考える必要はなかった。全て、本人に聞けばよかった。
「……」
少しの沖合で、桃色が水面から突き出ているのが見えた。
二筋の流星が、真ん中から左にかけて流れている。
- 335: 2018/03/13(火) 01:48:24.69 ID:IXUNONRt0
- 58は言った。自分の目的を手伝ってくれるのならば、こちらを手伝うことに抵抗はないと。
互恵関係、望むところだ。そしてそれ以上に、単純な利害関係を超えたところで、あいつに力を貸すことへの抵抗はなかった。
あぁ、認めよう。俺はトラックの艦娘たちの力になりたいと思ってしまったのだ。
どうやら漣の言葉が俺の心に火をつけたらしかった。悪を挫き、弱きを助くのが軍人の使命であるというのなら、俺はまだ軍人でいていいようだ。
比叡は沈んだ。俺が沈めた。鬼を殺す犠牲となって、提督でもなんでもなかった俺の指揮によって、死体さえ上がらない海の底へと消えていった。鬼殺しの名は誉れではない。犠牲を見ずに功績だけを捉えて讃えられるのは、気が狂いそうになる。
罪滅ぼし。手向け。追悼。耳触りのいい言葉なら山ほどあった。しかし、きっとこれは、そんな清廉なものではないのだ。
俺だった。
俺がする、俺のための、行いだった。
こんな気持ちのままに死んで堪るか!
- 336: 2018/03/13(火) 01:48:53.53 ID:IXUNONRt0
- 「なにぼーっとしてんの」
砂浜をぺたぺた58が歩いてきていた。桃色の髪の毛は濡れ、頬や額に張り付いている。撥水性の高い上着や水着は独特な光沢だ。
「……いやらしい眼で見ないで欲しいでち」
「見てねぇよ」
断じて見ていない。
「秘書艦もつけずにお散歩なんて、実に優雅でちね。それとも、そこまでして58とお話がしたかったの?」
海面からこちらを逐一窺っていた女に言われたくはなかった。が、そんな返事よりもまず先に言わねばならないことがある。
「昨晩は助かった」
「……なんのことでちか? 全くわからんでち」
- 337: 2018/03/13(火) 01:49:21.96 ID:IXUNONRt0
- 58はその辺に投棄されていたクーラーボックスを木陰へ引っ張っていき、そこへと腰を下ろした。頬杖をつき、値踏みするような眼でこちらを見ている。
手招きはされなかったが、俺も木陰へと足を踏み入れた。拒否はなかった。それを幸いに背中を硬い木の幹へと預ける。
「お前の魚雷のおかげで、響と雪風は沈まずに済んだ」
「……今朝方、神通も来たよ。みんな誰かと間違えてるんでちよ」
嘆息。やれやれ、困ったやつらだ。58の口ぶりからは、年長者の余裕なのか、それとも生来のものなのか、満ち溢れた自信が透けて見える。きっとこれが大井とそりがあわない理由なのだとふと思った。
実力と責任は隣り合わせ。できるからやる。面倒みるから偉ぶる。それらを当然だとして憚りもしない。
傲慢と評するのは恣意的にすぎるだろう。自らの背中を後輩に見せることによって、あるべき姿を示すのが、きっと彼女の流儀なのだ。そこは神通とも似通っている。
「なら、誰だと思う?」
「……」
またも嘆息。これ見よがしな面倒くささを混ぜて。
- 338: 2018/03/13(火) 01:50:08.84 ID:IXUNONRt0
- 「どうしてわかったでちか?」
「消去法だ」
それは単純な話だった。
響と雪風は当然除外。最上でも、夕張でも、漣でもない。赤城と龍驤は有り得ない。ならば神通? そういうふうには見えなかったし、なにより、その可能性はたったいま58自身が否定した。
扶桑は大破でいない。鳳翔さんも付き添っている。まだ見ぬ霧島? 戦艦があえて、わざわざ魚雷で敵を討つか?
「病床の大井か、潜水艦のお前かなら、58、お前だろう」
「……そりゃそうか。ちぇ、変に恥ずかしいまねをしちまったでち」
「お前があの海域にいたのは偶然か?」
「なに、ゴーヤが深海棲艦の仲間だって?」
「そういうことじゃねぇ。お前は俺の行く先々に現れるからな」
「……んー」
ふくれっ面でそっぽを向く58。拗ねたかと一瞬考えたが、どうやら何かを悩んでいるらしかった。
「夜は潜水艦の時間でちから」
「なんだ、そりゃ」
- 339: 2018/03/13(火) 01:50:39.73 ID:IXUNONRt0
- 「暗い海の中は本当になんも見えなくて、泳いでるうちに、どっからどこまでが自分の体かわかんなくなるんだ」
そうして58は太陽に向かって手を伸ばした。指を広げ、その隙間から漏れる陽光に目を細める。
手の届かないものを希うかのように。
「それが心地よくて、世界中が全部ゴーヤの体になったみたいで、そりゃもう、学校のプールなんかよりも全然。だからゴーヤ、夜の海は大好きなんでち。
……でも時々、本当に時々だけど、25メートルプールに戻りたくなる時もあって」
「……」
ゴーヤの話はいまいち要領を得なかった。それが一体どんな話に向かい、繋がっていくのか、予測がつかない。
きっときちんと話すことが不得手なのだろう。感性で喋る58の言葉は、それでも生命力にあふれていた。
「だから赤城と組んだんでち」
いきなり、意外な名前が飛び出した。
- 340: 2018/03/13(火) 01:51:06.31 ID:IXUNONRt0
- 「待て。赤城と? 組んだ?」
「うん。夜は潜水艦の時間。昼は空母の時間。航空機を飛ばせないから、代わりにゴーヤが、海の様子を見ることにしたの」
「それを他の奴らは知ってるのか? どうして赤城と?」
「ちょっと、てーとく、一気に質問されても困るでち。そもそもあたしは、別に質問にきちんと答える義務があるわけじゃないし」
「いや、それでも泊地の防衛体制のことだし、聞かなかったことにはできんぞ」
「……てーとくも、戦いのことしか頭にないでちか」
ふん、と58は鼻を鳴らした。嘲っているように見せているのだ。ポーズと本音が半々、といったところか。
「みーんなそればっかり! ばっかみたい!」
58が砂を蹴り上げる。白く、きめ細やかな砂は、ぱっと飛び散って輝いた。
「あーあ、こんなことになるんだったら、徴兵なんか蹴っ飛ばしてやればよかったなぁ。インターハイおじゃんにする理由なんか、どこにもなかったでち」
- 341: 2018/03/13(火) 01:51:45.81 ID:IXUNONRt0
- 「インハイまでいったのか」
「うん。一応、自由形の高校記録持ってるでちよ」
「そりゃ凄い」
「名門で、顧問の先生のほかに外部のコーチもついて、普通のだけじゃない……加圧? よくわからんでちが、そういうのもやって、メニューをこなせばこなした分だけタイムも伸びたし。
いや、勿論スランプとかもあったけど、でも、二年で高校新出せてインターハイ決めて、あの時は……嬉しかったなぁ……」
過去を語る58の表情は底抜けに明るくて、その内容があたかも昨日のことかのように、鮮明に、克明に、途轍もない現実感をもって語られる。
幼いころから水泳を習っていたこと。色々な賞をとったこと。強豪校から誘われたこと。先輩との確執と和解。タイムが伸び悩んで苦しかった数か月。負けて泣いた時。勝って泣いた時。
「素直であれば素直であるほど、成績はよくなるもんでち。なんだかんだ、ゴーヤは世の中ってのはそういうもんだと思ってきたんだ。でも、ここじゃ違った。素直で、優秀で、嫌なことを断れないひとから死んでく。死んでった。
はっちゃんが最初。イムヤもほどなく。イクは最期の最期まで、何考えてんのかわかんないやつだったけど、朝起きたら隣にいなくて、結局そのまま帰ってこなかったでち。多分通商破壊に失敗したんだろうって、龍驤は言ってた」
- 342: 2018/03/13(火) 01:52:22.69 ID:IXUNONRt0
- 58の口ぶりは極めて平坦だった。意識してそうしているのだということは、想像に難くない。それを指摘するほど俺も野暮ではない。
恐らく彼女にとっての戦いとは、上から押し付けられたものなのだ。それに従った友人が、次々自分の傍からいなくなっていく。
軍を疎んでいるわけでなく、戦いに倦んでいるわけでもなく、命令や強制という押し付けに対しての嫌悪感。怠慢なのではない。自由主義的といえばいいのだろうか。
「なら、あたしは素直じゃなくていい。悪い子でいい。昼行燈と後ろ指さされるくらいが、きっとちょうどいい。そう思うでちよ。てーとくはそう思わんでちか?」
「俺は……」
「なんのために鬼を倒したかわからんでち。あれじゃあ、てーとくも報われんでち。じゃない? 違う?」
「……知ってるのか」
「ま、ね。かわいそうだなって、テレビ見て思ったから」
「そうか」
こんな子供にまで同情されるとは、なんとも不憫な話である。
- 343: 2018/03/13(火) 01:53:09.64 ID:IXUNONRt0
- 報われたくてあんなことをしたわけではない。褒賞も、徽章も、名声も金銭も、あの時あの場では何の意味もなかった。指揮をとったのは生きるため、鬼を倒したのは結果に過ぎない。
「身の上話が長くなってしまったでち。まぁよーするに、あたしは働くつもりはもう全然全くない、ってことなんだよね」
「だけど、二人を助けてはくれた。夜の哨戒もしている。
それに、この間の口ぶりじゃあ、俺たちがお前の要求を呑めば、お前は俺たちを手伝ってくれるんだろう?」
「流石に仲間を見捨てるほど薄情じゃねーでちよ。それに、赤城のことは……うーん、あたしにも責任の一端があるというか、でもなぁ、今思い返しても、あれが一番良かったと思うし……」
「どういうことだ?」
重要な話に片足を突っ込んでいる、そんな気はするのだが、いかんせん話の糸口がまるで見つからない。
「全ての原因は赤城にあって、でも赤城は全く悪くないって話でちよ」
- 344: 2018/03/13(火) 01:53:38.98 ID:IXUNONRt0
- 心拍数が自然と上がる。全ての原因。原因? なんのだ?
状況。現状。泊地の。トラックの。
壊滅の?
「てーとく、あたしはあんたに協力するでち。だから代わりに、お願いを一つ――いや、二つかな。聞いてほしいんだ」
58はクーラーボックスから勢いをつけて立ち上がり、そのままターンして俺の方を向いた。
屈託ない笑みがそこにはある。
「赤城の冤罪を晴らしてよ。
それに失敗した暁には、あたしにあいつを雷撃処分させてくだち」
- 353: 2018/03/15(木) 00:42:01.62 ID:xHLOeXTA0
- こいつは何を言っているのだ?
不思議と頭は冷静だった。冷静な頭で考えて、真っ先に58が冷静ではないのではないかと判断が下った。言動こそ常人のそれだが、その実精神がお釈迦になっているに違いない。
雷撃処分。安楽死。
こいつは俺にそれを言うのか?
「お前は……イカれてるのか?」
「半分くらいは?」
58が俺に向かって踏み込んでくる。一歩。俺は詰められた一歩分後ろに下がろうとして、それまで自分が木にもたれかかっていたことを、今更思い出す。
下がれない俺を尻目に、58はさらに一歩、また一歩と距離を詰める。ずんずんと。ぐいぐいと。
桃色の頭が俺の顎へ触れるか触れないか、それくらいまで縮まった距離で、こちらを見上げてくる58。
「お願いって言ったけど、ぶっちゃけお願いじゃないんでち。これは命令というか、警告というか、そんなとこかな。その代わり手伝ってあげるよ、って」
- 354: 2018/03/15(木) 00:42:29.60 ID:xHLOeXTA0
- 力と意志の籠った瞳が俺の感情を射抜いている。
内側からの生命力に溢れている、その肢体。自信に満ちた口元。先ほどこいつから感じた、一本の芯が詰まった人間性を、俺はこれまで以上に感じていた。
感じてしまっていた、というべきか。
お願いではなく、命令。あるいは警告。それは確実に事実だろう。58はそのような駆け引きや脅しを好む種の人間ではない。こうすると決めていて、それを宣言しただけに過ぎないのだ。
赤城が幸せに生きられないのなら、いっそ沈めてしまったほうがよい。苦悩と精査の果てに、58はその結論を選んだ。
「龍驤が認めるはずはない」
言ってはみたものの、俺自身が半信半疑だった。艦娘に好き放題やらせている首魁のようなあの少女ならば、58の案に積極的に賛成こそしないけれど、かといって決死の覚悟で止めることもすまいと思ったのだ。
そして俺は、58のにへらっ、とした笑みによって、自らの予想が的中したことを理解する。
- 355: 2018/03/15(木) 00:43:03.05 ID:xHLOeXTA0
- ひらりと距離を開け、くるりと回って、58はまたクーラーボックスに座りなおした。
「龍驤から許可は貰っているでち。あとはてーとくが邪魔さえしなければ、それだけでいい。
……トラックに流されてくるって聞いたから、本当はもっとダメダメでグズグズのひとが来るんだろうな、って思ってた。それだったら、ゴーヤもこんな話はしなかったでち。だけどてーとくはちゃんとしてて、ちゃんとできるひとみたいだから。
万が一、ゴーヤが雷撃処分することになったとき、邪魔されても困るなって。
……億が一、兆が一、赤城を助けてくれるかもしれないし」
だからこんな話をしたんだ、と58は漏らす。
「……赤城の冤罪を晴らせば、いいのか? それは赤城が誰かから誤解を受けてるってことなのか?」
「違うよ。いや、違うってわけでもないけど。
さっきゴーヤ言ったよね、原因は赤城にある、って。でも、本当はゴーヤと龍驤にもあるでち。死んじゃった提督にも。だけど赤城は自分だけ背負い込んで、だから冤罪」
「……トラックが壊滅した、理由、か」
「へへ、やっぱりてーとくは、あたしが見初めただけあるでちね。それくらいは御見通しかぁ」
- 356: 2018/03/15(木) 00:43:34.86 ID:xHLOeXTA0
- 「いや、だが、あてずっぽうだ。なんとなくだ。何が起こったのかは、58、お前から説明してもらわないと」
俺に察することができるのは、所詮「何かがあったのだろう」までである。「何があったのか」までは、最早範疇外。そこまでわかれば超能力者だ。
だが、もし全ての元凶が赤城にあるならば、赤城にあると彼女自身が思い込んでいるのならば、あの深紅に染まった鬼の容貌も納得がいく。
「簡潔に言っちゃうとね、深海棲艦の邀撃、その作戦草案を提出したのが赤城なんでち」
深海棲艦の邀撃……トラック泊地で起こった「イベント」にまつわる、諸処の防衛任務のことだろう。敵の規模や、攻撃の波数まで俺は知らない。漣が持ってきた資料にも記載されていなかったように思う。
そうだ、俺は常々疑問だったのだ。トラック泊地の艦娘たちが大本営を恨んでいるとして、ならば、そもそも、大本営が力を貸してくれると何故みなが思っていたのか。信じていたのか。
- 357: 2018/03/15(木) 00:44:10.17 ID:xHLOeXTA0
- 危機一髪で本土から来た友軍が助けてくれるという、創作みたいな話を全員が信じ、だから裏切られたと憎んでいる。そんな仮定は荒唐無稽だった。だから、最初からそれが邀撃作戦に組み込まれていたはずなのだ。
トラックだけでは戦力が足りないことを見込んで、あらかじめ本土に打診をする。確約を貰う。例えば一方面の防衛や、兵站の維持のための人員を派遣してもらうように。
そして約束は反故にされた。
「……のだとすれば」
「察しが良くて助かるでち。それだけ理解が早いと、ほうぼうでいらん苦労を買いそうでちね」
うるせぇ。
「全員が膝を突き合わせて話すなんてことはできないからさ、あたしと赤城と龍驤、あと大井。それに前のてーとくを加えた五人が作戦立案を担ってた。
トラック含めた東南アジア一帯が襲撃対象になってることは、出没状況だとか頻度から、結構前にはわかってたよ。どうやって手を打つか、五人で集まったのは一度や二度じゃない」
- 358: 2018/03/15(木) 00:46:13.71 ID:xHLOeXTA0
- 「赤城が邀撃論を唱えたわけではない?」
それでは58自身が言ったことと矛盾するのではないか。
邀撃に前向きだった彼女が、惨禍を見ての自暴自棄なのだとすれば、単純に解釈できると踏んだのだが。
……いや、違う。58はその前に表明していたではないか。自分たちにも責任の一端はあり、どう考えても赤城の案が最善であったと。
最善。それしかない、ということ。誰であってもそれを選択するであろう、ということ。
ゆえに58は冤罪という言葉を使う。
「邀撃は、当然する前提だったよ。そりゃそうでち、じゃなきゃこの泊地の意味がないじゃん! ……ってな具合かな。そもそもトラックの島民置いてけないし」
考えてみれば当たり前の話だった。俺は自らの浅はかさを恥じ入る。
「色々と話しあいをして、赤城が積極的邀撃論、だったっけな。それを唱えたんでち」
「積極的邀撃論」
「うん。反攻作戦ってやつ」
鸚鵡返しにも58はきちんと返してくれる。
- 359: 2018/03/15(木) 00:46:45.10 ID:xHLOeXTA0
- 「防衛海域までやってきた深海棲艦を片っ端から片付ける、専守防衛で堅実に行こうとしていたのが大井と前のてーとくでち。理由は……色々言っていたけど、一番は戦力の不足、かな。
今もくっそ人員不足でちが、まともに機能していた頃も、別に大して人は多くなかったよ。長門とか大和とか、弩級戦艦の適合者もいなかったし」
まぁ、いたとしても、燃費を賄えるほどの余裕はあったかわからんでち。58は苦笑しながら呟いた。
「でもそれじゃあジリ貧で、局面を打破しきれないって言ったのが赤城だったでち。そりゃそーだよね、ってあたしは今でも思うよ。
籠城戦を攻略するのは五倍の戦力が必要だって大井は言っていたけど、あっちは無尽蔵だもん。一年後か、二年後か、必ず五倍以上に戦力が開くときが来る。大井もそれはわかってて、てーとくもわかってたから、赤城に異を唱えることはなかったでち」
「……だが、戦力は足りなかったんだろう」
籠城になんとか足りるだけの戦力しかないのなら、必然的に二部隊以上での作戦となる反攻行動など、夢のまた夢。
- 360: 2018/03/15(木) 00:47:11.36 ID:xHLOeXTA0
- 「そうでちよ」
わかってるくせに、と58は厭味ったらしく微笑んだ。俺の言葉が、寧ろ彼女にとっては厭味に聞こえたのかもしれなかった。
たとえわかっていたとしても、既知の確認になるのだとしても、声に出して尋ねなければならない事柄は存在する。もっとも、その神髄は尋ねるという行為にあるのでなく、行為を裏打ちするものの存在にある。
誰もが聞かずに、訊かずに済むならそうしたい何かを、恐怖せずに知ろうとする姿勢。原初、人はそれに「勇気」と名前を付けた。
- 361: 2018/03/15(木) 00:47:44.64 ID:xHLOeXTA0
-
「足りない分は本土から友軍を呼べばいいと、赤城はそう考えたでち」
- 362: 2018/03/15(木) 00:48:21.49 ID:xHLOeXTA0
- ない分は本土から友軍を呼べばいいと、赤城はそう考えたでち」
……。
……。
言葉、が。
「……」
出てこなかった。
なんと言えばいいのか。なにを言えばいいのか。いや、俺に何かを言う権利が、あるのか?
結局俺はどこまでいっても外様で、彼女たちの力になりたいと考えてはいるが、それが余計なお世話である可能性は、否定できない。
聞きたくなかった。訊かなければよかった。58の発言は、俺に深い後悔を齎すには十分すぎるほど十分すぎる。だが、そうなることをわかっていてなお、俺は尋ねたのだ。勇気を振り絞って。
赤城の後悔は俺の比ではない。
- 363: 2018/03/15(木) 00:48:53.31 ID:xHLOeXTA0
- 胸ポケットを自然と探っている自分がいた。力を籠めて手を握り締め、ポケットに突っ込む。
「結果的に、友軍はこなかった。約束は果たされなかったでち」
58は真っ直ぐ海の向こうを見た。俺もつられて視線を向ける。
青い空と、蒼い海と、白い雲と、浮かぶ船と、……その先にはきっと、日本がある。
それとも天国を58は見ているのだろうか。
「依頼はちゃんとしたよ。承認もされた。事務手続きに不備があったなんて、そんなくっだらないオチじゃねーでち。何があったか、いまとなっちゃわかんないよね。
こっちに戦力を回せる余裕がないほど戦況が逼迫したのかもしんない。深海棲艦がチャフを撒いて通信を妨害したのかもしんない。……ただ単に、忘れられてただけかも、しんないでち」
58の視線が俺に向く。俺は何も知らない。夏の本土襲撃のごたごたから復帰しきれていなかった可能性はあったし、人権派を気取る団体の妨害が大きく摂り沙汰される時期もあった。艦娘の運用で政局が傾いていたことだってあるのだ。
「ばっかじゃねーの!」
58は叫んだ。天にも届けとばかり、怒りの抗議だった。
- 364: 2018/03/15(木) 00:49:33.07 ID:xHLOeXTA0
- 「赤城の判断が間違っていたとは、ゴーヤには思えなかったでち。今でも正しいと思う。それに、仮に専守防衛を選ぶことになっていたとしても、戦力の追加補充は本土に申請することになっていたはずでちから、きっとまたそこで何かが起こってたに違いないもん。
半年か、一年か、死んでったやつらの寿命が延びたにすぎんでち。結局のところは、それだけ」
戦場で、一分一秒、敵の侵攻を命を張って食い止めようとしている艦娘の、58のその言葉の裏側に隠されたものを、見落とせるはずがなかった。
心臓を引っ掴まれたような息苦しさ。
「多分十回決定を迫られたとしても、ゴーヤは十回全部赤城の案に乗るよ。だから、赤城が、全部一人でしょい込むのは見てらんない。それはフェアじゃない。スポーツマンシップに悖る。
だけど、それでも夜毎に思うでち。もしかしたら、重石と一緒に沈むのが、赤城にとっては幸せなんじゃないかって」
「それは違う。違うぞ」
- 365: 2018/03/15(木) 00:50:02.32 ID:xHLOeXTA0
- 「もしそうなら、友のよしみであたしがあいつを沈めてやりたい。
苦しい思いをして、必死に、歯を食いしばって生きて、最期の瞬間まで呻きながらってのは、やっぱりやーな感じだから」
「58、俺の話を聞け。それは違うんだ」
「経験者は語る、でちか?」
「そうだ」
「ならてーとくがやるでち。てーとくに託すでち。比叡さんは沈んじゃったけど、赤城はまだ沈んでない。
あたしも龍驤も、赤城になんて声をかければいいのかもうわからないんだ……」
沈む際に、自らの使命を果たしたと確信し、消えていくのは気持ちのいいことかもしれない。自らの存在意義を胸に抱きながら意識が消えるのは、確かに絶頂なのかもしれない。
だが、俺は知っている。知っているのだ。たとえどんな崇高な生き様だろうと、死した瞬間から風化していくことを。
矜持や信念は剥奪され、十把一絡げにラべリングされ、加工を経て世間へと提供される。それは死者への冒涜だ。墓碑銘すらない無縁塚に、親しい人間を誰が入れたいものか。
- 366: 2018/03/15(木) 00:50:35.58 ID:xHLOeXTA0
- 比叡は比叡として死んだが、比叡として安らかに眠ることを認められなかった。
赤城に同じ轍を踏ませることは、到底看過できやしない。
「58。俺がやる。俺が何とかする。何とかしてみせる。
安心しろ、とまでは言ってやれないが……」
こいつは俺の後を尾けてまで、俺と接触を図りに来た。それだけのウェイトを、58の中で占めているということだ。
58は少し驚いた表情をしたが、すぐににへらっ、と笑う。
「ありがとっ」
「なら、IDを教えてくれ。俺は今日はやりたいことがあるが、明日以降、俺の家に来てくれればもてなす用意はしておく」
とりあえずは泊地に寄って漣と合流したかった。夕張や最上の様子も気になる。扶桑の顔を、俺は一度も見ていない。確認すべきは少なくない。
この58から聞いた話をどれだけ龍驤や漣に伝えるべきか、それについては考える余地があるだろう。会議に参加していなかった艦娘たちが、赤城についてどう思っているかを尋ねる必要もあったし、それ以前に赤城が反攻作戦の草案を提出したことを知っているのがどれだけいるか。
- 367: 2018/03/15(木) 00:51:05.96 ID:xHLOeXTA0
- 「てーとく?」
「ん、あぁ。悪い」
不思議そうに58がこちらを覗き込んできていた。
「あの、ゴーヤ、てーとくのお家を知らんでち」
「……は?」
いや、だって、お前。
「俺の後をついてきてたろ?」
58はあからさまに気味の悪そうな顔をして、こう言った。
「何言ってるんでちか?
てーとくを尾行なんてしてないし、てーとくの家に行ったこともないでちよ?」
- 378: 2018/03/19(月) 22:37:22.85 ID:OuJsRaB60
- 足取りは遅々として進まない。一歩踏み出すのにも神経を使い、自分の体であるはずなのに、まるで自分の支配下にないかのような使い心地。
俺は泊地へ向かっていた。そこに漣や龍驤はいるらしい。合流して、今後の策を練らねばならない。赤城の話は……いまは、ひとまず、置いておこう。
あぁ言っておいてなんだが、解決策などちっとも浮かんでいなかった。全てをたちどころに解決する魔法など存在しない。あれば俺が自分で使っているとも。
やるべきことも、前提として確認すべきことも、多岐にわたる。トラックへ着いてから一週間足らず、俺はずっと頭を回し続けているような気がした。だがそれでいいのだ。何故なら俺は前線には立てないのだから。
別段持論があるわけではなかった。ただ、いたいけのない少女を戦場へ送り出すからには、それだけの自らの責任と価値を自らが信じていなければならいような気がするのだ。
- 379: 2018/03/19(月) 22:38:04.60 ID:OuJsRaB60
- 赤城は積極適邀撃論を唱えた。反攻作戦。こちらを攻めている相手の手薄な本丸を狙う、ハイリスクハイリターン。
58は赤城の選択を正しかったと判断していた。責任は赤城にはないとは繰り返し言っていたことだ。誰であってもそう決断し、誰であっても惨状を回避できないのなら、その責任を個人に問うのはおかしい。そう言う話。
俺も58には同意だった。いや、赤城の作戦の正誤判断が俺にできるはずもないから、選択によって得られた結果がたとえ失敗であっても、という部分についてだ。
未来はわからない。結果は知れない。だからこそ過程が大事なのだ。
正しい過程さえ踏めば、正しい結果を得られずとも、一連は正しくある。
ただ、幸せに生きられればよく、その結果死ぬことも許容できるというトラックの艦娘たちの姿勢に関しては、極論のような気がしてどうにも同意できなかったが。
決定の場に同席していた龍驤や大井が赤城について何も言わないのは、彼女たちも赤城の責を問うつもりがないからなのだろう。それでも誰かが決定をせねばならず、決定には責任がどうしてもついて回る。
赤城はその責任を果たそうとしているのだ。
- 380: 2018/03/19(月) 22:38:45.10 ID:OuJsRaB60
- 自らの死によって? 否。赤城の鬼のような佇まいは、死に向かう人間のそれとは違う。赤城はあくまで死の淵に立っているだけだ。
信じられないことだった。まるで常人の発想ではない。
深海棲艦の殲滅。
赤城はそれを一人でやろうとしているのだ。
最初の邂逅で、彼女が言った通りに。
それが彼女なりの責任の取り方。
「……いや、無理だろ」
つい、独り言が漏れる。
そんなことができるなら、今までの海軍の労苦は、一体全体なんだったのかということになる。
敵は強大で、無尽蔵で、だからこそ俺たちは相互に協力し合わなければならない。そうしてこそ、初めて邀撃を成せる。それがわからないはずの赤城ではないはずだ。ならば意図的に無視しているのか。-
それはつまり、迂遠な自殺。
「……」
俺は58の魚雷を、友に向けさせるわけにはいかなかった。
- 381: 2018/03/19(月) 22:39:14.86 ID:OuJsRaB60
- 「赤城……神通たち、は、……まぁいいとして」
この泊地には十二人の艦娘が残っている。
龍驤、夕張、鳳翔さん。
神通、雪風、響。
赤城、58、最上。
戦力としてカウントできるかは未知数だが、大井。
まだ見ぬ扶桑と霧島。
そして、俺の秘書艦として、漣。
現状、仲間は最上、大井、58の三人。とはいえ大井は戦闘に不向きだろうし、58に至ってはどれだけ手を貸してくれるかわからない。腕前は確かなのだろうが……。
神通一派の三人は、どうだろう。仲間とは決して呼べない。あちらはあちらの論理で動いているし、俺たちには与しないだろう。阿ったりしない強さを彼女らは持っている。
不幸中の幸いは、彼女らが深海棲艦を倒すことは、そのまま俺たちの利益にもつながるということだ。真っ向から対立する関係ではない。互いが互いに砲を向け合うことにならず、よかったと心から思う。それは龍驤たちについても同じだ。
- 382: 2018/03/19(月) 22:39:42.31 ID:OuJsRaB60
- その龍驤たちとは手を取り合ってこそいないけれど、ひとまず足並みをそろえるところまでは来たように思う。あの三人とは神通たち以上に目的が合致している。
泊地の再興であり、中長期にわたる深海棲艦の邀撃。それは個人が好き勝手にやってどうにかなるものではない。お粗末でも、人や資源を管理しなければ、到底為し得ない。
俺たちは人死にを減らす――究極的にはゼロにするためにそうするのに対し、あちらは艦娘個人個人の満足を追求するためにそうしている。その部分の違いは決定的ではあるものの、途中までの道程が似通っているのは、どちらも理解していることだった。
前向きに、神通、及び龍驤一派と協調路線が結べたと喜ぶならば、泊地に残存している艦娘の半分以上と手を組めたことになる。残るは赤城と、まだ見ぬ二人。
最上や大井の言葉を信用するならば、霧島と扶桑には期待できそうだ。まぁ、最上の言葉とは裏腹に神通に銃口を突き付けられた過去もあるが、それはそれとして。
- 383: 2018/03/19(月) 22:40:40.04 ID:OuJsRaB60
- だが、その裏で俺は形容しがたい蟠りを感じていた。不完全燃焼感、とでも言えばいいのだろうか。
順調にことが進んでいるように見えて、その実なあなあのままでやってきているだけ。俺はその事実が酷く恐ろしかった。
急いてもしょうがない。基盤を盤石にしてから次へと進んだ方が、結果的には早く済む。それでも俺はどうすればいいのかわかっていないのだ。
北上を探す。どうやって?
神通たちから信頼を得る。どうやって?
赤城を救う。どうやって?
なんとなく、このままでも前に進んでいけるのではないかという楽観が、警鐘を鳴らしている。
そうだ、俺を尾行していた相手の存在も、現状では不明瞭。消去法的に霧島か? 誰も知らない新たな艦娘がいる可能性は……いないことの証明はできない。が、相当に低い。
立ち止まって後ろを振り返ってみる。当然、誰もいない。気配もない。
もしかしたら尾行されているのは勘違いだったのか? 単に神経質になっているだけで、だからそんな有りもしない感覚を得たのか?
なら、あの玄関先の染みは一体?
- 384: 2018/03/19(月) 22:41:24.31 ID:OuJsRaB60
- 泊地の入り口をくぐる。もうこんなところまで来てしまったらしい。
漣にメッセージを送ると、今は休憩室にいます、とのこと。場所を教えてもらい、そちらへ向かう。
たとえば神通たちは放っておいても深海棲艦を殺すだろう。赤城だってそうだ。だから、彼女たちのことを考える必要はないという結論を、俺は出せない。出せなかった。
完全に得られるものを追求するだけならば、神通の信頼も赤城の信頼も、さして価値はない。
信頼に、価値は、ない。
こめかみに力が入る。
それは虚飾だった。欺瞞だった。
なにより、そんなことを信じたくないのだった。
「……うじうじしてんなぁ、俺」
ぐちぐちしている、とも言う。
気が付けば随分と頭でっかちになってしまった。自身を理屈と論理で納得させなければ、自信を持つことすらできやしない。
正しい理屈や論理に裏付けられているからこその自信、そうではないのが猶更たちが悪い。理屈づけられている、論理立てられていることを、盲目的に担保としているだけに過ぎない。
結局は、自分で自分を誤魔化しているだけだった。
- 385: 2018/03/19(月) 22:41:55.48 ID:OuJsRaB60
- 息が苦しい。自然と歩く速度が速まる。廊下の先に、休憩室の文字が見える。
「邪魔するぞ」
そこに酸素があるかのごとく、俺はドアノブを回し、飛び込んだ。
「あ、や、だめ!」
下着姿の漣の姿があった。
セーラー服に半分だけ袖を通し、ブラと、ショーツが丸出しになっている。隣の丸椅子にスカートがひっかけてある。
「あぁ、すまん」
謝罪して、扉を閉める。
思考に紛れはない。漣が着替えを終えるまでに、どこまで話すか、どこまでを胸の内に推しとどめておくか、最終判断を下さねば。
指揮をする立場の俺が信頼を擲つことは、決して許されることではない。艦娘の死の責任を、でなければ一体誰がとるというのか。
彼女たちの苦しみも、不幸な生い立ちも、全て彼女たち自身のものではある。だがそこに俺が、指揮する側の人間が無関心であれば、待っているのは悲劇だけだろう。
- 386: 2018/03/19(月) 22:43:10.34 ID:OuJsRaB60
- 廊下の壁に背中を預ける。モルタルの壁はひんやりとしていて心地いい。
足早になりすぎていたのかもしれない。龍驤が言っていた可能性は、現実のものとなるだろう。いずれ俺は任を解かれる。トラックに飛ばされて、さらにそこからどこへ飛ばされるのか、まるで見当はつかないが。
だからといって彼女たちを疎かにしてはならない。以前自省したように。
その時に俺が何を成せたかは、深海棲艦の侵攻を喰いとめたかどうかよりも、彼女たちに何を残せてやれたか――あるいは、彼女たちに残ってしまった何かを、どこまで解消できたかが全てなのかもしれない。
存在価値。行動規範。
生きている理由。
がちゃり。そんな音ともにゆっくり扉が開かれ、漣が姿を現した。
なぜか顔を赤くして、こちらを睨みつけていた。
- 387: 2018/03/19(月) 22:43:38.96 ID:OuJsRaB60
- 「……ご主人様、後ろを向いてください」
「後ろ? なんか汚れでもついてるか」
「いいから」
「……?」
言われるとおりに背中を向けた。
途端、尻に衝撃と激痛が走った。全力でぶっ叩かれたのだと、すぐにわかった。
「いってぇっ!?」
「人のしっ、下着見といて、なんですかあの反応は!
せめて恥らえ! あるいは恥らえ! さもなくば恥らえぇえええっ!」
べちんべちんと漣が背中をはたいてくる。さすがに女子中学生と言えど、全力での平手打ちはなかなかに響く。
- 388: 2018/03/19(月) 22:44:13.75 ID:OuJsRaB60
- 「す、すまん、考え事を! いてぇっ! してた!」
「思春期の女子の着替えにぶっこんで! とらぶってんじゃないですっ! 草も生えないですーっ!」
べちんべちんべちん。
「おこ! 激おこ!」
べちーん、と一際大きな音が背中から響いて、漣は肩で息をしながら頬を膨らませていた。
「……いや、本当にすまなかった」
「……マジでそう思ってます?」
「思った。思ってる」
恥らえという漣の理屈はよくわからなかったが、異性に着替えを見られて喜ぶ女性もそういまい。
「……興奮しました?」
「は? してねぇけど……」
べちーん。
「いってぇ!」
なんなんだこいつ!
- 389: 2018/03/19(月) 22:44:54.81 ID:OuJsRaB60
- 「べーっだ! ご主人様のへたれ! 根性なし! どうてー!」
「よくわからんが、他の奴らはどこにいった?」
「……」
漣は廊下に置いてあった丸椅子を自分のもとへと引き寄せると、それに座ってそっぽを向いた。
「漣」
「……」
どうやら本気で怒らせてしまったようだ。着替えを見てしまったのは本心で申し訳ないと思うが、どうにもこの年頃の女子の心の機微は理解できない。
困ったものだ、と頭を掻いた。どうすれば機嫌を直してもらえるのか。
甘いものでも買ってきてやればいいのか? ここはトラックだぞ?
「ん」
「ん?」
漣が手を差し出していた。上目遣いでこちらを見ている。
……立たせろ、ということか?
- 390: 2018/03/19(月) 22:45:30.33 ID:OuJsRaB60
- 手に触れていいものか一瞬悩んだが、ここで行動を起こさなければ、また何を言われるかわからない。漣の手を取ると、別段嫌そうな顔はしていなかったので、握る手に力を籠める。
ぐ、とこちらへ引き寄せる。漣はその勢いに任せて起き上がり、俺の腰に抱きついてきた。
「なんだ。あちぃよ」
トラックは今日も快晴だ。湿度はそれほどでもないが、気温は相変わらず30度を超えている。
「ご主人様ってあれですよね」
あれってなんだ。どれなんだ。
漣の体温は高い。子供特有のものなのか、体質的なものなのか、艦娘がゆえのものなのか、判別は難しい。
シャンプーの香りだろうか? いい匂いが鼻を衝く。
少しして、なんだかとても変態じみた感想だなと、自己嫌悪。
「もうちょっとだけこうしてても?」
「……」
否やはないのだが、いいぞと即答するのも憚られて、返答代わりに俺は漣の頭をくしゃりとやった。
それを受けて、漣は俺のシャツをぎゅっと握りしめる。
- 391: 2018/03/19(月) 22:46:07.95 ID:OuJsRaB60
- 「死ぬかと思いました」
「……」
それが昨日の激戦のことを指しているのだと、すぐに理解ができた。
「みんな、あんな世界で戦って、生き延びて、きてたんですね」
「……怖かったか」
「怖いって言うか。うぅん。怖くはないんです。死ぬことは怖くない。もっと怖いことは、本当に怖いことは……」
漣が唐突に俺を見上げた。頭一つ分以上の背丈の差があって、大きな瞳と艶やかな唇、桃色の髪の毛が視界いっぱいに映る。
不覚にもどきりとしてしまった。なぜか漣の頬が紅潮していて、俺にも伝染してしまったのだ。
「ご主人様、漣は……」
- 392: 2018/03/19(月) 22:46:48.54 ID:OuJsRaB60
- 「神聖な建屋で何をしているのかしら?」
険のある声が響いた。漣は驚いて俺を突き飛ばし、距離を離す。
廊下の向こうからやってきたのは大井だった。こちらを多分に避難の色が含んだ視線で眺めている。そしてその後ろに……誰だ? 長身の女性。眼鏡をかけている。袈裟? 修験服? 巫女? どういうことだ?
いや。俺ははっとした。消去法は単純だが、効果的だった。
「……お前が霧島か」
「そうです。お初にお目にかかりますね、提督」
なんのために俺を尾行していた? 喉元まで言葉が出かかったが、すんでのところで嚥下に成功する。
それはおかしい。理屈に合わない。
理屈と論理がたとえ全てではないとしても、いまこそはそれらを信ずるに値するときだった。
霧島が本当に尾行していたのなら、こんなタイミングで出てくるはずがないのだ。
尾行する目的は二つに大別できる。情報を秘密裡に得たいか、それとも何かの機を窺っているのかだ。
- 393: 2018/03/19(月) 22:47:30.45 ID:OuJsRaB60
- 仮に前者であるのならば、そこまでして手に入れたい情報とは何か、疑問が生まれる。信頼に足る人間か知りたかった? 裏を抱えた人間と踏んで、本心を知りたかった? だが俺は尾行者の存在に気が付いている。腹に一物があるとして、それを呆気なく曝け出したりはしない。
そして後者であるのならば、それこそ理屈は破綻していた。機を窺うのは効果的な場面で現れるためだ。俺は、今がそうだとは、どうしても思えない。
「私の顔に、何かついていますか?」
「……いや。知り合いに少し似ていて、驚いただけだ」
虚実を織り交ぜた言葉は多分に効果的だったらしい。大井と霧島はそれ以上追及することなく、俺たちを追い越して廊下の先を急ぐ。
「本当は今後の話をしたいのですが」
霧島は眼鏡の位置を直しつつ、言う。
「今は急いでます。あなたも呼ばれたんでしょう? その後でもいいですか?」
「呼ばれた? 誰に?」
「龍驤よ」と大井がそっけなく返す。「扶桑が意識を取り戻したって」
- 403: 2018/03/22(木) 12:27:12.96 ID:1dH04i4G0
- 医務室は同じ建屋にあった。医務室と言ってもしっかりとした作りのそれではなく、なんとか破壊を免れた一室に、ベッドや薬品や包帯などを詰め込んだだけのものらしい。
「入るわよ」
とノックに応えがあるよりも早く大井は医務室の扉を開いた。真っ直ぐに前を見据えた大井の表情からは、普段の飄々とした余裕は掻き消え、心なしか苛立っているようにも見える。
大井の次に霧島、そして俺が続き、後ろに漣。
「意識が戻ったんだってな。よかった」
「……どうしておっさんが?」
俺の姿を認めて龍驤は僅かに眉を顰めた。霧島は自分たちが龍驤に呼ばれたのだと言っていた。しかし俺は呼ばれておらず、漣も同様。つまりは招かれざる客ということだ。
部屋の中には龍驤と夕張、鳳翔さんがベッドを囲んでいた。少し遠巻きに最上。なんと神通もいる。窓際へ腰かけて目を瞑っていた。
- 404: 2018/03/22(木) 12:27:56.68 ID:1dH04i4G0
- ベッドの上には儚げな雰囲気を湛えた女性が伏し目がちに横になっている。どうやら彼女が戦艦扶桑その人のようだ。
火傷と打撲痕が眼に見えて酷い。顔の左半分は大きくガーゼが当てられている。痛々しさこそあれど、命にかかわるような大きな怪我は見えないが、それ以上に消耗が酷いと感じて口を噤む。あの化け物相手、命があっただけでも儲けものだ。
「私が連れてきたわ」
大井が龍驤に向かう。すると龍驤は「お前が?」と口の端を釣り上げた。「珍しいこともあるもんやな」。笑っているようで、その実笑っていない。
「こいつは私の手足なのだから、同席を許可してもらえないかしら?」
なったつもりは毛頭ないが、口を挟むほどの野暮ではない。
「断ると言ったら?」
「退席させるわ、勿論」
あなたとやりあうつもりはないのよ、と言外に大井。
「そっちのお嬢ちゃんは」
「私の管轄外。この人についていくでしょ」
- 405: 2018/03/22(木) 12:28:39.73 ID:1dH04i4G0
- 「龍、驤」
扶桑がここで初めて口を開いた。口内に何か詰め物をしているような、喋りづらそうな声色だった。
「わたしは、べつに、構わないわ」
「悪いが扶桑、黙っててくれんか。話はあんたとウチだけの問題やのうなってしもうとる」
「それでも、戦力は、多いに越したことは、ないのでは?」
「低練度の駆逐艦一隻を戦力に数えるほど耄碌した覚えはありません」
それまで沈黙を保っていた神通がおもむろに言う。意図して棘のある言葉を選んでいる。それがわからない俺ではなかったし、漣でもなかった。
背後で漣が拳を握りしめている。事実に対して突っかかることほど虚しいものはない。
そんな言い方をしなくても、と最上が困ったふうに窘めた。神通は依然窓際に腰を掛け、目を瞑っている。
……俺はそんな彼女を「らしくない」と思った。たった一度や二度会っただけの人間に対し、一体何様だと思われても仕方がないかもしれないが、ここで漣に対して喧嘩を売ることに何の意味があると?
- 406: 2018/03/22(木) 12:29:11.80 ID:1dH04i4G0
- 「耄碌はともかく……矜持と、リスクマネジメントの問題や。物事には順序っちゅーもんがある」
「戦力の逐次投入は愚策だって、それこそ神通なら知っているんじゃないのかい? ボクはやっぱり、可能な限りの最大数で当たるべきだと思うよ」
「最上、ウチとあんたじゃ目的が違う」
「目的? 今更そんな言葉を担ぎ上げてどうするっていうのさ。
敵の全容が知れない今、全力で以て当たることしかボクたちにはできない。それが龍驤の言うリスクマネジメントじゃないの?」
「全容が知れないからこそ、無責任な情報の拡散はすべきでないと、私たちは考えています」
訴えかけるように鳳翔さん。彼女自身それが最善手なのか自信が持てないでいるようだった。
それに夕張も続いて、
「まずは情報を確定させること。集まってもらったのは、そのための手段をどう講じるかを話し合おうと思ったの」
「ほうやな。扶桑を信じてないわけじゃないが、俄かには信じがたいのも確かや。それは最上、あんたもそうやないんか」
「……だからこその、念には念を入れ、だと思うけどね」
「平行線やな」
「だね」
- 407: 2018/03/22(木) 12:29:41.66 ID:1dH04i4G0
- 議論は紛糾している。だがしかし、彼女たちの言葉は俺の耳を素通りしていくばかりだ。
それは漣も同じだったらしい。俺の服の裾をくいくいと引っ張って、何事かとそちらへ視線を向けてみれば、理解に助けを求めるような目線を向けてきやがった。
扶桑が目を覚ました。彼女は何らかの情報を持っていて、それはこれまで誰も知らなかった新しいもののようである。その対処について、いま議論は割れている。
「……なにがあったんですか」
漣の勇気が張り詰めた空気を震わせる。龍驤と最上のみならず、この場にいた全員が漣を見る。
数多の視線を受けてなお、漣は怯まなかった。寧ろ撃ち返さんとばかりに言葉を紡ぐ。
「大事なことなんですよね。皆さんにとって、きっと、多分。だから漣たちには知られたくない。触れられたくない。違いますか。大事なことを、……外様に、……もっと言っちゃえば、敵かもしれないやつらに、関与して欲しくないから」
人手が多い方がいいのは正論だ。だが正論だけで人が動いているわけではない。
- 408: 2018/03/22(木) 12:30:47.97 ID:1dH04i4G0
- 「心には聖域があります。決して踏み越えてはならない一線があります。漣はみなさんの胸の内に、土足で上がることをよしとは思いません。それはご主人様もおんなじで、そこだけはみなさん、信じてくれませんか。トラックに来てからの一週間では、まだ不足ですか」
「人情話は苦手や、ウチはな」
龍驤は冷たい眼をして言った。
「あんたらに期待して、また裏切られたら、今度こそほんまもんの道化や」
いや、違う。俺にはわかる。それは龍驤の本心ではない。
龍驤は、第二、第三の赤城を作りたくないだけなのだ。
「ちょっとだけいい?」
挙手をして、ここでようやく霧島が中心へと躍り出る。
「わたしは賛成よ、この人たちの協力を仰ぐのは。目的――最上は否定的だったけど、わたしとしては、人生ってのは目的に向かうことにより推進力が得られると思っているから、少しその言説には否定的ね。
で、なんだっけ。そうそう、目的。わたしは当然みんなに協力するし、この人にも協力を惜しむつもりはないわ。無念に絡め取られるなんて虚しいのはごめんだもの。そうじゃない? 龍驤」
- 409: 2018/03/22(木) 12:31:50.32 ID:1dH04i4G0
- 「……」
どうやらその言葉は龍驤にとってはクリティカルだったようだ。何かを言おうとして、破綻していると気付いたのか、はたまた結局思いつかなかったのか、空気を飲み込む。
「大井がこの二人も、というのなら、そうするべきなんじゃない? だって一番当事者に近いのは、大井なんだから」
「別に我を通すつもりはないわ。どうせ私は、海に出られないのだし」
「だけど、何とかしたいと思っている。狂おしいほどに」
「……」
強い肯定の意志を感じた。それを堪える、より強い自制と卑下も。
……俺は、もしかしたら自分が気づいてしまったのかもしれない、ということに眩暈を覚えた。俺が一声あげれば、恐らく誰も協力を拒否はしないだろう。そのような立場にいる自覚はあった。
だが、いまこの場を制するのは、絶対に俺であってはならないという確信も胸中にはある。
信頼を勝ち取りたい。
体中を焼き尽くす焦燥の念。
- 410: 2018/03/22(木) 12:34:13.37 ID:1dH04i4G0
- 「おっさん」
「……なんだ」
「大井を裏切ったら殺す」
バイザーの目庇の奥の瞳は、それが単なる脅しではないことを如実に示している。裏切ったら。単なる失敗を指しているのではない。大井の心を蔑ろにすることを決して許さないというサイン。
「神通さんは」
漣が問うた。神通は漣を一瞥し、物憂げに何かを考えているようではあったが、その深謀は知れない。
「……別に構いません。ただ、独断専行は止めてほしく思います。必ず、全員で。それが徹底できるならば。
全員で集まり、全員で話し合い、全員で稟議にかけ、全員で取組み……」
自らの細い手首を、もう片方の手できゅっと掴む。
「全員で、生きて帰ると約束できるならば」
「全員とはいってもね」
霧島が苦笑しながら部屋を見回した。
「赤城は? 58は? 神通、あなたの部下二人がそもそもいないじゃない」
- 411: 2018/03/22(木) 12:35:31.58 ID:1dH04i4G0
- 「赤城は『関係ありません』だと。58は既読スルーや」
「雪風と響には、それぞれ休息と哨戒を交互に。海域を無人にはできませんから」
「なるほどね」
「……で。唐突な話で申し訳ないのだけれど、そういうことになったから。精々よろしくね、『ご主人様』」
俺の肩にぽんと手をやる大井。冗談交じりの文言とは裏腹に、その口調はどこまでも真剣みを帯びている。それこそ、文字通り、触れれば指が落ちんほどに。
「なら、何があったかを教えてもらえるんですよね」
漣の言葉に不思議と大井が、神通が、霧島が、最上が、ぴくりと反応する。
自然と扶桑に視線が集まった。どうやら、全員が全員詳細な事情を把握しているわけではないらしかった。
極々重大な要点だけを掻い摘んで、通信か何かで伝播されたのだろう。大事な部分のみを知っているがゆえの焦燥感。大井も、神通も、龍驤でさえ普段と違うように見えるのはそのためだ。
- 412: 2018/03/22(木) 12:36:19.31 ID:1dH04i4G0
- 扶桑は痛々しい笑みを浮かべている。そして視線で龍驤へ伺いを立てた。喋ってもいいんですか、と。
それに対して、臙脂色の軽空母は重々しく頷く。
「まず、わたしは、お礼を言わねばなりません。ありがとうございました。助けってくださって、本当、感謝しています」
「それは筋違いですよ、扶桑さん」
「鳳翔さん」
「仲間は助けるものです。助け合うのが仲間。違いますか?」
「親しき仲にも礼儀あり、ですから。
……では、わたしが三体の深海棲艦に襲われたあの夜の話を、致しましょう」
おい、待て。
「3体?」
「黙って聞いとれ、おっさん。ウチらは今から、『その』話をするために集まったんや」
- 413: 2018/03/22(木) 12:39:04.64 ID:1dH04i4G0
- 「わたしは基本的に、漁船の護衛などをして、活動しています。その日は夜に漁を出るとのことで、十一時過ぎ、でしょうか。詳しい時間は覚えてませんが、それくらい、だったかと思います。
漁も終わりに近づき、最後のウインチが巻き上げを開始した、そのときでした。大きな衝撃と、爆発音。船が揺れて、傾き、急速にその均衡を失って……」
すぐに、この船が沈むことはわかりました。それは誰の目にも、明らかでした。
わたしは人員の避難を優先させ、救命艇が落水するのを見届けると、すぐに発進したのです。機関部の故障ではありえないほどの規模の爆発。考えられる可能性は、たった一つしかありません。
深海棲艦。
扶桑の訥々とした喋りに俺は聞き入る。一言も聞き漏らすまいと。
「最初に、わたしを襲ってきたのは、雷撃、でした。巨大な爆発に、大きく吹き飛ばされて、しかしこれでも、戦艦の端くれ。即応して、反撃を試みましたが、艦載機による波状攻撃……えほ、げほっ」
- 414: 2018/03/22(木) 12:40:32.38 ID:1dH04i4G0
- 「あんまり無理して喋らんとき。時間はある。一時間が二時間でも付き合うよ」
意識を取り戻したばかりだというから、当然本調子ではないのだろう。包帯やガーゼのせいで口を動かしづらいというのも、きっとある。
「時間なんて……!」
しかし扶桑の懸念はそこにはないようだった。掛布団を強く握りしめている。
「……助けてくれた際の話は、龍驤さんから、ある程度は聞いています。青い気炎のヲ級、そして新型と交戦したと。ですが、わたしは、見ました。見たのです。三体の深海棲艦を!」
「私たちが作戦海域に到着した時、既に離脱していた一体がいる。そういうことですか」
漣の納得。だが、話の続きがあることを、俺は知っている。真偽が問われているのは三体の深海棲艦がいたかどうかではない。さらに一歩踏み込んだ先にある。
「わたしは、あれは……でも、もし本当に、そうだとしたのなら、嘘であって欲しいと、見間違いであって欲しいと……」
「端的に答えて」
大井は扶桑の瞳を覗き込んだ。
- 415: 2018/03/22(木) 12:41:19.00 ID:1dH04i4G0
-
「あなた北上さんを見たのね?」
- 416: 2018/03/22(木) 12:43:32.44 ID:1dH04i4G0
- 北上。
艦娘。
大井の実妹。
そして、話の流れからして、北上が実は生きていて、扶桑を助けてくれた――そんな良い情報でないことは自明だった。
「……確信は、ない。断言もできない。ただ、数年一緒に、戦線に立っていたもの。姿かたちは、声は、雷撃の威力は、わたしには、そうとしか思えなくて」
「でも! じゃあ!」
空気を破裂させたのは、想像通りに漣だった。現実に理解が追いついていないのだろう、助けを求めるかのように周囲を見回す。
「北上さんは生きていて、でも、その、深海棲艦と行動を、それって……!」
「うっさいわ! お嬢ちゃん、少し黙れや。最初に言うたやろ、ウチらは扶桑を信じるが、信じられんこともあるって。
そのために召集をかけた。やるべきことは真実を明らかにすることや。事実はどうでもえぇ。そのために何ができるか、何をすべきかを、ウチらは考えにゃならん」
- 417: 2018/03/22(木) 12:44:33.84 ID:1dH04i4G0
- 「真実……?」
「事実は扶桑が言ったとおりや。漁船護衛しとった。深海棲艦に襲われた。そこに北上……『らしき』敵の姿があった。だが、それは真実やない」
「まずその北上さんに似た敵が、本当に本人なのか。ただ似ているだけの新型の可能性も十分にあります。もし単なる勘違いであれば、それは十全でしょう。
ですが、もし万が一、本人であるとするならば。なぜ深海棲艦と行動を共にしているのか……私たちを裏切ったのかを突き止めねばなりません」
「神通!」
踏み込んだ神通の言葉に最上からの叱責が飛ぶ。
「滅多なことは言うもんじゃない! ここには大井もいるんだ!」
「どのみち考えねばならないことでしょう。大井さんともあろう方が、その可能性を除外した思索を展開しているとも思えません」
- 418: 2018/03/22(木) 12:48:15.85 ID:1dH04i4G0
- 「最上には悪いけど」と霧島が挙手を伴って発言する。「人を慮ってばかりだと機を逸するわよ。真実如何によっては――」
霧島は窓の外を見た。恐らくそちらには海が広がっているはずだった。
「……友軍が来なかった理由もわかるかもしれない」
「それはっ!」
「最上さん!」
「もがみんさん!」
激昂。最上は我慢ができないという様子で詰め寄り、霧島の胸ぐらへと掴みかかった。慌てて夕張と鳳翔さんが割って入る。
しかし彼女は梃子でも動く気はなさそうだった。荒く息を吐き、きつく相手を睨みつけている。
「撤回しなよ」
「いやよ」
「撤回しろ! 北上を侮辱するのもいい加減にしろ!」
「しないわ」
今度は立場が逆だった。最上の胸ぐらを霧島が掴み、それぞれ額がぶつかるまで顔が近づく。
「じゃないと、わたしは何のために生きているのかわからない」
- 419: 2018/03/22(木) 12:50:20.99 ID:1dH04i4G0
- 獣の咆哮にも似た声音。血走った彼女の瞳は、何が何でも譲れない領域の存在を、如実に示している。
北上が本人であるか、それとも他人の空似であるかは、今議論しても詮無いことだ。結論は出ない。手段として、実際にその個体を確認するまでは、宙ぶらりんのままにならざるを得ない。
そして北上が、もしも、最悪の場合として本人だった場合、なぜそんなことになってしまったのか。
深海棲艦に洗脳されてしまったのか? それともスパイとして潜り込んでいるのか?
……考えたくないことだったが、本人の意思か。
58は言っていた。友軍の申請は確かに出したと。それなのに助けは現れず、泊地は壊滅し、人は死に、誰もかれもが傷ついた。
本当に申請はされていたのか? 何らかの邪魔が入ったのではないか?
北上が、深海棲艦の回し者だったとして、それを現段階の「事実」からでは誰も否定できないのだ。
- 420: 2018/03/22(木) 12:53:00.70 ID:1dH04i4G0
- 最初、この部屋に渦巻いていた歪な空気。きっと誰もがその可能性に行き着いていたに違いない。
否定したくて否定したくて堪らないのに、否定できない歯がゆさ。
事実よりも真実を、と龍驤が言ったのは、そういうことだ。
「最上、外の空気吸って落ち着いてきぃ。鳳翔さん、悪いけどついってってくれんか」
「わかりました」
力なく最上の手が修験服から離れる。眼尻に涙を湛え、せめてそれを零さんとしている姿は心に響いた。
「で、どうするの? 当面は仮称・北上カッコカリを捜索するって感じでいいの?」
「夕張、その名前はどうかと思うわ。
私としてはもともとそれが目的なのだから、やることにあまり変わりはない。手足もきちんとあることだしね」
流し目で俺たちを見てくる大井。
手足になる覚悟はいくらでもあった。だが、俺はそう思いつつも、大井のことを想う。聡明であることは枷にもなり得る。理性で押し留められることには限界があって、大井も例外ではない。
一番この中で感情が嵐と化しているのは、誰よりも彼女であるはずなのに。
- 421: 2018/03/22(木) 12:54:17.76 ID:1dH04i4G0
- 俺たちは互恵関係にある。労働力を差し出す代わりに、智慧を借りる。
北上を見つけてほしいと彼女は俺たちに言った。大井はどちらを願っているのだろうか。件の深海棲艦が、自らの実妹であったほうがいいのか、はたまた。
「……一旦解散やな」
「龍驤?」
「勘違いすんなや。各自着替えやら喰いもんやら飲みもんやら……必要なモンもって、夜にまた集合や。ウチらはどうすべきなのか、ここで決着つけんと、おちおち寝られもせんやろ」
「……ん、わかった」
真っ先に応えたのは夕張だった。無論彼女も言いたいことや聞きたいことは山ほどあるのだろうが、全てを飲み込んで、夜に回すつもりなのだろう。
次いで神通が部屋を出る。最後まで一切こちらを振り向くことはなかった。
「わたしも行こうかな。それじゃあ、また夜に。……提督も」
霧島が手をひらひらとさせて壁の向こうへと消えて行った。まだ俺は霧島のことをよく知らない。行動原理と目的がどこにあるのか、それを知るまで評価も信頼もおあずけだ。
- 422: 2018/03/22(木) 12:55:21.37 ID:1dH04i4G0
- 「長い夜になりそうやね」
それだけ言って、龍驤も出入り口へ向かう。
廊下へと踏み出して、こちらを振り向いた。
「大井、ちょっちツラ貸しぃや」
「カツアゲかしら。怖いわ」
「そんな冗談吐く余裕があるなら十分やな」
二人揃って、いなくなる。
残ったのは俺と漣、そして扶桑。扶桑と目があうと、彼女はにこりと微笑んだ。今も激痛に苛まれているだろうその体で。
「こんにちは。はじめまして」
「……不幸だったな」
「えぇ、そうね。不幸だわ。いっつも、こうなの。ふふ。でも、不幸中の幸いよ。僥倖。命があるわ」
「北上は、その、どうだったんだ」
「どうだったんだ、と言われても、ね。陽気で、朗らかな、楽天家。雷巡、北上。三つ編みの、ほっぺたが柔らかい、セーラー服の……」
- 423: 2018/03/22(木) 12:56:50.79 ID:1dH04i4G0
- 「本人そのものだったのか? 闇夜だった。探照灯や照明弾は積んでいなかったんだろう? 漁船が沈んでいるなら船の灯りも大して役には立たなかったはずだ」
「爆炎と、水しぶきで、この目でしっかりと見たわけでは、ないの。ただ、あれは、わたしたちが今まで戦ってきたような、そんなやつらとは違っていて……人型。そう、人型が二人いて、おどおどろしい笑いと、鳥肌が立つような寒気が、あった。
シルエットは酷似していた。大井さんが、彼女を探していることは、知っていたから、つい呼んでしまったの。『北上さん!?』って。そうしたら、あっちは動きを止めて、……雷撃をしてきたわ」
「……」
「自信はなかった。だから、龍驤さんに言うのも、最初は悩んだ。だけど、少しでも、何らかの助けになれば、そう思って……」
少し扶桑の顔色が悪くなっていた。俺はそれ以上話すことをやめさせて、漣を促し部屋を出ようとする。
どうせまた夜に集まりがあるのだ。それならば、全てはその時でいい。いま扶桑を酷使することに意味はない。必要なのは休息。
- 424: 2018/03/22(木) 12:59:22.82 ID:1dH04i4G0
- 「提督、みなさんを、よろしくお願いします」
「……俺が? どうして」
まるでそんなことを言われるとは思っていなかった。思わず歩みを止め、振り返ってしまう。
「わたし、みんなにこう言って回っているんです」
俺は苦笑した。なるほど、なかなかの策士のようだ。
「任せてください!」
漣がサムズアップで応えた。
- 431: 2018/03/24(土) 23:09:51.23 ID:9hF8Rehv0
- 目を覚ました。部屋は空気が籠っている。
五感の中で真っ先に働いたのは、鼻だった。
酒と、清涼飲料と、菓子と、カレーの匂い。汗と、鉄と、ひとの匂い。饐えた毛布と、薬液の匂い。
扶桑はベッドで眠っていた。そこに倒れこむ様に、最上と夕張。
龍驤は部屋の隅で膝を抱えて体育座り。頬を壁に預け、時折バランスを崩して身を震わせた。スカートの中が見えそうになって、俺は慌てて目を逸らす。
毛布にくるまって眠っているのは鳳翔さん。漣も潜り込んでいて、鳳翔さんに抱きしめられたまま、心地よさそうな顔をしている。
やけに足が痺れると思えば、神通が俺の太ももを枕の代わりに、すやすや寝息を立てていた。きりりと引き締まったいつもの表情はどこにもない。必要以上に責務の中に自らを置くことは、夢の中では流石にしていないのだろう。
大井と霧島の姿は見えなかった。大井はわかる気がする。あいつは誰かに寝顔を見られるのを殊更に嫌がりそうな女だ。誰とも馴染みそうにない。
俺は起こさないように、神通の頭をそっと避けてやった。
- 432: 2018/03/24(土) 23:10:21.46 ID:9hF8Rehv0
- 「お父さん……」
言葉が零れたのを聞き漏らさなかった。いや、聞いてしまった、というべきか。
当たり前だが、こいつら全員に家族がいるのだ。俺とは違う。その隔たりは、決心を強固にさせるには十分だった。
こいつらを沈めさせるわけにはいかない。
立ち上がる。固い床で眠っていたせいか、体の節々がごきり、音を立てる。眠りが浅かったのか頭はまだぼんやりとしていて、本調子ではない。
大きく伸びをして深呼吸。新鮮さとは程遠い、ごちゃまぜになった空気が肺を満たす。
清涼感を求めて廊下へと脚を進めた。
現在時刻は正午に差し掛かろうとしていた。随分と眠っていたものだ。いや、議論がいつまで続いていたのか、覚えはない。最後の方は意識が朦朧としていた。気づけば寝落ちしてしまったのだ。
病床の扶桑が疲れのためか真っ先に眠りに落ち、鳳翔さんもすぐに後を追った。漣はうつらうつら船を漕いでいたが、意識が飛びそうになるたびはっと眼を覚まし、大丈夫アピールをしていた気がする。それでも日付が変わるくらいには入眠していたはずだ。
結局俺の意識の中では、残っていたのは龍驤と大井、そして霧島だった。
- 433: 2018/03/24(土) 23:10:53.84 ID:9hF8Rehv0
- 昨日、あのあと。
俺たちは家へと戻り、簡単にシャワーで体の汗を流すと、着替えてすぐに出た。そうして泊地までの道すがら、屋台でいつぞや食べたフィッシュアンドチップスのまがい物をそれぞれ買い、軽く腹ごしらえしてから臨もうとしたのだった。
「どうしますか、ご主人様」
漣の尋ねに対し、なるようになるさと返す。それを受けて漣は頬を膨らませた。
「そんなんでいいんですか?」
「お前の気持ちはわかるけどな、あいつらの気持ちもわかる。だろ?」
「うー、そりゃそうですけどぉ。
漣だって別に、わざわざデリケートな部分に突っ込んでくほど馬鹿じゃないです。でも、でもですよ? 扶桑さんが見たという個体が単なる他人の空似だとしても、裏を返せばそれは、漣たちが戦ったあの新型と同レベルのやつがいることになりますよね。
で、北上さん本人だったとしたら、それはそれで非常にまずいことじゃないですか? 対応を後手に回すほどの余裕? 余力? が今のトラックにあるとは、漣にはどうしても思えなくって」
- 434: 2018/03/24(土) 23:11:21.54 ID:9hF8Rehv0
- 「その判断は正しいと思うが」
決断には責任が伴う。彼女らはみな、責任を負うことを恐れているのではない。責任を負えるほどの覚悟がないことを、わかっているのだ。
最悪の最悪、北上が裏切り者だったとして、砲を向けることができるのか。全てはそこにかかっている。
それでも、因縁を断ち切るのは彼女らの手でなければならないと、俺は半ば盲信していた。漣の手ではなく、勿論俺の手でもなく、自らの道行を決めるのはやはり自らであるべきだと思ったから。
矛盾することではあるが、だがしかし、因縁に囚われて引き金を引けないことこそが人間らしくあるとも思う。
「ご主人様はどう見てます?」
「判断材料が少なすぎるな。何を言ってもあてずっぽうだ」
「もー! そんなのはわかってますよ、ばかちん!
大事なのはパターン分けじゃないんですか。漣たちはタイトロープの真っ最中なんですから、右に落ちるか左に落ちるか、それぞれの応じ手を講じとかないと」
- 435: 2018/03/24(土) 23:12:12.32 ID:9hF8Rehv0
- 「それこそ意味がねぇだろう。戦って、倒す。それ以外に俺たちに何ができる? 右に落ちようが左に落ちようが、やるこた一緒だ」
「んー……」
問題は恐らく俺たちには存在しないのだ。
「まぁ、そこは信じます。ご主人様にならいますんで」
それはありがたいことだった。
そのまま少しの雑談を交わし、医務室へと脚を踏み入れた。俺たちがやってきたときにはすでに大半が座しており、大井と霧島を残すだけとなっていた。その二人もじきにやってきて、ついに会議が始まる。
漣はタイトロープという言葉を使ったが、それは言い得て妙だった。右に落ちるか、左に落ちるか。どうなるかはその時が来るまでわからない。丁半博打と同じだ。
ある種考えても無駄なことなのだ。北上が本人であるかどうかは、実際に会うより他になく、扶桑の曖昧な情報から類推することに利があるとは全く思えなかった。無聊ですらない、心の毒。
- 436: 2018/03/24(土) 23:13:09.63 ID:9hF8Rehv0
- だから漣の道中での言葉は正しかったのだろう。パターン分け。それぞれの応じ手。あるいは、そこまでの道すがら。
自分たちはどうすればいい。そもそも積極的に北上を捜索しに行くべきなのか、それとも普段の生活を送りながら偶然の接触に期待するのか。その人員配置は? 誰が参加する? ローテーション? 役割固定? 赤城は? 58は? 考え出せばきりがない。
「北上は探す」
開口一番に龍驤がそう言った。
「ウチは募集をかけるよ。参加したいやつだけ参加すりゃええ。扶桑が接近遭遇した海域を中心に、虱潰しにあたるつもりや」
「あの新型がいるかもしれないのに、ですか? 希望者が一人や二人で哨戒しては、扶桑さんの二の舞ではありませんか?」
神通がすぐさま異議を唱えた。とはいっても、それは方法論にであって、北上を探すという結論に対してではないようだ。
- 437: 2018/03/24(土) 23:13:38.11 ID:9hF8Rehv0
- 龍驤の決断には、無論彼女が言っていたような矜持やリスクマネジメントもあるのだろうが、何よりも大井を想ってのような気がした。こうでもしなければ、大井は独りで海に出そうだと判断したのだろう。
少なくとも、俺ならばその危惧が頭から離れない。
「まぁそうやな。神通の言う通りや。んで、じゃあ、もし北上を探すっちゅーたら、手伝ってくれるやつは何人おる?」
真っ先に手が上がる――大井。
「あほ。病弱の手ェなんぞ借りれるか」
「龍驤、あなたは私に、無能の烙印を押したいの?」
「あんたの智慧は死ぬほど役に立っとる」
「そういうことじゃない。私を、『大事な妹の一大事に、何もせずただ見ているだけの女』にさせたいのか、って聞いているのよ」
「なら」
ここしかない、と思った。部外者の俺が発言できる数少ないタイミングを見逃すわけにはいかなかった。
- 438: 2018/03/24(土) 23:14:15.26 ID:9hF8Rehv0
- 「俺と漣で、大井を守ろう。どのみちこっちも漣一人にはできん。神通の言うことももっともだと思うしな。
もし無茶をしそうだったら、ぶん殴ってでも止める。それでいいか? 龍驤」
「ちょ、まっ、ぶん殴るのはご主人様じゃなくて漣だと思うんですけど!」
「じゃあボクも見張るよ。何があっても、心残りができるよりは、きっといい。大井さんは強い人だから」
最上はそう言って大井の横に座った。顔を大井の肩に乗せ、くくくと悪戯っぽく笑う。
「……まったく」
心配性なんだから。呆れたふうを装っているが、安堵の色は隠せていない。
「……」
龍驤は俺を細目で一瞥した。少しの思考の沈黙があって、口元を歪めて笑う。
「まっ、ええんやない? 神通もそれで文句はないやろ」
- 439: 2018/03/24(土) 23:14:44.66 ID:9hF8Rehv0
- 「文句と言いますか」
挙手。
「私も……いえ、私たちも、捜索には参加します」
「ええんか?」
「勿論です。私の目的は、響と雪風を鍛えることですから……近海でイ級ばかりを倒しても、しょうがありません。
それに、……龍驤さん。あまり私を、冷たい女だと思わないで欲しいんです。たとえ苦しみが伴ったとしても、私は前に進みたい」
「……ほうやな。ほうやったな。すまんな」
「いえ」
「当然あたしたちも手伝うよ! ね、鳳翔さん」
夕張が鳳翔さんに後ろから抱きつく形で手を挙げ、もう片方の手で鳳翔さんの左手をとり、ぐいと持ち上げた。
「勿論ですとも。また漁船が襲われて、民間のかたに多大な犠牲が出てからでは、面目がありません」
- 440: 2018/03/24(土) 23:15:36.04 ID:9hF8Rehv0
- 「私も、手伝いたいのですが」とおずおず挙手をする扶桑。「まずは、怪我を治すことに、注力すべきです、かね」
「慌ててもしょうがないやろ。怪我人は怪我を治すことが仕事や」
九つの手が挙がった。残る一人、霧島に視線が集中するのは当然のことだった。
「私? 私は、そうねぇ」
「霧島。これは、完全に個人的なお願いよ。私に力を貸してはくれないかしら」
真っ直ぐな言葉。馬鹿にしているわけでも、見縊っているわけでもないが、大井がそういう物言いができるということが、俺には新鮮に映る。
きっと、もっと見栄えのいい言葉を使うことは容易だったはずだ。霧島の利益を標榜したり、深海棲艦の戦力を削ぐ一助であることを強調したり。だが大井はそうはしなかった。そうしないことを選んだ。
俺は思わず頬が緩む。
霧島の手が挙がったのを見たからだった。
- 441: 2018/03/24(土) 23:16:19.51 ID:9hF8Rehv0
- どこまでが龍驤と大井の描いた絵図だったのかは、この際気にしないことにした。北上の捜索。大井は捨て置けない。仲間を想う気持ちを利用した、二人の茶番。
利用されたというのに、この心地よさはなんだろう。
「よっしゃ! 未来は決まった! 決意は固まった! 今日はええ日や!」
おもむろに立ち上がり、龍驤は薬棚から何かを引っ張り出した。ボトル。頭部は黒く、白いラベルが貼ってあるようだ。中には赤みを帯びた琥珀色の液体が入っている。
薬液じゃないな? なんだ?
「ひひっ。これで乾杯といこう」
龍驤はボトルをくるりと回し、その白いラベルが俺たちに良く見えるよう向けた。
「……山崎かよ」
「しかも二十五年や」
おいおい、数年前の時点で四十万以上していた気がするが。本気か?
漣を初めとする未成年たちはぽかんとしていた。俺と霧島、そして大井は、別の意味でまたぽかんとしている。
- 442: 2018/03/24(土) 23:17:12.32 ID:9hF8Rehv0
- 「よくもまぁそんなものを、こんなところに……」
「軽空母どもは蟒蛇ばっかやったからな。あんなやつらにはトリスでも飲ませときゃええねん」
「気持ちはわかるけれど、まずは北上さんの捜索について、詰めるべきところを詰めないの?」
大井が正論を吐く。
「乾杯してからでええやろ。どのみち全員でお手々繋いでー、とはいかんやろうしな。おっさんチームとウチのチームに別れて……」
「俺が? いいのか?」
こいつは俺の参加を反対していたはずではなかったか。
「今更おっさんを『はみご』にしたってしゃーないやんか。手伝ってくれるゆうなら、きっちりこき使う主義でな。
おっさんとこが漣、大井、最上、霧島、神通。
ウチんとこが、ウチ、鳳翔さん、夕張、雪風、響。これでどうや」
- 443: 2018/03/24(土) 23:18:00.55 ID:9hF8Rehv0
- 「霧島と神通を? ありがたいが……そっちは大丈夫なのか?」
見縊っているわけではないが、軽空母が二隻に軽巡一隻、駆逐艦二隻なんて構成は、火力不足にしか思えなかった。
「はっ、いっちょまえに心配しよって。そっちは病弱とお嬢ちゃん連れて、ハンデもハンデ、大ハンデや。
鳳翔さんと夕張は連携し慣れとるし、雪風と響も神通に鍛えられてる。心配はなんもない。大体、現状の主目的は捜索や。見敵必殺? 古い古い。案外機動力に優れたこっちのが、向いとるかもしれんで?」
なるほど、そう言う考え方も確かにある。
漣が戦力外だとは俺には思えなかった。事実、先だっての新型との戦闘では、落伍することなく食らいついていたように感じる。それでも、龍驤や神通といった歴戦の面々にとっては、やはりまだまだということらしい。
大井は58が泊地で上から三番目だと言っていた。それはそれで驚きだが、トップツーはならば龍驤と神通か? いや、赤城もいる。難しい問題だ。
- 444: 2018/03/24(土) 23:18:51.24 ID:9hF8Rehv0
- 「よろしくね」
霧島が俺にそっと耳打ちをしてきた。わざわざそんな内容にも思えず、俺は怪訝な表情をしていたのだろう、霧島はこちらを見てふふっと笑う。
「まぁその話はおいおい、ってことで。酒の席でする話じゃあないので」
「神通はそれでええか? 響と雪風、こっち預かりでも」
「構いません。粗相がなければいいですが」
とくとくとく。特有の音を響かせて、ほんの僅かにとろみのある液体が、瓶からグラスへと注がれていく。
龍驤が手酌で山崎を空けていた。かぐわしい芳香が、快楽にも似た刺激を俺の鼻へと与える。まさしくいい酒の証だった。
「ちょっと、龍驤」
大井が窘めようとするが、言い終わるよりも早く、龍驤がグラスを彼女へと渡す。
「ほれ。いい酒や、飲まずにおくには勿体ない」
「あなたねぇ」
「ウチはまさか、また人がこうやって集まるとは思うとらんかったよ。在りし日を思い出す。
……なぁ大井。まるでウチらがまともに戻れたみたいやんなぁ」
- 445: 2018/03/24(土) 23:19:52.65 ID:9hF8Rehv0
- 「……」
沈黙が場を支配した。どこまでいっても彼女らは、今を生きてはいないのだ。
いつか赤城が笑い飛ばしたように、トラック泊地の艦娘は、誰もかれもがみんな亡霊である。
意を決したのか、ひったくるようにして大井がグラスを奪い取った。その勢いのままにあおろうとするも、気化したアルコールの強さを感じたのか、グラスの縁に口をつけた状態で急減速。そのままちびり、口に含む。
「――ッ!」
顔を顰めた。煙草の吸い方は堂に入っていたものだが、アルコールの方はからきしらしい。案外、暇つぶしに煙草を覚えたというのも、本当なのかもしれない。
大井は眉間に皺を寄せつつも、その対抗心に燃えたような瞳は依然として残っていた。
「……そう言われちゃ、呑まないわけにはいかないわ」
グラスが鳳翔さんに回り、霧島に回り、扶桑に回り、神通に回り、……漣に回って、俺に回った。
いいのか? と尋ねると、誰からも返事はない。ただ黙って、こちらを見ているばかり。
- 446: 2018/03/24(土) 23:20:22.68 ID:9hF8Rehv0
- 「……」
酒はワン・ショットほど残っていた。ワン・ショット。一発。一撃。必殺の。
ちくしょうめ。俺は努めて明るく笑って、そう言ってやった。
俺がグラスを空にすると、まるでそれが合図だとでも言うように、自然と宴会の流れになったのだった。
- 453: 2018/03/25(日) 23:36:47.09 ID:c0G7atQB0
- 外は曇り空ではあったが、空気は不思議と澄んでいた。気温はそう高くないが、湿度は相応に高い。それとも海が近いせいだろうか、少し粘り気が感じられる。
俺はこっそり漣から拝借してきたピースを咥えた。ショッピである。昔はホープを吸っていたものだが、軍に籍を置いていると、金だけが溜まっていく。船の上に一度乗ってしまえば長らく降りられないのはざらだし、そのせいでこういった嗜好品にこだわりだすのだ。
「平和に、希望、ね」
健康に悪い煙を吸いながら、似合わない単語を吐く。人間とは自らにないものを希求する生き物だとは、随分と皮肉な話だと思う。
「寿命を縮めますよ」
「いいんだよ。吸うか?」
ソフトボックスを差し出すと、霧島は毅然と「結構です」。
「私、吸わないので」
「そうしたほうがいい。俺も煙草を吸う女は苦手だ」
「随分とずるいひとなんですね」
「男は馬鹿だからな。すぐに格好つけたがる生き物だから、これくらいは大目に見てもらわんと」
- 454: 2018/03/25(日) 23:37:21.50 ID:c0G7atQB0
- 「大井は? あのコ、吸いますけど」
「あいつは……あいつかぁ」
大井が苦手だというのは、別段煙草が云々という問題からかけ離れているように感じる。というか、あいつを得意とする人間なんているのか?
「酒に呑まれている間は大人しくてよかったけどな」
大井は負けず嫌いな性分なのか、それとも不安を紛らわすためなのか、龍驤、霧島と三人で山崎を空けていた。俺もちびちびそのご相伴にあずかり、絶好のタイミングで鳳翔さんが持ってくるつまみに舌鼓をうったものだ。
残る面子はジュースやらお茶やら、缶チューハイやらを呑んでいた。年齢のことは気にすまい。そもそもトラックが日本の法律の適用範疇なのかを俺は知らない。
それに、トラックはどうせ見捨てられたのだ。
- 455: 2018/03/25(日) 23:37:49.48 ID:c0G7atQB0
- 山崎を一舐めして思い切り咽ていた漣は、その後缶ビール、缶チューハイとチャレンジしていたようだが、全てにあえなく撃沈していた。カルピスサワーならなんとか、といった程度。まぁ中学生のうちから酒の味を覚えられても困る。
それでも酒は回っていたらしく、やたらと俺にべたべたしてきたのが印象的だった。
「ん!」
と胡坐をかいている俺を指さして、何が何だかわからないうちに、そこへとすっぽり収まる形で座り込んでしまう。
俺の右手にはビール、左手には焼き鳥の串があって、腰の上に漣。こっちへ体重を預けてきて、「うへへ」と笑っていた。あれはなんだったのだろう。悪い酔い方をしていなければいいのだが。
あいつは俺に父性を感じているのだろうか。家庭環境に思いを馳せたことはないが、単なるホームシックならまだマシだ。
- 456: 2018/03/25(日) 23:39:29.85 ID:c0G7atQB0
- 「夕張は泣き上戸だったな」
「大体あんな感じです。技術畑の人間でしょ? 感情移入のくせが強くって」
「最上はあんまり変わらなかったな」
「酒豪ですから。面倒見もいいので、大体布団敷いたり軽空母たちを部屋まで連れていったり、そういう役回りですかね」
「扶桑は大丈夫なのか?」
「怪我の具合は、まぁ後遺症が残るようなものではないでしょうけど、一部骨までいっているのもあるようなので、そちらが完治し次第、じゃないですか。一週間ほどで海の上に立てるまでは回復する見込みだと。
お酒に関しては、すぐに寝るので」
「なるほどな。お前は?」
「嗜み程度には呑みますけどね。ちゃらんぽらんになるまでは、流石に」
「龍驤みたいにか?」
苦笑した。なんといっても山崎を用意していたのだ、ある程度想像はついていたことだが、呑むし、喋る。宴会が楽しくて仕方がないと言ったふうだった。
ただ、宴会が楽しいというのは、龍驤流に言えば事実でこそあれ真実ではない。あいつは他者との交流が楽しくて、また仲間たちと喋り、食事をし、杯を酌み交わし、笑いあうことを悲願としていたのだから。
- 457: 2018/03/25(日) 23:40:01.06 ID:c0G7atQB0
- 「軽空母は大抵みんなああいう文化です。鳳翔さんは違いますが」
「まぁ軍人だからな。わからなくはない」
「提督のところも?」
「ま、そうだな」
記憶の霞に隠されて、寮の同室の名前も顔も、おぼろげではあるが。
「で、霧島、お前はどうした」
「少し早く目が覚めてしまって。勝手に帰るわけにもいきませんし」
「あぁ、いや、悪い。言葉選びを間違ったな」
そういうことではなく。
「俺に何の用だ?」
「……酒の席での、話ですか?」
「酒の席でする話じゃない、話だろう?」
大井も龍驤もこいつも、どうして揃って腹の探り合いに持ち込もうとするんだか。一度裏切られた人間なりの処世術なのかもしれないが、それで人間性を測りきれるほど、個人の底は浅くない。
お手並み拝見、という態度なのか。それともこちらがボロを出すのを待っているのか。単に引っ込み思案なだけか。
- 458: 2018/03/25(日) 23:40:38.95 ID:c0G7atQB0
- 「あと、一応確認したいんだが、お前は俺を尾行していたか?」
懸念は払拭しきれていないもので。
霧島は訝る表情をしていたが、それでも小首を傾げながら、「いえ」という返事。
なるほどね。
「別におまえの目的がなんであれ、俺がそれの一助になれるのなら、手を貸してやるよ。上から目線ってわけじゃねぇぞ、そこは勘違いしてくれるなよ?」
とっくに吸いきってしまったピースを、俺は揉んで携帯灰皿に押し込んだ。
「俺は死にたくないし、お前らを死なせたくもない。
俺は無念を残したくないし、お前に無念を残してほしくもない。
酸いも甘いも噛み分けた大人だっつー自信はねぇが、お前らの気持ちは共感できる。だから俺もこんなところにいる」
「……そうですか。提督も、何か理由がある身なんですね」
「……」
逡巡した。そして躊躇した。数秒後にやってきたのは驚愕だった。
俺は今、なにを言おうとした?
自らが鬼殺しであると、どうしてそんな自傷的な真似を。
- 459: 2018/03/25(日) 23:41:24.66 ID:c0G7atQB0
- ……それは打算的な面が多分にあった。それを伝えることにより、ほんの僅かでも霧島が俺を信頼してくれればよかった。虚像でも、俺が実力のある人間であると誤認してくれればよかった。
だが何よりもまず、彼女たちに対して誠実であるべきではないのか、と疑問が生まれたのだ。
言うべきだ。もし本当に霧島が俺を頼ってくれると言うのならば、事情を詳らかにしたうえで助力を願うというのならば、俺もそれなりの態度で臨まなければいけない。
それなのに、喉から言葉が出ていかない。気管に張り付いて、だんだんそれは溜まり、空気を塞ぐ。
息ができない。
まるで呪いのようじゃないか。
「提督、私はいずれ、トラックを出るつもりです」
俺の決意よりも、霧島の決意のほうが、先んじた。
幸か不幸か。
「勿論、全てが終わってから。現状を放ってはいけませんからね。そして、いずれは本土に戻りたいと思っています」
「……そうか」
- 460: 2018/03/25(日) 23:42:00.52 ID:c0G7atQB0
- それはある種当然の考えかもしれない。ここに骨を埋めようとするほうが少数派で、俺だってそうだし、漣もそうだろう。龍驤や最上、大井、そのほかみんなが全員日本の地をもう一度踏みたいと思っていないとは、どうしても考えづらい。
トラックが悪い場所だということではなく。そう、先ほど神通を見ながら思ったことだ。誰にだって家族がいる。置いてきたはずの親しい友人が。
それとも、誰もいない? 深海棲艦の侵攻で家族を喪った人間はあまりあるほどいたし、復讐心と生活の二軸を理由に海軍に所属する子女の例は、枚挙に暇がなかった。
父親の名を呼んでいた神通。存命なのか、そうでないのか。
「そうして、将来、指揮官の立場でまたトラックの地を踏みたいんです」
「……」
反応できず、反応に困る。
霧島の言っていることは、つまり、提督の立場を目指すということだった。
- 461: 2018/03/25(日) 23:43:21.46 ID:c0G7atQB0
- 艦娘が現れてから今まで、艦娘の提督は生まれていない。彼女たちは階級というシステムからは基本的に区分けされている。
理由は諸説あるが……反攻が怖いのではないか、と踏んでいた。
艦娘という存在は、現在に至ってもまだ、全国民からの承認を受けているとは言い難い。子女が徴兵されることへの抵抗。非科学的な艤装への疑問。深海棲艦と敵対することそのものへの問題提起。一般人は、気楽なものだ。それを守るのが俺たちの仕事であるとしても。
とはいえ不思議はなかった。医療、栄養学、電磁波など、統計的に正しいとされているものにたいして信頼を置かない人間は一定数いる。俺だって艦娘の艤装やらシステムやら、そういった神道にまつわる一切合財を全て頭から信じているかと問われれば、答えはノーだ。
前々回の選挙では、深海棲艦との友好的アプローチを試みることを公約に掲げた政党が、一気に議席を伸ばした。その公約が影響を与えたとも言いきれないが……。
障害は多かろう。しかしそれらを全て乗り越えた上で、霧島が指揮官の地位につけたとするならば、恐らく全国で初めての事例になるはずだ。
- 462: 2018/03/25(日) 23:43:54.71 ID:c0G7atQB0
- 「志が高いな」
俺はそう言うので精一杯だった。
「高くなんかありません。私は、権力の虜なんです」
霧島はすぐに「いや、虜囚かな?」と言い換えた。
「権力です。権力! あぁ、なんて素敵な響き! 権力があればなんだってできる! お金も手に入るし、安全は確保されるし、責任はもちろんあるでしょうけど、得られる利益に比べたら屁でもない!
――それに、どんな情報にだってアクセスできる!」
「情報」
「提督、私は」
気の振れたような大声とは一変、地を這う声音で霧島が俺を射抜く。
「何が、誰が、トラックの仲間を殺したのか。それを突き止めるまでは、死ねません。死ぬわけにはいかないんです。
どうして本土から助けは来なかったのか。上の立場になれば……言ってしまえば元帥まで上り詰めれば、きっと知ることができる。そうでしょう?
赤城が。龍驤が。58が最上が扶桑が夕張が鳳翔さんが大井が響が雪風が。……私が。なんで、どうして、こんなに苦しまなくてはいけないんですか? 死んでいった仲間たちは、どうして、一縷の希望に縋りながら沈んでいかなくてはならなかったんですか?」
- 463: 2018/03/25(日) 23:44:26.29 ID:c0G7atQB0
- 希望を持たせた罪は重い。
たとえ、誰もが援軍の到着など有り得ないと非情な現実を理解してなお、それでも最期の最期まで希望の灯を絶やすことはない。人間とはそう言う生き物だ。
生き物だった。
だからこそ、生きるのは時として拷問なのだ。
「それを知る権利がお前たちにはある、と」
「無論」
「そのために、俺に何をしてほしい? 俺になにができる?」
「全てが解決したら、私と一緒に本土に渡ってください。私は寡聞にも本土のことをよく知りません。派閥だとか、社会情勢だとか、勝ち馬がどこだとか。政治は得意です。目的のためならなんだってする覚悟はあります」
「議員秘書になれってか」
「端的に表現するならば」
「見る眼がない、と言わざるを得ねぇな」
「トラックを再興に導いた、名誉ある司令官の肩書が、そのときはあなたの両肩にあります。それだけではありません。唯一無二の情報もあるじゃないですか」
霧島はそう言って、地面と垂直にウインドウ、平行にタッチパネルを呼び出した。
静電容量方式を遥か過去のものにした、特異点的な技術。音もなく滑らかな動作で、動画が三本、ポップアップする。
- 464: 2018/03/25(日) 23:44:55.01 ID:c0G7atQB0
- そのうち二つは、俺も見たことがあった。暗夜の、新型、及びヲ級との戦闘の動画だった。違う角度から……恐らく撮影者が別。映っている人物から判断するに、最上と夕張のものだろう。
そしてもう一つは……視界の端が明るい。現地語による叫び声が時たま入る。視界はぶれていて、撮影者の荒い息遣い。三つの敵影。
扶桑のものだ。青い気炎も見える。残念ながら、北上と思しき敵の姿は闇に溶け込み、人物の同定には使えそうもなかった。
「魚雷を撃て、航空機も展開でき、砲戦にも十分対応できる新型。青い気炎の空母ヲ級。そして、北上に似た敵。データベースにあたっても、これらの深海棲艦は見つからなかった」
「俺も探したことはある」
「ならわかりませんか? 大本営でさえ情報を把握していない新型が、ここ、トラックの作戦海域にはいる。ならこの情報を手土産にしない理由はどこにもない。
倒した残骸は溶けて消えてしまうから、持ち帰って解析することは叶わないだろうけど、動画と戦闘詳報だけでも十分。斬りこむ材料にはなると思います」
- 465: 2018/03/25(日) 23:47:25.35 ID:c0G7atQB0
- その案はまったく悪い案だとは言い切れなかった。情報が生命線になるような状況は珍しくない。棲息海域が判明すれば、その海域を避けて通ることによって、商船などの被害も抑えられるだろう。
それが彼女の目指す地点に直結しているかどうかはひとまず置いておくとして、部署によっては喉から手が出るほど欲しいようにも思われた。
だが、そのためには課題がある。
「第一発見者じゃなけりゃ意味がねぇな」
「はい。鮮度が命です。後塵を拝せば、その時点でつけ入る隙はなくなります。可及的速やかに、本土とのある程度のコネクションを作らなければなりません」
そんなことはもう知っていると言われてしまえばおしまいだ。この場合速度は何よりも優先される。
「わかった。お前と一緒に日本に帰るかどうかは、今の俺にはその気はねぇし、俺自身の独断じゃ決められねぇっつーことだけ言っておく。だが、お前がそういう事情で動くなら、できる限りの手伝いはさせてもらう。漣の戦闘データを、今後は送ろう」
「ありがとうございます。夕張と一緒に分析しています。新型の便宜上の呼称は、レ級」
- 466: 2018/03/25(日) 23:47:54.35 ID:c0G7atQB0
- 「レ級」
戦艦、レ級、ね。
いや、あれは戦艦なのか?
と、そこで俺に通信が入った。漣だ。どうやら俺の居場所を探しているらしかった。外にいる、と端的に送る。
「どうかしましたか?」
「いや、うちの秘書艦だ。どこにいるのか、とさ」
「そろそろみんなが起き出す頃合いですか。わたしも戻ることにしますよ」
「あぁ、そうだな。頭が重てぇや」
「寝起きに煙草は辛いんじゃ?」
「逆だよ、逆」
「あー、ご主人様なにやってんですか!」
漣の呼ぶ声が聞こえた。あれだけ騒いでいたのに、随分とまぁ元気なものだ。充電はしっかりできたらしい。
酒に酔ったぼんくらな昨晩の姿でも教えてやろうと思ったが、背中を叩かれたことを想いだしてやめておいた。
「霧島さん、大丈夫でした? うちの提督が迷惑かけてなかったですか?」
おい。
- 467: 2018/03/25(日) 23:48:36.01 ID:c0G7atQB0
- 「大丈夫よ。ありがとう」
「もう二人とも、みんな待ってますよ。とりあえず明日以降の海域調査の割り当て、どうするか決めるんだって」
「ローラー作戦で海域を塗りつぶしていくんだろう?」
「そうですね。それだと、出没海域の推定も楽なはずなので」
歩き出す。待たせてしまったのなら、それは随分と申し訳ないことをした。
いつの間にか隣に並んで歩いていた漣が、俺の脇腹を肘でつついてくる。
「なんの話をしてたんですか」
「ん? まぁ、ちょいと同盟をな」
「え、本当ですか。同盟ウマー! さすがご主人様、やり手ktkrって感じですよ」
「お前の言葉はよくわからん」
「草」
「はぁ?」
「盛大に草生える」
よくわからないのは変わらなかった。とりあえず、足早に歩を進めることにする。
「あーん、待ってくださいよーう」
- 468: 2018/03/25(日) 23:49:36.19 ID:c0G7atQB0
- * * *
泊地を出るころには、既に日は落ちかけていた。
水平線にちょうど半分夕日が隠れている。空と海が同じだけ橙色に染まり、木々や砂浜も同様に染めていた。
今後の行動方針、また手段と海域については、ほぼ確定した。大井作成の地図はここでも大きな役割を果たし、本人は感謝されることをうざったそうにしていたが、あれはまんざらでもない表情だ。
とりあえず赤城のエリアは手を付けないことに決まった。レ級、及び北上らしき敵との邂逅が、独立海域であったこともあるが、それ以前に赤城へどういう対応をすればいいのか、判断が付きかねていたのだ。
北上が本人であってもそうでなくても、赤城は敵を殺すだろう。見境なく。それだけではなく、そいつが強大であればあるほど、喜んで探し出すだろう。そこでぶつかるのはできるだけ避けたい。
虱潰しに海域を探すローラー作戦。ひとまず一日おきに、俺と龍驤それぞれの部隊が交代で捜索にあたることとなった。
- 469: 2018/03/25(日) 23:50:03.40 ID:c0G7atQB0
- 遭遇しなければいつまでも仮初の平和、遭遇し打ち倒せば嵐の後の静けさ。であるならば、俺は後者を選択したい。
「それじゃ」
「ほなな」
龍驤、夕張、鳳翔さんが俺たちを見送ってくれた。夕張の大あくび。確かにいろいろありすぎて、こんな時間なのに眠気があるのは俺も同じだ。
夕日に向かって漣と歩く。港からの帰路に就く、トラックの現地民たちと何人かすれ違った。
「ご主人様、手、繋ぎましょ」
「……なんで?」
返事はなかった。漣が思い切り俺の手を握り、引っ張るので、思わずつんのめる。
相変わらず漣の手のひらは熱い。体温が高い。
- 470: 2018/03/25(日) 23:50:34.68 ID:c0G7atQB0
- 「クソデカ」
「手がか? そりゃ子供と比べたらなぁ」
「漣も、いつかこう、もっとでっかくなる?」
「身長はまだ伸びるだろう」
「おっぱいは?」
「そりゃしらねぇよ。っていうか、恥らえ」
恥らえ恥らえと人をばんばん叩きやがったのを、もう忘れたのかこいつは。
「えへへ」
何かが違う気がした。ただ、ツッコむ気力も最早ない。代わりに手を二度ほどぎゅ、ぎゅとしてみるが、漣はさらに顔を蕩けさせて「えへへへ」と笑うばかりだ。
- 471: 2018/03/25(日) 23:51:17.43 ID:c0G7atQB0
- 十分ほどで自分の部屋が見えてきた。長屋なのか、アパートなのか、正しい表現はわからない。集合住宅という言葉が一番しっくりくる。
俺が大きく欠伸をすると、つられて漣も欠伸をした。
「んじゃ、おやすみなさい」
と言っても隣なのだが、漣はばいばいと手を振り、扉を開く。俺もノブを握った。
「漣」
「なんですか?」
玄関の地面が濡れている。
「誰か、いるか?」
「誰か?」
ホルスターに手をかける。敵ではないだろうが……いや、敵ではないと思いたいが。
「撃たないで欲しい。驚かすつもりはないんだ」
建物の陰から小柄な人影が姿を現す。
「疲れているとは思うけど、少し時間を貰えないかい?」
夕日に照らされてもなお、銀色の立ち姿。
「話が、あるんだ」
駆逐艦、響がそこにいた。
- 480: 2018/03/29(木) 13:55:10.98 ID:HJ/jw2RC0
-
言うべきことはいくらでもあった。その上で、言うべき場所はここではない、と理性が語りかけている。立ち話で済ませていいことではない。外で大声で話せることでもない。
「漣」
俺は再度、秘書艦の名前を呼ぶ。
「来い」
「はい!」
「お前もだ、響。事情は部屋ン中で聞く。……全部教えてもらうぞ」
軍人は独立しているようで独立していない。個人としての人格まで否定されるわけではないが、集団を規律する規範、それを至上のものとして生活する生き物に訓練を通して変革される。
艦娘もその例に倣うはずだった。泊地、鎮首府の雰囲気は指揮する提督によるところも大きいが、それでも最低限度の「集団」という枠組みでの行動様式は必要不可欠。
だが、トラックはどうだ。どいつもこいつも、自分の生き様を貫いている。あるいは、貫こうともがいている。誰もこっちの都合なぞ知ったことではないとばかりに、言いたいことを言うだけ言いやがる。
- 481: 2018/03/29(木) 13:55:46.70 ID:HJ/jw2RC0
- やりたい放題やっている。
上等だ。
「付き合ってやるよ」
そこまでの生き様ならば、応えてやるのが筋というものだろう。
響を部屋に通す。砂浜には相応しくないローファーを脱ぐが、部屋の入口あたりできょろきょろしていた。居心地が悪そうだ。
「座っちゃっていいですよ、気にしなくて平気です」
漣が言うのはおかしいような気もしたが、事実そうだった。俺にお伺いを立てるように視線を向けてきたので、鷹揚と頷く。そこでようやく、硬いフローリングの上へ腰を下ろしたのだ。
座布団をくれてやる。それを下に敷き、幼い見た目には似合わないほど綺麗な正座で、響はかしこまった。
正座は苦手だ。胡坐で応対する。
- 482: 2018/03/29(木) 13:56:15.62 ID:HJ/jw2RC0
- 「響」
名前を呼ばれただけで響は肩を震わせた。まるで自らがした悪いことを咎められているかのように。
俺を尾行していたことを気にしているのか、もっと別の何かを早合点しているのか、それとも単にそういう性格なのか。現時点ではどれもがあり得る。俺はまだ、彼女のことをまるで知らないのだ。
「緊張しなくていい。俺はお前の味方だ」
「ご主人様の顔は怖いですからね」
漣が言いながら響の隣に座した。自分の方が年上だと踏んだのだろうか、少々物言いが先輩ぶっている。
「そうか?」
「考え込んでると、おでこに皺が寄るんだもん。それがなんか、すっごい怒ってるように見える」
そうだろうか。一度意識して、眉の付け根辺りを揉んでみる。
「ふっ」
笑い声の主は響だった。漣が「笑った!」とはしゃいでいる。
と、間髪入れずに秘匿通信。主番が未所属――未所属?
- 483: 2018/03/29(木) 13:56:45.37 ID:HJ/jw2RC0
- 漣が意味ありげな目配せをしてきた。……こいつか。確かに、俺は正式なトラックの提督になれてはいない。俺の直接の部下である漣も、ならば現状は無所属。
それにしても、なんだ? 一メートルも離れていない状態での秘匿通信。聞かれたくないというのなら、それは当然、響にだろう。もしかすると漣には何らかの心当たりがあるのかもしれない。ならば漣の響に対する態度にも合点がいく。
『どうした?』
『一応、釘を刺しておこうと思って。大丈夫だとは思いますけど。一応。
あんまり直截的な物言いは避けて、オブラートに包む感じでヨロ。漣が思うに、ご主人様、響ちゃんはいじめられてると思うんですよ』
『いじめ?』
『っていうとセンセーショナルですかね? 神通さんとこで、雪風ちゃんと、あんまりうまくいってないんじゃないかって。うまくいってなさそうだったなって、漣はそう思うわけです。
ここに響ちゃんが一人で来る理由がそもそもないっしょ? 神通さんからの伝書使でもなくて、自分の意志で尋ねてきたなら、きっと二人には頼れないことなんです』
- 484: 2018/03/29(木) 13:57:14.40 ID:HJ/jw2RC0
- 俺たちには頼れて、より親しいはずの二人には頼れない事柄。
親しければ親しいほうが、言いたいことをなんでも言える。それが明らかな間違いであることは俺にもわかる。しかし漣が言いたいのはそんな表面的なことではなく、さらに深部、なぜ俺たちを頼り、いや、俺たちを選んだのかという選定基準。
龍驤ではなく。霧島ではなく。最上ではなく。大井ではなく。
俺のところにきた、そのわけ。
親しくなければ親しくないほど、人間関係に起因したいざこざには巻き込まれ辛い。
漣はそう推論を立てたのだ。
「響、あまり喋るのは得意じゃないか?」
無理やりに聞き出すつもりはないが、相槌や率先した話題など、そういったものが欲しいならそう振舞うつもりはできていた。
響は体躯同様ちんまりと頷いた。帽子からさらさらした髪の毛がするする流れ落ちていく。
- 485: 2018/03/29(木) 13:57:48.15 ID:HJ/jw2RC0
- 「よし、漣任せた」
「ふぁっ!? そういうのはご主人様の仕事でしょー!」
「いや、年齢も近いほうが気兼ねなく話せると思ってだな」
半分は本当だった。もう半分も、嘘ではない。
漣のやつは直截的な物言いは避けろ、オブラートに包めと軽く言ってくれたが、そもそも見るからに物静かな少女を相手取る技量は俺にはないのだ。
漣だとか大井だとか、そういう小憎たらしいのが相手ならば気後れもしないのだが、目の前の響は小さく儚げで頼りない。華奢なものと面と向かうことの経験の浅さが露呈した瞬間だった。
『なっさけないなぁ』
『うるせぇ』
「響ちゃん? あたしは漣。こないだはお疲れ様、ありがとうね。おかげで助かったよ」
「別に。大したことはしてないよ」
「でも、きっと漣たちだけだったらまずいことになってた」
「それはみんなの力さ。私たちがどうとかじゃない」
「途中から凄い連携だったじゃん?」
「毎日訓練してるから」
「神通さんと雪風ちゃんと? 三人で?」
「……うん」
- 486: 2018/03/29(木) 13:58:15.65 ID:HJ/jw2RC0
- 響の表情が僅かに曇った。
『ktkr! ビンゴ、かな?』
秘匿通信を飛ばして、けれど漣の視線は相変わらず響に注がれている。
「どんな訓練してんの?」
「大体は深海棲艦を倒したり……あとは体捌き、とか。神通は武道をやっていたみたいだから」
「武道。へー! あ、でもそれっぽいかも。だからあんなに強いんだ」
「……うん、そうだね」
「なんか辛そうな顔してんね。なんかあった?」
何もなければ俺たちのもとへ赴くはずはなかった。詭弁と言えば、詭弁か。
響もそのニュアンスは感じ取ったらしい。びくり、体を震わせる。
怯えているわけではないようだ。決意……そう、決意と呼称して差し支えない何かを、自らの胸の内からなんとか捻りだそうとしているように見えた。
『自分に自信がないんだ』
それは秘匿通信を介したものではあったが、俺に伝える必要性に迫られた故のものではないように見えた。感傷深い漣のその評価が、あながち間違いであるとは思えない。俺を尾行しながらも、ここまで姿を現さなかったちぐはぐな行動が、全てを物語っている。
- 487: 2018/03/29(木) 13:59:04.16 ID:HJ/jw2RC0
- 「俺は席を外した方がいいか?」
「ご主人様?」
「子供が苦手とかじゃなくてな。大人で、男の俺がいると、気後れすることもあるだろう」
ことが本当にデリケートで、ナイーブな問題であればあるほど、決意が固まるには時間がかかる。
俺なんかはもうとっくにそのあたりの割り切り方は心得ているつもりだったし、年長者の艦娘もある程度は自制が効く。しかし響くらいの年齢にそれを求めるのは酷か。
「……いや、いい」
言葉の上では気丈に、響は言う。
「こんなところでさえ弱いままなら、一生強くなれない」
- 488: 2018/03/29(木) 13:59:55.23 ID:HJ/jw2RC0
- 「響ちゃん、無理はせずに」
「ありがとう、漣。だけど無理をしなくちゃいけないときくらい、わかってるつもりさ。だから大丈夫。あぁ、大丈夫だとも」
自らを奮い立たせる魔法の言葉。響は膝の上で拳を握りしめる。
「私を鍛えて欲しい」
「……」
漣が驚いた目で俺を見てくる。嘘でしょ、とか、ご主人様どうします、とか、たぶんそんなところ。
だがすぐに俺も返事はできない。ちょっと待て、今、考えているから……どいつもこいつも、俺を混乱させるようなことばかり言ってきやがる。
漣に言われたことを思いだし、眉根を揉んだ。皺が寄っていただろうか?
「神通は?」
真っ先に頭に浮かんだ言葉を率直に口に出してみる。
「お前は神通の……部下? 配下? 弟子? まぁそんなところだったはずだ。違うか?」
こくりと響は頷いた。先ほど響自身が答えていたことだ。毎日三人で訓練をしていると。
ならばどうして。
- 489: 2018/03/29(木) 14:00:25.84 ID:HJ/jw2RC0
- 「お前の申し出を聞いて、はいわかりました、っつーわけにゃいかねぇ。お前のことがどうだと言うより先に、納得があるべきだ。俺はそう思う」
納得は全てに優先する。全てが言いすぎだとしても、普遍的には。
俺たちは響の事情を知らない。彼女がどんな境遇にいて、どんな目的を持ち、なにを考え、どんな決意でここに臨んでいるのかを。そして俺たちになにを望んでいるのかを。
手を貸すことに否やはない。いや、もっと積極的に、相手が許すのならば俺たちは助けに行くつもりだった。利害は一致している。トラックの艦娘に与することは俺たちの目的を果たすことに繋がる。
だからこそ、だからこそ、だ。
「神通を蔑ろにするわけにもいかないしな。あっちに話は通してあるのか」
「……ないよ。全部、独断さ」
その判断の是非を問うつもりはなかった。響がそう考えた結果の行動なら、神通は彼女を責めることはしまい。だが、俺たちに対してはどうだろう。
せめて筋は通していたかった。神通の不興を買うことだけは避けたかった。
- 490: 2018/03/29(木) 14:01:03.48 ID:HJ/jw2RC0
- 俺たちの戦力が増えることを小躍りして喜ぶだけなら泥棒猫と同じである。神通も面白くないだろう。彼女に不義を働くことのないように、それが彼女たちでは成しえない何かであるのならば、手を貸すことも吝かではない。そういう姿勢でなくてはならない。
「……随分と雪風ちゃんにつらく当たられてましたね。もしかして、それが原因ですか」
一気に漣が切りこんでいった。性急すぎるように感じるが、漣なりの考えがあるのかもしれない。
だが、響ははっとして、大きな声で否定した。
「そんなことはない! 雪風はみんなのことを考えてるんだ! ……雪風も、神通も、強いから。私は足元にも及ばない。いつも足手まといになってばかりで」
「だから、鍛えて欲しい、と」
首肯。それも力強く。
意志の力を感じた。不可能を可能にする力。成功を手繰り寄せる力。
「神通じゃだめなのか。今更俺たちに鞍替えして、なにがしたい?」
- 491: 2018/03/29(木) 14:01:34.45 ID:HJ/jw2RC0
- 「ご主人様」
少し棘のある口調になってしまったかもしれない。漣が咎めるように口を挟んでくるが、許してほしい。そこを尋ねずして決断はできないのだ。
こいつは俺たちに何を見出した? 神通にはできず、俺たちにならばできること、そんなものはどこにある?
「鞍替えなんて、違うんだ。神通から離れるつもりはない。訓練だって続けていく。それとは別に、司令官、私を使ってくれないか。そういう話なんだ」
「ますます解せんな。二足の草鞋を穿いてどうする」
「……雪風に」
「勝ちたい?」
漣が後を継いだ。
「まさか!」
響が即応する。そんなことは有り得ない、という具合に。
「……私はだめなやつなんだ。臆病で、弱虫で、……なんで生き延びてしまったんだろう、こんな私が、なんで私が、もっと他に強かった人も、頼りになる人もたくさんいたのに、お母さんじゃくて、お父さんでもなくて、弟でもなくて、どうして私が! どうして!」
- 492: 2018/03/29(木) 14:02:14.86 ID:HJ/jw2RC0
- 両手で顔を覆い、ぼろぼろと響は大粒の涙をこぼす。話の辻褄が合っていない。自責……慙愧の念に駆られている。
俺は手を出せなかった。恐慌の源を知らずに、おいそれと声をかけることは憚られた。
「響ちゃん」
落ち着いてください、と言葉にはしないまでも、漣は柔らかく彼女を抱きしめる。
こちらを見た漣と目が合う。俺は頷いて、部屋を後にした。
外に出れば、既に夕焼けはその殆どを水平線の向こうに隠し、赤から紫へ変わりつつある空だけが残滓となっている。その光景に一抹の郷愁を覚えるが、今はそれどころではない。
煙草を咥えて火をつける。同時に大井を呼び出す。
『……何よ。私、今頭がガンガンして、辛いのだけれど』
『響の境遇を知っているか?』
『「どっちの」?』
大井の答えには大きな含みがあった。
- 493: 2018/03/29(木) 14:03:00.15 ID:HJ/jw2RC0
- 『駆逐艦である響のことならば、わかるわ。略歴をまとめたファイル、送ってあげる。艦娘である響のことは……ワケありということは察しているけれど、それ以上のことはなんにも。
……まぁ、艦娘なんて大概みんながワケありなのだけどね』
至極面白くなさそうに大井は自嘲した。
『響の過去のことなら、詳しい人が一人いるわ。識別番号の枝番教えてあげるから、連絡してはどうかしら』
『大井』
『なによ』
『事情を話してもいないのに、どうして手伝ってくれる』
『あら? 手伝ってほしくないのなら、初めからそう言えばいいのに』
『そういうわけじゃねぇ』
『わかってるわよ。冗談よ、それくらいわかりなさい。
理由は二つ。あなたには北上さんを探してもらわなければいけないから。扶桑の見たという敵が本当に彼女なのか、それともそうでないのか、判明するまで生きた心地がしないのよ』
- 494: 2018/03/29(木) 14:03:35.79 ID:HJ/jw2RC0
- その敵影が北上であればいいのか、それとも北上でなければいいのか、大井はどう思っているのだろう。
生きてさえいてくれればいいという考えもあるだろうし、敵側に寝返っているのならばいっそ、という考えもわかる。
いや、仮に北上本人だとしても、敵側に寝返ったというのは早合点が過ぎる。情報がまるでない状況で結論を急くのはいいことではない。
『……』
たっぷり思考の間が空いて、
『それだけよ』
と大井は言った。
理由は二つと言ったじゃないか。そんな追及を回避するためだろうか、すぐに大井からファイルが送られてくる。
駆逐艦響の略歴。そして、誰かの識別番号。
主番はトラック。枝番は028。
艦娘の名は、神通。
- 501: 2018/04/01(日) 00:02:35.36 ID:/yXGzkJu0
- 漣が部屋の扉から顔を出したのは、ショッピを一本吸い終わる、ちょうどその頃だった。
困ったような顔をしていたそいつは、すぐに俺の喫煙を見咎めて顔を険しくさせる。だが今はそんな時間も惜しく、結局何も言わずに俺を手招きして、
「地雷踏んだっぽいです」
と、それだけを手短に言った。
漣の言葉の意味するところ、所謂一つのスラングがわからないほどではない。実際のところ、地雷を踏んだのは俺たちではなく響自身だと思うのだが、そのあたりは言葉遊びに過ぎない。
艦娘を相手にするというのは、地雷原に足を踏み入れるに等しい。時には玉砕覚悟で突っ込まなければいけない場面もあるだろう。
もしそうなのだとしたら、今がその時であるような気がした。
「事情はわかったか?」
「ぜーんぜん。泣いちゃって、どうにも。ただ、やっぱりあれですね。自信喪失してます。ネガティブはいっちゃってるというか、自分にできることなんて何一つないんだーって」
- 502: 2018/04/01(日) 00:03:05.06 ID:/yXGzkJu0
- 「それが、俺たちに声をかけた理由だと思うか?」
「暫定的には」
今のところはそれくらいしか見当たりません。呟きながら、漣は部屋の中へと視線を一瞬戻した。響の様子が気になったのだろう。
「弱い自分を鍛えたいから神通さんに師事した。それだけじゃ足りないからご主人様からも学ぶ。わかりやすい話だとは思います」
「聊かわかりやすすぎるな」
「ご主人様がひねてるだけでは?」
そう言う漣も、その実自らの言葉をさして信じていないのだろう。笑いが自嘲気味だった。
「わかりやすい話、うまい話、世の中にはたくさんありますけど……大抵期待するだけ損です。楽にいかないかなぁって物事は厳しくて、心構えをして挑んだ物事が拍子抜けするほどあっさりいく。寧ろそっちのがありがちじゃないですか?」
「わかりやすさが担保することなんてありゃしねぇ、か」
「そもそも、それでおしまいの話なら、響ちゃんは泣いてないと思います。はじめから」
- 503: 2018/04/01(日) 00:03:36.70 ID:/yXGzkJu0
- 「何かが過去の琴線に触れたか」
「です。だから、地雷」
「お前は響の略歴を知っているか?」
「え? なんです急に。知らないですけど」
「嘗て存在した駆逐艦、響のほうは大井から資料を貰った。そして、艦娘である響の方は、神通が詳しいらしい」
「大ヒントですね。じゃあ、ご主人様は、神通さんにあたってください」
「今からかよ」
「早けりゃ早い方がいい。そうでしょ。あんまり猶予もないんだし」
それは確かにそうではあるが。
「お前は」
「流石にあの状態の響ちゃん置いてけないです。漣は漣で、うまく聞き出しますよ。
……しょーじき、強くなりたいってのは、漣にも少しだけ、ほーんのすこーしだけ、覚えがあるんです。だから、大丈夫」
- 504: 2018/04/01(日) 00:04:05.04 ID:/yXGzkJu0
- なにがどう大丈夫なのかはまるで説明がなかった。が、漣の言葉には、響と同様に決意が宿っている。どう転んでも今以上の悪い結果にはなるまい。
そこにあるのは打算より高潔な代物だ。崇高と言い換えてもいい。
誰かのために、心底何かをしてやりたいという感情こそが、他人の心を打つ。そうやってでしか解決できない事態がある。漣ならば十分すぎる。
「任せた」
「任せられましたっ」
敬礼。似合わねぇ。
「んじゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃーい」
夜の帳が落ちる中を、俺は家を背に歩き出した。
時間に余裕はない。猶予はない。漣の言った通り。
自然と足が早まる。焦ってはだめだとその都度自分に言い聞かせながら、それでも可能な限りのマルチタスク。駆逐艦響の略歴を開く。
同時に、神通の識別番号を検索欄に挿入。通信を試みる。
……コールが5を超えたところで一度切った。
- 505: 2018/04/01(日) 00:05:00.21 ID:/yXGzkJu0
- 慌ててもいいことはない。話す内容、順番、そもそも切り出しすら用意せずにぶっつけ本番? 阿呆の所業だ。
わかっていながらも気持ちは急く。理由なんて確たるものなどありゃしなかった。ただ、嫌な予感がした。それだけだ。
女の涙が苦手だと言ったら、漣は笑うだろうか。大井は皮肉の一つでも拵えるだろうか。龍驤なんて転げまわるかもしれない。
妹も姉もいなかった。従姉妹もいない。
父親と、母親と、兄が俺の家族だった。
だが、三人も、最早俺にはいないのだ。
駆逐艦響の略歴は別ウインドウに展開。おおよそ用紙3枚分……。
大井、あいつはこの分量を、あの一瞬で書き上げたのか? それとも趣味の一環でまとめてあっただけなのか?
どちらにせよ、今は感謝してもしきれない。
トラックの人通りは、夜になると一際少ない。メインストリートで露店や屋台がぽつんぽつんとある程度だ。そのうちの一件、屋台で飲み物を買おうとして、俺はチューク語を話せないことを思いだした。身振り手振りでなんとか炭酸水を手に入れる。
数セントの釣りをもらい、足早にその場を去る。瓶の蓋は屋台の青年が抜いてくれた。口に含めば、ぱちぱち、かちかち、細かな気泡の弾ける音が響く。
- 506: 2018/04/01(日) 00:05:31.65 ID:/yXGzkJu0
- 駆逐艦響とは。一九三三年、舞鶴にて竣工――読み飛ばす。知りたいのはそこではない。
神様にも意識というものが、あるいは趣向というものが存在するらしく、艦娘に選ばれるのにはそれなりの素養がある。最たるものが、あの大井だろう。選ばれるべくして大井に選ばれたあの女の理由は、心臓に欠陥を抱えているから。
艦娘全てに当てはまることだとは思わない。全ての大井に心臓の欠陥があるという話は荒唐無稽に過ぎる。だが、親和が強ければ強いほど、近い神が降りてくるという論理には整合性はあった。説得力もあった。
響は――あの銀色の少女は、果たして選ばれるべくして選ばれたのだろうか。もしそうなのだとすれば、駆逐艦響を知ることは、間接的にあいつを知ることにもつながる。
どのみち響の件で神通には一度会わねばならない。遅いか速いかの違いしかそこにはない。
- 507: 2018/04/01(日) 00:07:05.06 ID:/yXGzkJu0
- 第六駆逐隊の結成。「雷」「電」「暁」。キスカ島攻略。「暁」の撃沈。そしてまたキスカ。「雷」の消失。「電」の死。
レイテ。
坊ノ岬。
賠償艦。
幸運艦。
飲み終わったラムネの瓶を投げ捨てた。割れて、砕けて、散らばる。
早足は既に小走りを超え、全力疾走に変わっていた。景色が流れる。ウインドウは俺についてくる。戦争を生き延びた船の歴史を見せつけてくる。そこに記載されているのは事実であって、真実ではない。
戦争を生き延びてしまった船の歴史がそこにある。
沈み損なった船の歴史がそこにある。
認めるわけにはいかなかった。生より死が栄誉なのだとしたら、この世の生物はみな息絶える。だから俺は龍驤の、夕張の、鳳翔さんの、幸せの中で死ねるならばそれでもいいという言論に賛同できなかったのだ。
俺は走る。選ばれるべくして選ばれていないでくれと、切に願って。
神通がどこにいるかもわからないままに。
- 508: 2018/04/01(日) 00:07:30.39 ID:/yXGzkJu0
- 『提督? 私に連絡を――』
その折り返しは値千金。一拍も置かずに俺は叫ぶ。
『神通ッ! 響のことを教えろっ!』
話術も交渉術も意味がなかった。いま考えるべきは、最悪のパターンだけだった。
『え、あの、一体なにが? あのコが、何を』
神通の戸惑い。俺は無性にそれに腹が立って仕方がなかった。
だってそうだろう。神通も、雪風も、響のすぐ近くにいたのだ。いたのに、こいつらはなにをしていた。傍観者を気取っていたのか、個人の領域に不可侵を決めていたのかはわからない。わからないがしかし!
息が上がって走れなかった。肺が酸素を求めるままに、俺は脚を止めて呼吸に専念する。
『……響が、俺のところにきた。理由は知らん。知らんが……泣いていた。泣いていたんだ』
『響が……?』
『強くなりたいだとか、どうして私が、だとか、そんなことを言っていた。神通、正直に答えて欲しい。お前は響の過去に何があったか知っているか?』
- 509: 2018/04/01(日) 00:08:07.28 ID:/yXGzkJu0
- 『……』
『神通、頼む。お願いだ、答えてくれ』
神通の無言はあまりにも雄弁だった。彼女は、知っている。その上で答えない。響を慮っての判断なのか、それとも言葉にできないほど凄絶な過去があるのか。
『響は生き残ってしまったのか?』
物に感情があるのなら、本懐とはなんだろうか。誰にも使われぬままに壊れ、捨てられることを、恐らくはよしとしないだろう。
軍艦ならば? それは、敵を打ち倒すことだ。だから艦娘は海に降り立てる。在りし日の艦の幻影を背負って、化け物と戦える。
響は。
『……二度』
回線から聞こえる神通の声が暗闇に呑まれていたのは、きっと聞き間違いではない。
『二度、あの子は……あの子だけが、生き残りました。
艦娘になる前に一度。なってからも、一度』
『神通、お前はどこにいる? 話を聞きたい』
『海の上ですよ。提督には、遠すぎます』
- 510: 2018/04/01(日) 00:09:03.94 ID:/yXGzkJu0
- 断絶を感じた。距離が一メートルでも、決して辿り着けないだろう位置に、いま神通はいる。
なぜだ。どうして神通、お前までも曇る。響を助けようとしないお前が、響の境遇に思いを馳せるのは、ダブルスタンダードではないのか。
『今、どこにおられますか』
どこ? どこ、と言われても。
俺には土地勘がない。辺りを見回すが、海と岩場、桟橋、小屋、エンジンつきのボートがあるくらいで、他には何も。
いや、何かの名前らしきものが書いてあった。俺はそれを読み上げる。
『そう、ですか。
そこにボートがあるでしょう? それは島民の共用ボートです。小屋の中にエンジンのキーがあるはずで、小屋自体に鍵はかかってはおりません』
神通が何を言わんとしているのか、さっぱりだった。しかし、俺はなぜか、誘われるように小屋の扉を軽く押す。
重たい、軋む音とは裏腹に、扉はあっさりと手前に開いた。
丸い木製の椅子が数脚、テーブルが一つ。網やポリタンクや、漁に使うと思しき道具。どうやらここは休憩小屋らしい。
壁に鍵がかかっている。フックは四つだったが、鍵は一つしかない。
- 511: 2018/04/01(日) 00:09:31.42 ID:/yXGzkJu0
- 『こちらへ来ますか? 来られますか? その覚悟が、おありですか?』
覚悟。なんの? 決まっている、響を助けるという覚悟だ。
否。助けるのではない。救うのだ。
言葉遊びと笑うだろうか? 「助ける」は現状の打破に手を貸すこと。一方「救う」は根源からの解放を意味している。
『強くなければ生きてはいけません。弱い艦娘はみな沈みました。響は……雪風もそうですが、強くなろうとしています。私になら、彼女たちを強くしてやれる。戦いで命を落とさない程度には、屈強な兵士にしてやれる。
あなたは私ではだめなのです。私は二人もいりません。こんな人間、一人ですら多いくらい』
嫌悪の情がそこにはあった。俺に対してではない。勿論、響に対してでも、雪風に対してでもないだろう。
必然、対象は一人に絞られる。
「……」
が、俺は置いてけぼりだった。
『だから』
- 512: 2018/04/01(日) 00:10:25.51 ID:/yXGzkJu0
- 背後から首筋を掴まれた。反射的に腕で振り払おうとするが、まるで小動物のように軽快に、ソイツはぴったり俺の背後についてくる。
思わずホルスターに手が伸びる。それを予期していたかのように、襲撃者は巧みにこちらの脚を払い、体勢を崩してくる。
膝が木の床に激突した。四つん這いのかたち。これはまずい、と突っ張った腕をさらに払われ、顔面から再度床に激突。
勢いをつけてせめて仰向けになろうと転がるも、肩を掴まれて強引に逆側へ。ごりり、関節と腱が痛めつけられる感覚。硬い骨が俺の頸椎にあてられ――恐らく膝だろう――脅しのように体重がかけられた。
多少の圧迫でも、神経に障っているのか酷く痛んだ。この時点で抵抗するのは止め、大人しくする。
「しぃ、れぇ、いぃ?」
『まずは、雪風の許可が下りるかどうかです』
ぎらぎらと輝く瞳を限界まで開き、雪風が俺を見下していた。
親の仇にでもなった気分だった。
- 519: 2018/04/04(水) 01:23:03.98 ID:Lhwhz8/t0
- 吐息が首筋にかかる。はぁはぁと荒く、熱い。髪の毛の匂いを嗅いでいるように思えたが、まさかそんなことはするまいという理性が、直感を打ち消す。ならば雪風が何をしているのかと問われても、返答に窮するばかりであった。
雪風の姿は俺の視界から消えている。必死に首を捻っても、彼女の顔は範囲に入らない。ワンピースのかたちに仕立てられたセーラー服の端が、暗い小屋の中にあって、唯一月光を反射して白く見えた。
『神通、こいつはお前のさしがねか』
『えぇ。騙すかたちになってしまったことは、申し訳なく思います。ですが衒いはありません。私は二人もいらないのです。
提督の逸話は知っております。ですが、人となりを知っているわけではありません。雪風が話をしたいと申し出まして、それを快諾しました』
響の行動は、本人も言っていたように独断だ。神通も知らなかった。あの驚きは演技ではない。
俺の居場所を答えさせた、あのやり取りこそが罠。居場所にあたりをつけた神通は、俺をこの小屋へと誘い込み、そして雪風を向かわせたのだ。
- 520: 2018/04/04(水) 01:23:34.19 ID:Lhwhz8/t0
- 信頼されていないことへの悲観や落胆はなかった。そりゃそうだ、と案外自分でも驚くほどにあっけらかんとしている。敵対することへの覚悟は初めからある。真摯に対応するだけだ。
「司令、雪風とお話しましょうよ。神通さんとじゃなくって」
頭上から言葉が振ってくる。年齢相応に黄色く、そして怖気がよだつほどに冷たい。
「拷問吏みてぇだな」
「ごーもんり? なんですか、それ」
伝わらなかったらしい。俺はとりあえず口を噤むことにする。
「雪風がその、ごーもんり? だって言うのなら、司令は笛吹男ですね。いや、奴隷商人かな?」
「冗談はよせ。人事にゃ俺は関わってねぇ」
艦娘を戦地に連れていくのは俺の仕事ではない。艦娘となる素体を選び出すのも、また然り。こちとら一介の兵隊に過ぎないのだ。
だが、雪風の言葉にはしっかとした断定があった。俺のことを知っていて、俺がそうであると知っていて、発言している。単なる決めつけではない、裏付けによる確信が、雪風にはあるように感じられた。
- 521: 2018/04/04(水) 01:24:02.66 ID:Lhwhz8/t0
- 「響か」
選択肢はそれしかなかった。
「そうですね、それもですね」
「それも?」
まるで解せない返答に、顔が渋る。
「司令は響をどうしたいの? あんな弱っちいこ。なまっちょろいこ。どう鍛えたって使い物にならない。雪風は知ってるんです。ずっと一緒にいたから。ずっと見てきたから。
神通さんが頑張って強くしようとしてますけど、でもだめ。ぜーんぜんだめ。
ね、司令。司令は響をどうしたいの? 響に何をしてほしいの? 司令の目的のために、本当に響は必要なの? 一時の感情で、響が可哀そうだからって、なんとか一人で立たせてあげたいなんて傲慢な考えを持ってるんじゃないの?」
ごりごりと頸椎が膝で押し込まれる。雪風の体重は随分と軽かったが、それでも急所を抑えられているという緊張は、抵抗の意を削ぐには十分すぎた。
なぜ。どうして。なんのために。そう問われると、実に難しい。泣いていたから。そう答えるのが最も正しく、そして最も不正解に近い。少なくとも雪風は納得しないだろう。
とはいえ、彼女が望む答えをするのが俺の役割ではなかった。俺が俺であらんと志向しなければ、全ての行いに意味は生まれない。
- 522: 2018/04/04(水) 01:24:29.55 ID:Lhwhz8/t0
- 「……あいつは、泣いていた」
結局、正直に答えることにした。
「だからだ」
「だから? 答えになってなくない?」
「俺はこの島に、泊地を再興するために来た。これから先、トラックはいくつもの被害に見舞われるだろう。対策をうたねぇと全員死ぬ。島民も、艦娘も、俺もだ」
「そのために響の力も必要になるときが来る?」
「あいつが自信を持って生きていくためにだ」
「そうやって!」
一層頸椎に体重が込められた。激痛。頭から背中を通って四肢の末端まで走る電撃。
俺はついに堪え難くなって、雪風ごと体を捩じって脱出した。雪風が尻もちをつく。断続的な痛みが残る中、暗闇に慣れた視界は少女の姿を鮮明に捉える。
雪風は四肢を地面につけ、獣のような姿勢をとっている。真っ直ぐに俺を見据え、今にでも飛びかからんと、好機を窺っているようにも見えた。
「……お姉ちゃんも殺したんだ」
- 523: 2018/04/04(水) 01:24:57.03 ID:Lhwhz8/t0
- 「お姉ちゃん?」
予想外の単語に反応が遅れる。雪風はその一瞬の隙をついて俺に切迫。鳩尾へと爪先を叩き込む。
肺腑が痙攣、空気が俺の意志とは裏腹に吐き出される。吸えない。引き攣った横隔膜はまるで役に立たない。一拍置いて猛烈な気持ち悪さがこみ上げてきたが、根性でなんとか胃の内容物を堪え、追撃の構えをとる雪風の両手首を掴んだ。
視界の四隅の色がおかしい。集中していなければ昏倒してしまいそうだ。
雪風は勢いのまま俺を床に押し倒した。先ほどと違うのは、お互いが向き合っているというその状況。
「比叡のお姉ちゃんも、そういう理由を作り上げて、逃げられない状況に追い込んで、殺した。そうでしょ?」
鋭い刃が俺の心を突き刺した。本当はもっと考えるべきことがあるはずなのに、俺の心は既に俺の制御下から離れ、嵐の中の小舟に等しい。
感情が駆け巡る。怒りで全てが赤い。ただし、その怒りが果たして誰に向けられているのか、俺にはわからないのだ。
そうじゃない、違うんだ、と叫びたかった。
- 524: 2018/04/04(水) 01:25:27.42 ID:Lhwhz8/t0
- 「お前、施設の……?」
雪風の瞳が涙を湛えているのが、この距離だとはっきりわかった。
「そうです。雪風も、舞鶴ひかり園の出身。お姉ちゃんは……艦娘になってからも、よく遊びに来てくれてました」
舞鶴ひかり園。俺も何度か、訪ねたことがあった。
孤児院。特に、現代においては、非常に腹立たしいことではあるが、そこは艦娘の素体を見繕うに最適の場所だった。だから雪風が施設出身であることに別段驚きはない。
驚きがあるのは、こいつが比叡と旧知の仲であったという点に尽きる。
比叡が施設の出身であることは、彼女が沈んでから初めて知った。あまり語りたくない事柄だったことは察しが付く。詳細は知らないが、両親からのネグレクトが原因であったと、第三者からの余計なお世話で教えてもらった。
舞鶴ひかり園自体は中規模の施設だが、それでもまさかこのトラックで、あそこ出身の艦娘に出会うことになるとは。
ならば、雪風の言葉の裏にある確信、それにも納得がいく。
- 525: 2018/04/04(水) 01:25:55.43 ID:Lhwhz8/t0
- 「比叡のお姉ちゃんは、どんなに忙しくっても、三か月に一度はみんなに会いに来てくれました。その日は決まって御馳走です。だけど、それももうない。
園長先生は言ってました。お姉ちゃんは兵隊さんに連れていかれたんだって」
それは事実であって真実ではなかった。俺は知っている。比叡がどんな気持ちで艦娘になり、どんな気持ちで敵と戦い、どんな気持ちで施設の子供たちに手紙を書き、どんな気持ちで我が家に戻っていったかを。
だが、今の俺に、雪風にそのことを伝える権利があるとは到底思えなかった。
比叡を殺したのは俺だった。違う、俺じゃない。だが、指示を出した。そうだ。だから責任は俺にある。責任という言葉でくくれるほど簡単な話ではない。目的があったから。誰かのために。何かのために。
トラックの艦娘たちのように。
- 526: 2018/04/04(水) 01:26:29.47 ID:Lhwhz8/t0
- 「違うんだ。違うんだ、雪風」
その弱弱しい声が自分のものだと、どうすれば信じられるだろう。俺はもう決定的に参ってしまった。致命的に虚脱してしまった。
それでも、ただひとつ違えてはならないことがあるのだとすれば、雪風には……比叡を知っている彼女には、比叡の意志を知っていてもらいたいというその想い。沈めた俺に権利があるとも思えないが、それでも俺は、そこだけは、一度たりとも揺らいだことはない。
俺はそのために生きてきたから。
生きているから。
「俺は立派な人間じゃない。比叡だってそうだ」
誰も彼もが俺たちを被膜で覆った。その被膜には、美辞麗句が書かれていたり、逆に罵詈雑言が書かれていたりする。
結局自分たちが見たいと思った、信じたいと思った像を、その膜へと投影しているにすぎないのだ。映し出されているのは俺たちの偽物。都合のいいように解釈され、孤独に踊る操り人形。
- 527: 2018/04/04(水) 01:26:57.62 ID:Lhwhz8/t0
- 「お姉ちゃんの悪口を言うなっ!」
きっと雪風も、優しく、頼りがいのある、姉としての比叡を誇りに思っている。俺の犠牲になって死んだ姉の存在を、心の支えにして生きている。
くらくらする頭の中で、頬に暖かいものが滴った。許容量を超えた雪風の涙。
怒りのため。それとも、悲しみのため。理由の出処のわからない涙が、一滴、二滴と数を増やし、俺の顔や首元に零れ落ちていく。
「なにしにきたんですか。なんでここに来たんですか。響をどうしたいんですかっ。雪風たちをどうしたいんですか!」
なぜ。どうして。なにをしに。
愚問だった。そう任命されたからだ。燻っていた俺は、厄介者だった。各地が俺を押し付け合う。流れ流れたその最果てが、ここ、トラック。
ただ、全てにおいて意気消沈していたわけでもない。人死には少ないに越したことはない。精一杯、いまを生きる少女たちの姿を、支えてやりたくならないわけがない。
- 528: 2018/04/04(水) 01:27:24.24 ID:Lhwhz8/t0
- 響が何を考え、決意し、涙したのか、真実は遠い闇の中にある。
だがしかし、神通は確かに零した。二度、生き延びた。艦娘になる前に一度、艦娘になてからも、一度。
駆逐艦響との親和性。
「響は戦いたがってる」
「『戦いたがってる』!? はっ、くだらない! 司令、そんなのはちっとも面白くないです! あんな弱っちいのがいたって、ちっとも足しにならないですから!
戦場に私情を持ち込まないでください! そんな我儘で首を突っ込まれて、足手まといになって、被害が拡大したらどうするつもりですか! 人死にの責任をどうやってとるつもりですか!?」
「人死にの責任をとろうとしているのは響のほうだ」
「そうです! あいつ、本当に馬鹿で、馬鹿すぎて、馬鹿なんだから! だから戦いたがる! これまで生き残ってきたのなんて、実力じゃなくて、ただ運がよかっただけのくせに!」
雪風は俺に叫んでいるようで、その実虚空に叫んでいた。虚空の向こう側にいる響か、でなければ神様とやらに悪罵を叩きつけていた。
- 529: 2018/04/04(水) 01:27:50.17 ID:Lhwhz8/t0
- 「実力を弁えてない人間は屑です、ゴミです! そんな低い意識で立つ場所ではないんです、戦場ってのは! 一秒後に死んでるかもしれないのに、それでもいいだなんて思いながら生きるのは、生への冒涜じゃないですか!」
「強くなって、誰かを守って、それで死ねたら」
それでもいい。響はそう言うに違いない。
「ばっかじゃないの!」
「あぁそうだ、大馬鹿だ」
「だから嫌い、響なんて大ッ嫌い! むかつく、むかつく!」
「俺があいつを死なせやしない」
「できっこない! 勇気と無謀を履き違えたやつは、守った相手と一緒に沈むのがオチです!」
「でも、響は誰かを守ることさえできなかったんじゃないのか」
「そうですよ! でも、誰かを守るってのは、誰かを守る力がある人間に許された特権なんです! あいつに軽々しく与えていいもんじゃ、ない!」
- 530: 2018/04/04(水) 01:28:18.89 ID:Lhwhz8/t0
- 「雪風」
肩を掴む。細く、薄い。少しでも力を入れてしまえば、軽く折れてしまいそうなほどに、雪風は少女然としていた。
「守るものがある人間は強い。鬼でも、殺せる」
目を見開く雪風。
「それは、それはっ! ……比叡、お姉ちゃんの、ことですか」
「そうだ」
「でも司令は知らないからっ! トラックのことを、響のことを、だからそんなことが言えるんです、無責任なことが!」
無責任なこと。
無知ゆえの。
あぁ、だめだ、と思った。これはだめだ。よくない。通り越して、まずい。
雪風は悪くない。欠片も落ち度はない。確かに俺は響のことなどまるで知らないし、トラックのことだって、知っていることは僅かだ。それでも雪風の言葉は俺の心をはっきり大きく揺さぶった。
ぐわんぐわんと心が揺れる。心の臓を流れる血液が燃えている。不満と苛立ちが蜷局を巻き、うねり、猛っている。
- 531: 2018/04/04(水) 01:28:45.99 ID:Lhwhz8/t0
- そうだ。俺は嘘をついていた。
自分で自分を騙そうとしていた。
否。騙せていたのだ、いまのいままでは。
俺がトラックに来た理由。
流されてきたのはその通りだ。紛うことのない事実。厄介者と疎まれていたのも、いっそ死んでくれとさえ思われていることも。
だが、俺はトラックに、希望を胸の内に宿して――巧妙に隠して、やってきていた。
誰にも気づかれないように。
自分にもわからないように。
暴いたのは、雪風、お前だ。
- 532: 2018/04/04(水) 01:29:16.98 ID:Lhwhz8/t0
- 「ならお前はっ!」
視界が歪む。泣いている? まさかそんな、有り得ない。
「俺のことを、比叡のことを、一体どんだけ知っているっていうんだよ!」
俺はこの島に、
「比叡が何を思って戦いに赴き、どんな気持ちで沈んでいったのか、あの時そこにいなかったやつらが何をわかってるって!?
俺が誰を守りたくて、どんな思いであいつに指示を出したのか、どうして後からやってきたやつらが物知り顔で批評できるっていうんだ!?」
自分が生きていてもいい理由を探しにやってきたのだ。
「どいつもこいつも、俺たちのことを何一つ知らないくせに、あのとき起こったことを何一つわからないくせに、さも全知全能ぶってしゃべくりやがる! 鬼殺しだ、英雄だ、無謀な指揮官だ、人殺しだ、ふざけんじゃねぇ!」
- 533: 2018/04/04(水) 01:30:03.31 ID:Lhwhz8/t0
- 「……司令。司令は、あの」
雪風が言葉を紡ごうとしているが、その先の内容に微塵も興味はなかった。
肩から手を外し、十本の指先を見た。
あの日、比叡と触れあった、指の先を。
「それなら、俺は、俺が、俺の、……」
俺たちを見る全ての人間が、被膜を通して、そいつらが見たいように俺たちのことを見るというのなら。
「俺たちがしたことには、一体なんの意味が……?」
もしそうなのだとすれば。
俺もあのとき、比叡と一緒に沈んでいればよかったのだ。
- 541: 2018/04/08(日) 23:42:49.35 ID:gjD6HFLS0
- 天気予報は、ピークで三十五度を超えると伝えていた。
発艦直前の船上は非常に慌ただしい。計器異常なし。総員配置。上官の声がひっきりなしに響いて、俺も足早に準備をこなしていく。
俺が士官した最初の頃よりもチェックは厳重だ。ルーチンが変わり、それがまだ身に沁みついていないからこその喧噪。早く慣れないとだめだ。毎回毎回これでは精神に悪い。
係留ロープが外される。スクリューが回転。バルバスバウが海水を押し分け、潮風の中をゆっくりと、だが確実に進みだす。
ある程度沖に出るまでは緊張が持続する。何かあるとすれば、出発直後のこのタイミングが一番多いことを、俺は大して長くもない在籍歴からでも経験則的に理解していた。大抵は杞憂に終わるのであるが。
とはいえ、十回に一回の、あるいは百回に一回のそれが今起こらないとは限らない。油断や慢心が許される職務ではないことは重々承知しているつもりだ。
三十分ほども海の上を進んでいくと、緊張も次第にほぐれだす。船は自動操舵に切り替わっただろう。横浜の近海はまだ平和だ。四国沖まで出ると、怪しい。勿論何もなければそれに越したことはないのだが。
- 542: 2018/04/08(日) 23:43:29.10 ID:gjD6HFLS0
- 丸い窓から外を見ると、既に陸地は見えなくなっていて、少し離れた位置に護衛対象のタンカーがあるのがわかった。
俺の任務は、油を運ぶタンカーの護衛だった。この艦には機銃や砲塔が備え付けられてあり、俺たちも緊急の際には89式小銃を手に取って戦うこととなる。急増艦一隻の装備としては一般的だろう。
「おい、見たか?」
仲間が一人声をかけてきた。俺は「いーや」と短く答える。
「今まで見たことあるか?」
「いや、ねぇな」
「どうなんだろうな」
「どうなんだってのは、どういうこっちゃ」
「だから、本当に人間が、海の上を走れんのかって話だよ」
「水の上に踏み出すだろ? で、足が沈むよりも先に反対の脚を踏み出すとだな」
「くだらねぇこと言ってんじゃねーよ」
あっさりと言われてしまった。確かにくだらない話ではあったが。
- 543: 2018/04/08(日) 23:43:56.54 ID:gjD6HFLS0
- 「近海の掃海作戦も大方の目途がついてきたってよ。新聞、読んだか? 俺たちが会ったことねぇだけで、そこそこの数はいるらしいが」
「そらそうだけどさ。百聞は一見にしかずって言うだろ。今も船の後ろついてきてのかな?」
仲間は窓の外へと視線を走らせる。当然、誰もいない。
「客室にいるらしいぞ」
「マジか。誰情報?」
「誰っていうか、出発前に。三尉やら一尉が客室のとこに集まってた。広報官もいたな」
「じゃあ本当にいるんだ、艦娘」
仲間が興奮した語り口で喋れば喋るほど、俺はどこか醒めた目で、そんな彼を見ることになる。
艦娘。それは科学とオカルトの相の子であり、日本にとっての輝かしい希望の光だった。一縷の望みだった。俺たちの仲間であり、俺たちにとって代わる存在であり、……得体のしれない何かでもあった。
- 544: 2018/04/08(日) 23:44:56.21 ID:gjD6HFLS0
- 正体不明の化け物が漁船や客船を襲っているという情報は、かねてから海上保安庁に連絡があったという。しかし当然、そんな情報をはいそうですかと信じる海保ではない。
ただ、船の不可思議な沈没や有り得ない座礁などの件数の上昇が、統計的に有意な値を示すようになった頃、ついに海保も事態の究明へと乗り出した。
鯨か、あるいは他国の密航船か。原因は最初こそそう思われていたが、半年もしないうちに撮影された現場の映像には、到底これまで確認されたことも無いような生物が映りこんでいた。
海洋哺乳類でないことは明らか。だが、頭足類でもない。船であるはずなどない。
ならばそいつらは何なのか。高名な学者が何人集まっても、結論を導き出すことはできなかった。ただ、どうやら積極的に船を襲っているらしいということは判断できた。即ち意思がある。知的生命体なのだ。
仮称・巨大海洋未確認生命体。いまでは深海棲艦と名を変えたそいつらは、今や日本の近海を中心に、我が物顔で闊歩している。
- 545: 2018/04/08(日) 23:45:29.59 ID:gjD6HFLS0
- 俺が海軍へと志願し、一通りのカリキュラムを習熟し、一平卒として任官したのはちょうど深海棲艦の存在が世間へと公表されたまさにその年。
その時点で既に海のルートによる交易は難しくなっており、銃も爆弾も効かない謎の存在に対し、人間は決定打を模索していた。対抗策を開発していた。俺は俺で、当時は二十の小僧だったから、日本を深海棲艦の脅威から守ってやるぞと奮起したものだった。
新人は一年から二年、各地の様々な部署を転々とし、経験を積むことがならわしとなっている。整備や情報通信系には回されなかったものの、兵站、広報、人事と渡り歩いたのち、護衛艦の乗船が決まった。
随伴護衛艦「ひえい」。航続距離と最高速度、旋回半径を重視した取り回しの効く設計になっており、同名「ひえい」としては四代目、らしい。
主な任務はインド洋を経由する商船や大型漁船の護衛。深海棲艦の出没はシーレーンの封鎖、でなくとも大幅な効率悪化を招いており、政治的経済的に大打撃を与えた。空輸では輸送の量に限界がある。海運に頼らなければいけないのが現状だ。
- 546: 2018/04/08(日) 23:46:09.54 ID:gjD6HFLS0
- 深海棲艦と交戦したことは二度や三度では済まなかった。イ級と呼称される、最も格下らしき敵だとしても、機銃掃射や誘導弾を難なく耐える。数匹を沈めるのに三十分と弾幕を張り続けてようやくと言った具合なのだ。
それは別段「ひえい」が急増艦で機銃や砲塔の口径が小さいが故というわけでなく、俄かに信じがたいことであったが、どうやらやつらは俺たちとは異なる物理法則の中を生きているようなのだった。
眉唾だ。俺はそんなもの、与太話と笑い飛ばしてやりたかった。しかし実際に相対するたびに、その認識を覆されてしまう。
だから、上層部が、対深海棲艦特攻を持つ兵器の――そうだ、あいつらは確かに兵器と呼んだのだ――開発に成功したと発表したとき、世間は沸き立った。俺だってそうだ。さすがと思ったものだ。
それがあんな、埒外なものだと知るまでは。
- 547: 2018/04/08(日) 23:46:41.57 ID:gjD6HFLS0
- 「艦娘って女の子なんだろ? かわいい子だったらいいよなぁ」
「そりゃ艦『娘』だからなぁ」
「んじゃ、行くわ。艦娘にあったら、あとでどんなんだったか教えてくれよ」
「おう」
俺は去るそいつの後姿を眺めながら、会いたくねぇなぁ、と思ったものだった。
女はあまり得意ではない。姉妹はいないし従姉妹もいない。兄が一人いるだけで、身近な女性は母親か兄の婚約者といったぐらいだ。これまで大した慣れの機会を得ずに来てしまった。
軍人など男所帯で女日照りの毎日なのだから、あいつの反応がもしかしたら正常なのかもしれないが。
恋人がいたことはあるし、肉体経験もある。きっと女の好むような趣味へ理解が乏しいのだ。それが気疲れを齎しているのだろう。
それも、艦娘。戦場で深海棲艦などという化け物と丁々発止やりあうのだから、そりゃもう気が強くて男勝りで、俺たち一般兵卒など塵芥のように思っているに違いない。
少しは冗談交じりだった。そして半分ほどは誇張なれど信じてもいた。
ただ、一体どんな人間が「艦娘」として抜擢され、戦うのか、興味はあった。眉唾がどこまで真実なのか、気にならないわけではなかった。
結局俺もまたミーハーなのかもしれない。
- 548: 2018/04/08(日) 23:47:08.52 ID:gjD6HFLS0
- ……そうして、比叡と出会ったのは、数日後の夜だった。
当番が同じグループの二人と食堂で飯を喰っていたときのことだ。夜帯で、その時間帯は人がまばらだった。閑散している中で話す内容は、大抵が陸の話。
出身はどこだ、結婚はしているのか、趣味は、最近見た映画は、そんな他愛もないものばかり。今日の当番は終わったので酒を呑んでもよかったのだが、次の日が少し早かったので、二人の誘いを断って俺はウーロン茶で紛らわしていた。
「あの、ここいいですか?」
黄色い声。海の上では到底聞けないトーン。
どうしてこっちへ来るんだ、いくらでも席が空いているだろうに。思いながら振り向いた先には、驚くほど素朴な少女――でいいの、だろうか。二十歳前後の、短髪の女性が立っていた。
手にはトレイ。その上には夕食のホイコーローと味噌汁、白米、サラダ。愛想笑いを浮かべながら、意志の強そうな眉を真っ直ぐに、俺たちを見ている。
- 549: 2018/04/08(日) 23:47:35.06 ID:gjD6HFLS0
- 「……」
三人ともぽかんとしていた。俺の対面に座っていたやつなんかは、ビールが口の端から垂れてもいた。
誰だコイツ。
船の上にいる人間全員を網羅することなどできない。数週間経っているのならまだしも、出航して数日では、せいぜい同じ勤務シフトの人間と、上官が精一杯。
しかし俺は、いや、俺以外の二人も、目の前の女性の身分に心当たりがあった。それはかなりの部分が推測を占め、残りに僅かな希望的観測を含んでいた。
「あ、えっ、もしかして、艦娘の?」
仲間の一人が驚きとともに呟く。
「あ、はい。そうです。あれ、知ってるんですか? あたしのこと。ひえぇ、恐縮です」
「知ってるって言うか、噂って言うか? 僕らきみのこと結構、ほら、聞くんだ」
「オレは齋藤。こっちは高木で、こいつは……」
- 550: 2018/04/08(日) 23:48:12.03 ID:gjD6HFLS0
- 「おい、ちょっと待てよ」
俺は声の上ずり出した二人に制止の声をかける。
「いいのか? 軍規に抵触しないのか?」
艦娘自体は公のものだが、俺たちが個人的に接触することが可とされているのか、自信はなかった。
「そもそも階級は艦娘のが上じゃないのか」
目の前の艦娘はジャージを着ていて、階級章らしきものはどこにも見当たらない。
「大丈夫だろ」
「そ、平気だって。向こうから接触してきたんだから」
「あの、階級とかは多分関係ないと思います。一応書類上は軍曹だっけ? あれ、三尉だったかもしれない。ちょっと覚えてないけど」
「だってよ」
ぽんと俺の肩を叩く齋藤。
相手がそれでいいと言うのに俺が頑なに否定する理由はなかった。艦娘は満足そうに頷いて俺の隣の椅子を引き、そこへちょこんと座る。
女性にしては上背があるほうだ。茶髪。瞳に僅かに青みがかっているような気がするのは、ハーフだから? 顔はそれほど日本人離れしているようには見えないが。
- 551: 2018/04/08(日) 23:48:47.53 ID:gjD6HFLS0
- 「あのさあのさ、艦娘ってぶっちゃけどうなの?」
「どうなの? って言われましても」
苦笑交じりに白菜、豚肉を口の中へと放り込む艦娘。
なるほど、確かにそのとおりだ。
艦娘は困ったような顔をしながらも、元来まじめな性格なのかもしれない、顎に指を添えて宙を仰ぐ。
「多分みなさんが思っている通りだと思います」
「やっぱり、その」
「深海棲艦と戦ったり?」
「まぁ……そうですね。この間、ROEの記載事項に変更があったんですが、知ってますか?」
「外洋航路申請時の戦力規定か?」
「はい。商船、及びタンカーについては、これまでのROEだとDDHか、それに準ずる武装の随伴が必須だったんです。で、今回の変更で、それに艦娘も帯同するようになりました」
- 552: 2018/04/08(日) 23:49:20.43 ID:gjD6HFLS0
- 「深海棲艦の動きが活発になっている?」
「そう……ですかね。ごめんなさい、あたしはそこまで詳しくないから、滅多なことは言えないんです。曖昧なことを言って不安がらせるのはよくないって思いますし、実際そう教えられてますし。
悪い懸念だとそうかもしれませんけど、良い方向に考えれば、遠洋に出せるまで国内の艦娘の数が充実してきたってことでもあります。これまでは近海掃海が主でしたから」
「いざとなったら頼むよ! えーと……」
「比叡です。金剛型二番艦、比叡。素体の名前は、ごめんなさい。神様が離れてっちゃうので」
「神様、ね」
艦娘の話を聞いて、いまこうして実物を見てなお、俺は半信半疑だった。目の前の比叡、彼女は年頃の女性でこそあれ、火薬と油の臭いはしない。いや、現代戦において、そのどちらも最早重要視はされなくなってしまっているのだが。
先ほどちらりと見た比叡の指は白く、細い。傷一つない白磁のようだ。腕も同じ。
こんな彼女が深海棲艦などという化け物と戦えるのか。もっと言ってしまえば、俺や、他の誰かの命を守れるのか。いまいち実感がわかない。
- 553: 2018/04/08(日) 23:51:07.83 ID:gjD6HFLS0
- 艦娘の現状はどちらかと言えば偶像的だ。その理由も、今ならばわかる気がする。本当に、彼女らに命を預けてもいいものかと、これまでの常識が疑問を呈しているのだ。
常識。常識! 深海棲艦の出現とともにとっくに壊れてしまったものを、今でも大事にしているそのさまは、滑稽ですらある。俺は自嘲せずにはいられない。
「基本的には客室で待機してます。お手伝いとかしたいんですけど、あたし、そういうことはさっぱりで。勿論有事の時には、真っ先に海に降りて深海棲艦ぶっ倒すんで、期待しててくださいね!」
まぁ本当は、あたしの出番なんてないのが一番いいんですけど。比叡は笑いながらそう言った。
「比叡ちゃんは高校生? 大学なの?」
「海軍の海防局所属、遊撃特務群です。その前は高校で、そこで適応検査受けて入った形になります。第四期生かな」
等々、よくもまぁ話題も尽きないものだと感心するほどの長話。女っ気のない職場に艦娘がいれば、そりゃあ士気も上がるだろうさ。そんな厭味を俺は仲間二人を見ながら思った。随分と浮かれてしまって。
- 554: 2018/04/08(日) 23:52:10.54 ID:gjD6HFLS0
- 比叡も、どうやら今回の護衛が初であるようで、俺たちのような現役の軍人とは接する機会がなかったようだった。質問攻めにした分だけ質問まみれにされそうになるも、厨房の人に「もう閉める時間だから」と言われて、そそくさと退散する。
同じ艦に乗っているのだ、どうせ図らずともすぐ会える。随分と名残惜しんで別れようとする三人が大袈裟なのか、俺が薄情なのかは、よくわからない。
比叡は夜風にあたるのだと甲板のほうへ歩いて行った。海に落ちないようにしろよ、とは口が裂けても言えない。俺たちは反対方向の船室へと戻る。
「比叡ちゃん可愛かったな」
「そうだな。元気があって、僕ァ好きだよ、ああいうコはさ」
「お前はどうだった? 好みか?」
水を向けられてしまう。どうだ、と訊かれてもな。
「……思ったより普通だったな」
「ゴリラでも想像してたか」
「いや、そうじゃなく」
あれではまるで少女じゃないか。天真爛漫で快活な、どこにでもいる、元気印のついた。
俺の想像が捻くれているのか? 創作に感化されたか?
- 555: 2018/04/08(日) 23:52:40.08 ID:gjD6HFLS0
- 「んじゃな」
齋藤が扉の向こうへと消えていく。二人一部屋が基本単位。俺は齋藤と同室で、次の角を曲がったすぐ先に部屋があった。
「あんなコが艤装を背負って戦うってんだから、世の中は変わったもんだよなぁ」
「あぁ」
俺たちが適応できるか否かに関わらず、世間というものは、世界というものは、無慈悲に前へ前へと進んでいく。俺なんかはついていくので精一杯だが、どうやら高木も同じことを思っているらしかった。
比叡が深海棲艦と十二分に戦えるのかという疑問と同時に、果たして俺は――俺たちは、ああいう明るく朗らかな存在を守るために軍人になったのではなかったかと、自問してしまう。
別に戦場でなくてもそれはよかった。被災地だろうが、それこそ日常だろうが。
- 556: 2018/04/08(日) 23:53:28.12 ID:gjD6HFLS0
- 「よくねぇな」
「なにがさ」
「センチメンタルが襲ってきた」
「わからないでもないよ」
「泣いても笑っても、今後の主戦力はあいつら、か」
比叡は言っていた。遠洋まで派遣できるほどに、国内における艦娘の徴用は進んでいる、と。それは逆説的に、状況は決してよくなってはいないことを意味する。
前線を艦娘に任せるのは時代の流れだろう。俺たちの仕事は後方支援にスライドしていく。不満がないわけではない。しかし、平和をそれで守れるならば、別にいいという思いもまたある。
「やめやめ」
言い聞かせるように呟いて、俺は自室の扉を開けた。
明日も早いのだ。考えるのもほどほどにして、キリを見つけて寝床につかねば。でないと朝食を喰いっぱぐれてしまう。
さっとシャワーを浴び、歯を磨いて、俺は体をベッドに滑り込ませたのだった。
- 567: 2018/04/12(木) 22:29:37.92 ID:F7ZfP2x10
- 朝食は蕎麦かうどんを選べたので、俺はうどんを選んだ。かき揚げに似た天ぷらとほうれんそうのお浸し、少な目に盛られた白米の上にはゆかりが振りかけられている。
あまり朝は食べない方だったが、海軍に入ってからはそれだと体が保たない。塗り箸を手に取って、いただきます。
点呼まではまだ時間があった。ばたばたせずに済む朝は久しぶりだ。珍しく眠りが浅かったのが原因かもしれないが、そのせいで少し頭が重たい。まだ額のあたりに睡魔が居座っている。
普段と違うのはよくなかった。今日はなんだか噛みあっていないなという日は誰にでもある。その予兆だと、俺は思った。
「あ……あの、ここ」
前に立つ誰かの気配を感じ、うどんを啜るのを止めて上を見る。
「空いてますか?」
はにかんだ笑みを浮かべながらの比叡。周囲を見渡してみるが、朝早い時間帯は人もまばら。誰もかれもが一人で喰っていて、それは俺も同じである。
- 568: 2018/04/12(木) 22:30:15.32 ID:F7ZfP2x10
- 俺が周囲を見渡しているのと同様に、周囲もまた俺を窺っているのがわかった。視線が合うと慌てたように食事へ戻る。が、集中していないのは明らかだ。
聞き耳を立てているのかもしれない。艦娘が同行しているという噂は艦艇中に広まっている。明らかに軍人ではなさそうな女がいたら、そいつこそが艦娘であると判断するのは、決しておかしな話ではない。
「席は空いてるだろ」
「なら、遠慮なく」
比叡はそう言って俺の前に陣取った。違う、そういう意味で空いていると言ったのではなかったのだが。
他に空いているだろ、と言えばよかったのか。しかし意味もなくつっけんどんに返すのも抵抗がある。
階級上は比叡は上官にあたり、かつ政治的な立場を鑑みればそれ以上の差が開いていた。聞き耳を立てているであろう周囲から、なんだあいつはと思われるのは、決していい振る舞いとは言えない。
- 569: 2018/04/12(木) 22:30:49.80 ID:F7ZfP2x10
- 「俺に用事でも?」
ぶっきらぼうにならないよう努め、俺は尋ねた。
「いえ、そういうわけではないんですが」
比叡は控えめに蕎麦を啜った。
「知り合いが誰もいなくてですね」
「昨日の積極性はどうしたんだ。昨日声をかけてきたとき、俺たちは知り合いじゃなかったろ」
「昨日はみんな初対面でしたから、勇気を出すほかなかったんですよ。今日は初対面の中に一人、知り合いが混じってるわけですから、そりゃまぁ、ね?」
誤魔化すように比叡は笑った。
返事をどうすべきか考えている間に、その機会を失って、俺は半分くらい完成していた言葉を飲み込む。麺と、汁とともに。
「朝早いんですね」
「ん? まぁ、そうだな。当番が、早くからあるな」
「どんなことするんですか? あー……」
言い淀んだ比叡に名前を名乗ると、口の中で数度反芻し、頷かれた。
- 570: 2018/04/12(木) 22:31:40.66 ID:F7ZfP2x10
- 口の中で数度反芻し、頷かれた。
「多分言ってもわかるかどうか」
専門的な知識や言葉をなるべく噛み砕きながら、俺は比叡に持ち場や任務などをざっくりと説明する。比叡はそのたびに目を輝かせて頷いていた。どうやら好奇心はだいぶ旺盛らしい。
陸の上で生活する人間にとって、海の上がどんなものか想像つかないのもしかたあるまい。海や空は自由の象徴かもしれなかったが、自由がゆえの不自由さもまたある。
深海棲艦が出るまで、特に彼女に与えられた仕事はないのだという。まぁそうだろう。変に仕事を与えて怪我でもされては責任問題になるし、何より訓練も受けていない人間できるような仕事は、船の上では多くない。
一週間か一ヶ月か、OJTを行ったうえでならば、頭数には入れられるはずだ。彼女自身それを目指している節があるという。
「暇で暇で死んじゃいますから」
持ち込める本にも限りがある。スマホは電波が基本的に入らない。仕方のないことだ。
- 571: 2018/04/12(木) 22:32:10.00 ID:F7ZfP2x10
- 「お前が暇な方がいい」
「でしょ? いや、わかってるんですけど。司令とかは何もしないで部屋でごろごろしてていいよーって言うんです。けど、往路と復路、合わせて三か月超って聞いたら、ひえーって思いませんか?」
まるで思わない。だがそれを表明するわけにもいかず、俺は曖昧な笑みを浮かべる。
「顔引き攣ってますけど、大丈夫ですか?」
「ん? ……一味を入れすぎたかな」
言ってから、テーブルの上に一味はないことに気付いた。あるのは七味だ。
「ごちそうさま」
あまり朝飯をだらだらと喰うつもりもなかった。俺が立ち上がると、比叡は寂しそうな表情を一瞬だけつくる。
罪悪感が生まれた。別にこいつとなんら関係がないと言うのに。
「あの」
比叡が俺の名を呼んだ。脚が止まる。
「また」
「……」
またも何と返すべきかわからない俺がいた。今度ばかりは嚥下できない。それは、なんというか、完全に感覚的なことなのだが、ここでそうするのはあまりにも彼女に悪いと感じたのだ。
- 572: 2018/04/12(木) 22:34:09.56 ID:F7ZfP2x10
- 「……またな」
「っ、はい!」
まるで夏に咲く満開の花だった。俺は思わず面喰ってしまって、直視できない。
男所帯で女日照りは俺もなのだ。それをすっかり忘れてしまっていた。
それから比叡とはしばしば食事でかちあうことがあった。その時は俺一人であったり、あるいは齋藤や高木と一緒であったりさまざまだが、比叡は常に一人だった。
「司令ですか? いますよ。ただ司令は兼任なので、普通に艦艇内でのお仕事があります」
この船のナンバーツーの二佐が、書類上は比叡の直属の上官であり、彼女に直接指揮できるのも彼だけらしい。
本土で、かつ近海防衛に特化した部署では、一人の提督が十人から三十人ほどの艦娘部隊を率いることが通例となっている。少なくとも一佐は部隊の運営が仕事ではない。ROEが先に策定されてしまい、まだ運用が固まってはいないのだろう。
比叡の興味は、最近は艦の仕事や語句知識ではなく、それに乗っている軍人へとシフトしているようだった。中卒で入った人間、高卒で入った人間、防衛大を出た人間、それぞれどんな違いがあるのか。詳細に説明するだけで食事の時間はすぐ潰れる。
- 573: 2018/04/12(木) 22:34:47.09 ID:F7ZfP2x10
- 「艦娘はどうなんだ。採用形式、っていうのか」
「……あたしの時は、スカウトマン? みたいな人が来ましたね」
「スカウトマン? 人事ってことか?」
「や、わかんないですよ。うちの……うちに来て、あたしとあと二人、どっか連れてかれて、あれは多分今思えば神祇省の付属の病院だったと思うんですけど、そこで検査して」
「検査、ねぇ」
艦娘適性がなければ神は降ろせない。海に立てないし艤装も背負えない。話には聞いてこそいるが、それがどんな科学的根拠に基づいているのか、俺は知らない。比叡自身もぴんと来ていないようだった。
「神様は自分と似た境遇のひとが好きなんだっていってました。いや、好きっていうか、誤解してるって。自分と勘違いして、あぁ自分の体が戻ってきたんだやったーって、騙して騙してあたしたちは艦娘の力をふるえるんだって」
「他の艦娘をお前は知ってるのか?」
本土にはそれなりの数がいるらしいが、部署が大きく違うということもあり、俺は見たことはなかった。
- 574: 2018/04/12(木) 22:36:44.46 ID:F7ZfP2x10
- 「いますよ。艦娘の訓練学校みたいなのがあって、検査を通過したひとたちはみんなそこで訓練です。知識とか、戦い方とか。基本は戦艦も駆逐艦も空母もごっちゃでした。専門性が高い時だけ別カリキュラムで」
「ふぅん」
「いろんな人がいましたよ。あたしの姉妹艦の人もいたし、潜水艦なんかはみんな水着でずっと泳ぎの訓練だったし。駆逐艦はみんな小学生で、陸上やってた島風ちゃんとか、スマホ見たことなかった吹雪ちゃんとか、漫画書いてる秋雲ちゃんとか。
高専にいたって明石さんはいっつもドックに籠って、わけわかんないの作ってたなぁ。ネガティブでやさぐれた大井さんが授業に出てなくて、みんなで探しに出かけたこともあった。
赤城さんと加賀さんは弓がすっごい上手で、朝練してるところを青葉さんが写真撮って、売りさばいてたの見つかって……あはは、懐かしいなぁ」
- 575: 2018/04/12(木) 22:37:39.11 ID:F7ZfP2x10
- 怒涛のように語る比叡の視線は、俺ではなく目の前の食事でもなく、昔日の映像をうっとりと眺めているように見えた。訓練学校がどれだけ楽しかったのか、それだけで想像するに十分だ。
俺も、自分のことを思い返せば、きっとそんな表情をするに違いない。似合わないとはわかっているが、あの辛く苦しかった数年も、今となってはいい思い出だ。
また別の日、艦艇内は緊迫した空気に包まれ、針で突かれた瞬間に弾けてしまいそうなほどに張り詰めていた。
各自が小銃を肩から降ろし、点呼、のちに持ち場へと向かう。
その間にも船が大きく揺れた。
比較的小型の敵艦が二体、こちらに体当たりをしているのだ。ごおん、ごぐんと不快な重たい金属音が、気密性の高い窓や扉を突き抜けて、俺たちの耳へと届く。
窓の外には異形の飛行体が編隊を組んで飛翔していた。時折思い出したように爆撃や銃撃を行ってくる。厚い隔壁を撃ち抜くほどの威力はないようだったが、逃げ遅れた甲板員が三人、既に死んでいる。
- 576: 2018/04/12(木) 22:38:58.21 ID:F7ZfP2x10
- 南無三。仮に意識が消失したとて、訓練で染み付いたその動作は忘れることができない。俺たちは素早く外へと転がり出、飛行体の攻撃の間隙を塗って銃撃で撃ち落としていく。
対して幅の広くない船の通路では大規模な戦闘は難しい。基本は三人一組。俺たちは集中射撃で飛行体を狙う。
放たれた爆弾が一人の足元付近に着弾、紫色の炎を交えて炸裂し、そいつの膝から下を吹き飛ばす。
「ぐ、うぉ、うああああっ!」
「掴まれ、立てるか!? 肩を!」
一人が担ぎ上げて逃げる時間を稼ぐべく、俺は必死に銃口を謎の飛行体へと連射する。金属と肉が交じり合ったような不快な様相。それがこの世のものだとは到底思えないほどに。
不意に視界が翳った。かんかんかん、と靴底で強く床を叩く音。
「抜錨!」
比叡だった。食堂にいる時の普段着ではない、正装――と言えばいいのか、巫女服? 修験服? 学のない俺には形容しがたい、けれど理解できる……あれは悪鬼と戦うための神聖なものなのだと。
- 577: 2018/04/12(木) 22:39:57.75 ID:F7ZfP2x10
- 比叡は船内から飛び出し、空中でいままさに俺たちに襲いかかろうとしている飛行体を、拳で直接殴打した。細く、白い腕。しかし敵は一撃一撃で体を削剥させられ、消失していく。
「大丈夫ですか!?」
そこでようやく、目の前にいるのが俺だということに気付いたらしい。照れくさそうに「あはは」と笑う。
だが、今はそんな場合ではない。すぐに比叡も表情を引き締める。
「気合! 入れて! いきます! あたしの活躍、ちゃんと見ててくださいねっ!」
比叡はその後、敵艦三体を順次撃破、無事に帰投した。負傷した仲間の保護に専念していたため、海上で行われた戦闘は比叡の言葉に反して見届けることができなかったが、仲間が言うには天使のようだったとも。
埒外な存在に、こちらもまた埒外な存在を動員して当たる。それはあながち間違いではない。敵戦闘機を比叡が殴り飛ばした時、俺が彼女に感じたのは、感謝ではなく畏怖だったように思う。
- 578: 2018/04/12(木) 22:41:16.51 ID:F7ZfP2x10
- どちらも人間だ。
互いに人間だ。
だが。
俺には当然あんなことできやしない。そして可能なのが彼女であり、艦娘なのだ。
それは確実に兵器としての側面。
しかし。
死者四名。
負傷者十二名。
その報告を知った比叡の、あの悲痛な表情。あれが果たして兵器の顔だろうか?
「……よぉ」
深海棲艦との戦闘があった日から十日ほどが経過して、俺はようやく比叡に出会った。比叡は食堂でカレーライスをつまらなさそうに食べている。
もしかしたら俺が後からやってきて、先にいた彼女に声をかけるなんてのは、これまでで始めてからもしれない。
- 579: 2018/04/12(木) 22:41:55.80 ID:F7ZfP2x10
- 比叡は俺の姿を認めて、笑う。疲れた様子を隠そうともしていない。
最後に会ったのは戦闘後の全体集会のときである。ただ、それも会ったというよりは、俺が遠くから一方的に比叡を見ていたに近い。彼女の活躍によって敵勢力は退けられたと、二佐が胸を張って語っていたのを覚えている。
護衛対象であるタンカー自体は大きな影響はなかったようで、航行は続行。しかし殉職した乗組員の遺体の引き渡しや船の精査もどこかで行わなければいけないため、少し予定に変更が出ると伝えられた。
「ここ、空いてるか」
「どうぞ」
促されるままに俺は比叡の対面に座った。カレーを掬って口へ運ぶ。味がしない……まさか、気のせいだろう。意識が目の前の存在に引っ張られすぎている。
まずそうな顔しながら喰うんじゃねえよ、とは言えなかった。先日の件で、人死にが出たことを気に病んでいるのは一目でわかった。かく言う俺たち軍人の間でも、重たい空気は流れているのだ。
- 580: 2018/04/12(木) 22:43:27.96 ID:F7ZfP2x10
- 軍人だから死人に慣れているというわけではない。特に俺たちは前線で戦う歩兵ではないのだし。
脚を喪ったあいつは一命を取り留めたが、もう同じように勤務することは難しいだろう。俺の前でこそ死人はでなかったものの、それは比叡が助けてくれたからであって、もしあの場に比叡がいなければ俺さえも死体となって転がっていた可能性はゼロではない。
「あの時は助かった。ありがとう」
だから、やはり礼は言うべきだった。
礼を言わずに知らん顔はできなかった。
「……それがあたしのお仕事ですから」
「でも」
それとこれとはまるで関係がないのだ。
「でも」
比叡は遮った俺の言葉をさらに遮る。
「よかった」
「よかった?」
「はい。無事で、いてくれて。襲われていた人も、その……脚は戻らなかったけど、生きてはいるって聞いて」
「調べたのか? 自分で?」
「そうです」
それが比叡の美徳なのだ。誰かの気持ちに寄り添い、痛みや辛さを分かち合おうとする姿勢は、なによりも尊い。
反面、全てを自分の肩に乗せていては、いずれ潰れてしまうのではないかと余計な心配さえしてしまう。
「……よかった」
青ざめた顔から発せられた言葉が、俺には気になってしょうがなかった。
- 586: 2018/04/15(日) 03:51:37.13 ID:xlx1rXlG0
- 「待った」
「だめです」
俺の懇願を比叡は一蹴した。なんて女だ、無情すぎる。少しは手心を加えてくれたっていいじゃないか。
全く心の籠っていない非難を受けて、比叡は呆れ顔ながらも盤面を指した。
俺の玉は既に龍やら馬やら銀やらと金やらに包囲されて、少しの逃げ場もない。
「じゃあ何手前まで戻します?」
どこまで戻せば勝ちの目が生まれるのかちっともわからなかった。尤も、わかっていれば、こんな惨状にはなっていなかっただろうが。
「負けでいいっつーの」
「素直でいいですねー」
楽しそうに笑う比叡だった。
「比叡殿に初心者を甚振って楽しむ趣味がおありとは思わんかった」
「えへへ、そんなでもないですよぅ」
てれてれと頬を赤らめながら比叡。
褒めてねぇよ。
駒の動かし方と矢倉の組み方しか知らない相手に、居飛車穴熊とか組むんじゃねぇ。
- 587: 2018/04/15(日) 03:52:19.91 ID:xlx1rXlG0
- 俺たちは娯楽室にいた。最近比叡が将棋を題材にした漫画にハマっているという話で、相手を探していたのだった。俺はただ廊下を歩いていただけなのだが、抵抗虚しく蜘蛛の巣に捕まってしまった蝶の気分だ。
娯楽室には他にも利用者がいたが、みなそれぞれの娯楽に興じている。卓球だったり、読書だったり。ソファの背もたれに体を預け、うつらうつらしているやつもいた。
ほどほどの静寂の中で、もう一戦しましょうと張り切りながら、比叡は駒を初期配置に並べ直している。
随分と懐かれたものだ、と思った。鼻歌なんか歌っている。ふんふんふーん、ふふんふんふーん。ポップなリズムが将棋盤の上空でほどけて溶ける。
俺と比叡が出会ってから、既に一年が経過していた。
依然として俺は四代目「ひえい」に乗艦していた。階級は据え置きだったが、多少なりとも責任のある立場は任されている。今年か来年の早い段階で、昇進試験を受けてみるのもいいかもしれない。
比叡もまた、当然のように「ひえい」付で深海棲艦相手の護衛を務めている。今は艦のことも少しずつわかるようになってきているらしく、時たま誰かの手伝いをしていることを見かけることもある。
- 588: 2018/04/15(日) 03:52:56.57 ID:xlx1rXlG0
- 四代目「ひえい」は相変わらずにインド洋を経由するタンカーの随伴。変わらないことはよいことだ。それは安心と安定、そして落ち着きを齎してくれる。
目の前の比叡は角道を開けるか悩んでいた。真剣なまなざしを盤に落とす彼女は、まるで普通の女子大生のようだ。文化系と言うよりは体育会系。冷静と言うよりは熱血。ありありと目に浮かぶ。
そんなこちらの視線に気づかず、比叡は結局角道を開けた。俺も合わせて開けて、角交換に持ち込む。
「やりますねぇ。これは負けてられませんっ」
そうなのか。どうやら俺は知らず知らずのうちにやるようになったらしい。
彼女が負けじと何かをするのもまた不変、通常運行だ。
俺たちを取り巻く環境はこの一年でさして変化しなかったものの、こと関係性という面についてのみ語れば、激動の、激変の一年であったと言っても過言ではない。その中心には、目の前に座るこいつがいる。
なまじ艦娘なんかと仲良くなってしまったものだから、当然齋藤や高木をはじめとする同僚からは色々根掘り葉掘りせっつかれた。内容は色恋沙汰もあり、艦娘の職務に関するものもあり。
- 589: 2018/04/15(日) 03:53:25.69 ID:xlx1rXlG0
- くだらん、と一笑に付すことは簡単だった。だが立場が逆なら俺も無粋な質問の一つや二つはしていたに違いない。それを思えば、広い心で赦せようものだ。
「……手番ですよ?」
比叡がこちらを覗き込んできていた。
「何かついてますか?」
頬を両手でぺたぺたと触る。どうやら注視しすぎてしまったようだ。
「いや、なんでも――」
世界が揺れた。
体の奥底まで響き渡る、重たい震動。ごぐん、と一度、大きく。
警報が鳴るまでに時間はさして要さなかった。爆裂音。遠くはない。かといって巻き込まれる懸念をするほどには。
しかし誘爆の危険性は常に孕んでいる。先ほどの揺れが事態の原因なのか、それとも隔壁が閉じる音なのか、一瞬では判別できなかった。
全員の視線が交わる。思考の必要はない。誰かが息を呑んで、それを合図に俺たちは娯楽室を飛び出した。
- 590: 2018/04/15(日) 03:54:01.00 ID:xlx1rXlG0
- 爆裂音がまたも響く。しかも、今度は二発。どぉん、ごぅん。同時にまたも艦が大きく揺れて――事態の逼迫は明白、だがそれ以上の嫌な予感が胸中に渦巻いていた。これは普通ではない。通常の非常事態ではない。
心臓が高鳴る。それに反して頭は冷静だった。血流は全て体の動作に使われているから、頭に上るだけの余裕などないことが、冷静の原因だ。
深海棲艦の襲撃。しかし、それ以上の何かが起きている。
「比叡、頼んだ」
「はい! 比叡、任されましたっ!」
拳を打ち付けあって、俺たちは丁字路を逆方向に向かう。比叡は右へ、俺は左へ。
警報は今や最大級の警戒音を鳴らし続けていた。断続的な揺れの中に、時たま一際強い揺れが混じり始め、頻繁に肩や肘を強か船の壁にぶつけることとなる。
床が傾いでいる。丸窓から見える世界は、平衡感覚に厳しくノーを突きつけてきた。俺はそれに、さらにノーで突っ返す。おかしいのはこの船だ。俺ではない。
- 591: 2018/04/15(日) 03:54:33.67 ID:xlx1rXlG0
- 「おい、どうして通信が入らん……!」
仲間の一人が苦々しげに吐き捨てた。誰もが疑問に思っていた、しかし口にしなかった禁忌の言葉。
最悪に輪をかけての最悪、そのパターンを想定することは軍人にとって必要な能力だ。その上で、俺たちは生き延びることを、現状の打破を期待されている。ゆえの軍人でもある。
沈没。その二文字が脳裏で点滅していた。
無論、その状況も訓練していないわけではない。集合、点呼を経てからの救命ポッドによる脱出まで、一連の動作に淀みは存在しないはずだった。だが、その指示を出すはずの上官による通信が、いまだ入らない。
指揮権を持つ者が――考えたくないことであったが――死んだ場合、その下の階級のものが基本的には指揮権を継承する。脱出の判断を示すのが誰なのかを俺は知らなかったが、一佐か二佐のどちらかなのではないかと踏んでいた。
いまだ通信は入らない。有線の艦内放送設備が使えないというのならばまだわかる。しかし無線まで誰も応答しないというのは……。
- 592: 2018/04/15(日) 03:55:19.92 ID:xlx1rXlG0
- 何度目かわからない爆裂音とともに、廊下の先から熱波が俺たちの肌を焼き焦がした。気管の炙られる感覚に思わず息を止める。
さらに大きく艦が傾いだ。
あぁ……。
「駄目だ! 甲板だ!」
叫んだのは誰だったのか。もしかしたら自分だったのかもしれないと思うほどには、その時の俺たちは以心伝心だった。一蓮托生だった。
駄目だ。言葉を省略しないのならば、この船はもう駄目だ。
多重隔壁で浸水や砲撃には頑強なつくりになっているはずだった。それでなくとも、可能な限り水平を保とうとするスタビライザーは、比較的新しいものをとりつけている。それだのにあまりにも事態の悪化が早い。
想定外をして有り得ないと断ずるのは浅慮に過ぎる。現実は想定を容易く上回ってくることを、俺たちは深海棲艦の登場で骨身に沁みたのではなかったか。
甲板に出る。
「……っ、比叡……!」
思わず祈りが零れた。
- 593: 2018/04/15(日) 03:55:49.73 ID:xlx1rXlG0
- 「なんだよ、これ。なんだよこれぇえええっ!」
「負傷者の――生存者の確認を急げっ!」
「タンカーは、タンカーの方はどうなんだ!? 救命ポッドを!」
視界を埋め尽くすほどの、飛行体の群れ。
口が、そこに収まらない巨大な歯が、空を縦横無尽に飛び交って、
「ひ、とを……」
喰っていた。
噛みつき、引き裂いていた。
銃声が断続的に響く。
船の後方では今も爆炎が閃光を撒き散らし、空いた穴から黒煙を撒き散らしている。
左舷から船を突き抜ける衝撃。解体作業のような音が、頭蓋を揺らす。
指揮系統もクソもありはしなかった。使命感は胸にある。しかし、それが今この場でどれだけの威力を発揮するだろうか。
形而上の何かは、実存的なそれに、比べるべくも及ばない。
小銃が火を噴いた。金属の削れる音、肉の抉れる音、悪鬼の奇声、奇声、奇声――あぁもう気が狂いそうになるほどに!
- 594: 2018/04/15(日) 03:56:32.88 ID:xlx1rXlG0
- 今や信じられるものは両手に抱え上げられた鉄の重みだけだった。それさえも悪鬼の前には大して役に立たない。一体、二体を打ち倒したところで、三体目四体目五体目がすぐさまこちらへ向かってくるのだ。
連射は既に乱射へと変わっている。姿勢保持などは所詮机上のものにすぎなかった。寄るな寄るなと腕を振り回す子供に等しい愚かさだったが、それでも。
「齋藤、高木!」
エレベーターを背に射撃を行っているのは知り合いだった。俺はひとまず安堵を覚えて、二人に駆け寄る。
「生きてたか!」
「やばいね。こりゃあやばいよ」
「何があった。どうなってる。通信は?」
「知らねぇよ!」
「僕たちも、困ってる。深海棲艦の通信妨害じゃないかって思うんだけど」
「生きてれば、みんな救命ポッドに向かってるはずさ。僕たちも向かいたいけど、いかんせん数が多すぎるね」
- 595: 2018/04/15(日) 03:57:05.10 ID:xlx1rXlG0
- 「左舷はイ級の群れだ。どいつもこいつも吶喊してやがる。この飛行体群の親玉がどこにいるかはわからんが、密度が濃いのは右前方。だが、それよりも」
「ケツか」
大穴が空き、爆炎が見え隠れする船の後方。既にあそこから海水が浸入しているようで、傾きの大本だ。
あそこを何とかしなければ船は沈む……いや、デッドラインはとうに超えているに違いない。穴を塞ぎ、水を掻き出すのは、あまりにも非現実的。残された手段は脱出だけ。
「あれは尋常じゃないね。やばいやつがいるよ」
高木の意見には同意だった。これまでこの船は何度かの深海棲艦の攻撃に耐えてきたが、今回はこれまでの比ではない。単純に規模が大きいと言うのもそうだろうが、それでも大穴を一瞬で開けるような敵の存在に、俺は今まで出会ったことがなかった。
強力な存在がいるとしたら、それは船の後方だ。幸いにして救命ポッドが備え付けられているのは右舷の中央から前方にかけて。飛行体の群れを抜けていければ、あるいは。
- 596: 2018/04/15(日) 03:57:36.26 ID:xlx1rXlG0
- と、一際巨大な爆発音が聞こえた。ついにメインエンジンに火が回ったか――そう思って振り向くが、違う。
それどころか、この船ですらなく。
「たっ」
タンカーの横っ腹から黒い煙が濛々と噴き出しているのが見えた。
「まずい! 油が!」
そうだ。もしも油が流れ出て、それに火がついてしまったのならば、救命ポッドで逃げ出したところで焼け死ぬばかり。油は当然水に浮く。文字通りの火の海だ。
「逃げ出すなら早くしねぇと」
「ったってさぁ!」
銃身の熱を感じるほどに撃ち続けても、敵の数は一向に減る気配を見せなかった。
「逃げてください、はやく!」
巫女服が翻った。烈日にも似た光が迸り、俺はそのとき、確かに在りし日の戦艦の幻影を垣間見た……気がする。
比叡だった。なぜここにいるのか。そんな疑問を投げかけるよりも早く、彼女は拳を握りしめ、大きく振りかぶった。
振り下ろす。
- 597: 2018/04/15(日) 03:58:03.76 ID:xlx1rXlG0
- 不可視の砲弾が放たれた。それは限りなく霊的な、俺たち凡人には殆ど感じ取れない巨大な何か。
それが俺たちの周囲に蠢いていた飛行体の群れを一瞬にして蒸発させる。
戦艦たる存在の底力。
「比叡!」
「逃げてください!」
比叡は潮風、爆炎、そして深海棲艦の奇声に負けじと繰り返し叫んだ。
「この船は恐らくもうだめです! 敵の包囲も凄くって……いまみなさんを救命ポッドまでお連れします、逃げる手伝いしてるんです、あたし!」
「それはありてぇが……」
「比叡ちゃん、きみは、その」
「そうだ、深海棲艦の大本を断て。俺たちは三人でなんとか辿り着いてみせる」
「……っ」
比叡は苦い表情をした。言葉を一瞬言い淀むが、仕方がなしに口を開く。
「二佐は、亡くなられましたっ……! 指揮権は喪失、あたしは……勝手には動けません」
- 598: 2018/04/15(日) 03:58:43.23 ID:xlx1rXlG0
- 「でも今のがあるんじゃねぇのか!?」
「だめなんです! 敵戦闘機を追い払うくらいのことはできますけど、大口径砲や徹甲弾、電探の使用は、認証が必要なんです!」
「なんだそりゃ、くそシステムじゃねぇか!」
「齋藤、いまここで文句を言ってもしょうがないよ!」
そうだ、俺たちのすべきは制度やシステムの是非を問うことではない。そんなのは病院のベッドの上で好きなだけやればいい。
齋藤は憎々しげに舌打ちをして、エレベーターの壁から背を離した。救命ポッドの位置に当たりをつけ、高木と視線を交わらせ、頷く。足元さえ見て走れば、あとはそれだけでいい。
「お前も行くぞ」
「おう」
俺は応えて……気が付いた。
気が付いてしまった。
- 599: 2018/04/15(日) 03:59:13.39 ID:xlx1rXlG0
- 「どうした、早くしねぇと!」
「比叡」
「なんですか?」
比叡の目を見た。疾しいことなど何一つない、きれいな、澄んだ瞳だった。
だから確信を抱くことができる。
「全員を救命ポッドに乗せて、お前も当然、それに乗るんだよな」
「あたしは艦娘ですから、海の上を走れますから」
「タンカーから油が漏れだすかもしれねぇ。最悪、火の海だぞ」
「あははっ! そんなのうまく避けてみせますって! だーいじょうぶ!」
「……」
「……なんですか?」
「敵が救命ポッドを見逃してくれると思うか?」
「だから、あたしがそこは何とかします! してみせますよー!」
「何やってんだ、早く!」
齋藤が叫ぶ。比叡が殲滅したはずの飛行体は、また数を増やしつつあった。
- 600: 2018/04/15(日) 03:59:42.82 ID:xlx1rXlG0
- 「……先に行ってくれ」
「でも!」
「……何を考えてやがる」
「それはなぁ」
俺じゃなくて比叡に言って欲しかった。
「ばかげてる!」
「必ず追いつく。ほら、行けよ」
「……くそ!」
二人は走り出した。俺は視線を二人から切って、比叡に正対する。
俺の背後、二人が向かった方角から、銃声。その音が心地よい。
「……なにやってんですか。逃げてくださいよ。逃げないと。ほら!」
「お前の命を犠牲にしてか」
「もう、失礼なことを言わないでください。あたしは死ぬつもりなんてこれっぽちもありませんってば」
「艤装は使えない。敵は大群。恐らく、格の違うやつもいるんだろう?」
- 601: 2018/04/15(日) 04:00:31.86 ID:xlx1rXlG0
- 「……種別、鬼。聞いたことありますか?」
「ねぇな。強いのか」
「はい。滅茶苦茶に。ROEの話はしましたよね? 艦娘にも当然それはあって……種別鬼とは戦うな、必ず逃げろ、と」
「なら」
お前も逃げるんだよな?
「だから!」
……逃げるに決まってるじゃないですか。
「乗組員が逃げたのを確認して、逃げおおせるのを見届けてから?」
「……ひえー、参ったなぁ」
「比叡」
「だーいじょうぶですって。あたしはこのために艦娘になったんですから」
「大丈夫ってのはそういうことじゃねぇだろう」
「そういうことですよ」
- 602: 2018/04/15(日) 04:02:03.94 ID:xlx1rXlG0
- 「誰かを護るために艦娘になったから、それで死ぬなら本望だってか!?」
悔いがないから。本望だから。
だから、大丈夫。
そんな言葉遊びを認めるわけにはいかなかった。
だって、俺は、お前のような存在をありとあらゆるこの世の脅威から守りたくて、軍人になろうと決心したのだから。
「違いますよ」
比叡は笑った。虚勢には見えない。
心底満足そうな、そんな。
「あたしは、こんなあたしにでも、価値が生まれて、生きててよかったんだって思えることに出会えて、感謝してます!」
「お前は、何を言ってるんだ……?」
おかしな話だった。満足そうに笑う比叡が、どうして泣いているように見えるのだ。
頬に一筋の輝きが見えるのだ。
「あたしのことです。『あたし』の」
『比叡』ではなく。
- 603: 2018/04/15(日) 04:02:38.70 ID:xlx1rXlG0
- 「神様は『あたし』を『比叡』だと誤解してるんです。みんなが自分の傍から離れてっちゃう寂しさに引き寄せられてるんです。誰かに雄姿を見てほしいんです。独りはいやなんです。いやなんですよぉ」
比叡の言葉が、俺にはわからなかった。もとより俺が理解できるように喋っているつもりもないのだろうが。
「あたしが独りなのは、あたしが悪い子だったからです。駄目な子だったからです。きっと『比叡』もそう思ってます。活躍できなかったから、誰にも看取られなかった。頑なにそう信じてる。
だけど、あたしはもう違う。変わるんです、生まれ変わってやるんだ。
頑張って頑張って頑張って、艦娘で大活躍したら、お母さんもお父さんもあたしのところにちゃんとお迎えに来てくれるはずなんです!」
- 604: 2018/04/15(日) 04:03:19.33 ID:xlx1rXlG0
- 駆けだした比叡の手首を、俺は反射的に掴んでしまっていた。
「やっ、なんですか、やめて、離してください! あたしなんかに構わず、早く逃げて!」
「認証」
「えっ?」
「認証ってのが、必要なんだろう」
目が見開かれた。流石にそれは、いくらこいつでも予想していなかったようだった。
俺も、よくそんなことを思いついたものだと――試してみる気になったものだと、自分で自分が恐ろしい。一体どれだけのやけっぱちだろうか。
「二佐は死んだ。指揮権は宙ぶらりん」
なら。
「今から俺が、お前の司令だ」
「はっ、……はぁっ? ちょっと、それは、えぇ?」
「時間がねぇんだろう。可能なのか? それとも、やっぱり無理か?」
「いや、そんなことしたらだって、あたしの責任が、死んだら、失敗とか規則違反とか全部、いやいやだめですだめだめだめだってば!」
- 605: 2018/04/15(日) 04:04:20.32 ID:xlx1rXlG0
- 「その言い方、可能なんだな」
「……」
たっぷりと間を置いて、たぶん、と彼女は答えた。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
五指をあわせて、手早く認証の手続きを済ませていく。
「……あの、どうして、ここまで」
尋ねられると困ってしまう。どうして。ここに来るまで、理由を考えたことなどなかった。
なんとなく。それが一番近いかもしれない。俺は俺が善人だとは思えなかったが、それでも困っているひとや、泣いている人を、
……それだろうか。
「泣いている女は苦手なんだ」
認証が完了。指揮権が俺に移る。
それがどれだけの規則破りなのか、考えるだに恐ろしかった。放逐されるだけなら御の字で、それ以上の処罰もいくらでもあり得る。まぁ益体の無い考えに違いない。まずは俺が生きて日本の地を踏めねばならないのだから。
- 606: 2018/04/15(日) 04:05:01.56 ID:xlx1rXlG0
- 「司令」
比叡が小さく呟く。その口当たりを確かめるように。
「司令」
そして、俺を見て、もう一度。
「司令」
はにかむように、恥らうように、笑った。
「気合、入れて、いってきます」
「頼む」
俺は一体、何を頼んだのだろうか。
深海棲艦の殲滅か。時間稼ぎか。彼女の生還か。
――結果的に、最後のそれだけは果たされることはなかった。
艦娘「比叡」は、嘗ての戦艦「比叡」と同じように、誰にも看取られずに海の底へと沈んでいった。
- 614: 2018/04/17(火) 02:08:31.23 ID:fb5PHZgP0
- DDH「ひえい」、及びタンカー「洲崎」、全乗組員数合わせて三九七名のうち、確認されているだけで死者は一一九名、重軽傷者は一七二名にも上り、史上初の――そして史上最大の、三桁数の死者を出した深海棲艦による海難事故となった。
随伴していた艦娘「比叡」は、「ひえい」乗組員の避難を誘導したのちに深海棲艦へと対峙、戦闘を開始。それが十三時十八分のことである。
まず比叡はDDH「ひえい」を離れ、タンカーへと向かった。「ひえい」の沈没が不可避であることを見据え、タンカーの乗組員の救助、及び油の漏出を少しでも遅れさせようとする判断だと思われる。
タンカーに取り付いていたイ級、ヌ級、それぞれ数機ずつと会敵、これを撃破したのが十三時三十一分。この時点で乗組員は全員避難が完了していたが、タンカー自体の動力は停止しきっていなかった。比叡はタンカー内部に侵入しようと試みた形跡が残っている。
深海棲艦の第二波との交戦が十三時三十五分。戦艦タ級、及び戦艦棲鬼一体ずつと、比叡は放火を交えることとなる。
- 615: 2018/04/17(火) 02:09:57.29 ID:fb5PHZgP0
- 比叡がタ級の顔面を殴り、バランスを崩したところへの胴回し蹴り。波濤へ埋もれたその隙をつき、大口径砲の掃射で屠る。しかし背後から戦艦棲鬼が接敵。反応の遅れた比叡は数発の砲弾を受けるも、即座に反撃に移る。十四時十八分のことである。
……一撃を受けるごとにカメラの映像が乱れ、飛沫が舞う。
鬼の従える怪物が、気の狂ったように両腕を振り回す。比較対象の少ない海上でさえ、その太さは明らかだった。比叡はそれを間一髪で回避していく。どう見ても反応が当初より鈍い。
ついに回避しきれない時が来た。何とか間に合わせた体の防御の上から、重たい一撃。画面の左上が欠け、音は途切れる。画面の隅が白くハレーションしたのは砲撃による爆裂だろうか。
一拍の、ぐ、という溜め。その後の吶喊。最短距離を往く比叡の目には鬼の本隊、虚ろな目の女しか見据えていない。
怪物の腕が振るわれた。最早比叡には避ける気がない。いや、あるいは……。
手首から先が弾けて水の中へと落ちていくのが映っていた。
- 616: 2018/04/17(火) 02:11:20.90 ID:fb5PHZgP0
- 映像が震える。光が収斂し、比叡の周囲へ集積。八門の砲塔。残った右腕、人差し指が、ぴんと鬼の頭部を狙っている。
比叡の顔は見えない。
笑っているのか? 笑っているんだろう。
笑っていてほしかった。
いや、それは結局、勝手なこっちの都合を押し付けているだけなのかもしれない。
映像はそこで途切れる。信号消失。最後の時間は、十四時五十四分。
比叡は、実に一時間半もの時間を、たった一人で持ちこたえたのだ。
あの深海棲艦の大群を相手に。
俺たちを逃がすために。
膝についた手に力が入る。あそこに俺がいたとして、何もできやしなかったろう。銃弾は効かない。爆撃も無意味。そもそも俺は海の上に立てやしない。だからこの歯がゆさは、きっと解消のしようがないものなのだ。
だから? だから座して見ていろと? 指を咥えて黙っていろと?
だが、結局、逃げたのが俺だった。あいつに任せたのが俺だった。
認証などせずに無理やりにでも引っ張って逃げるべきだったのか、それすらも曖昧だ。ただ、あいつの奮闘のおかげで、油の燃焼から大部分が逃げ出せたと言うのもまた事実。
- 617: 2018/04/17(火) 02:12:27.01 ID:fb5PHZgP0
- 結果はわからない、故に正しい過程を経ることこそが重要なのだ。そう知ったように嘯くやつがいたとしたら、俺は間違いなく殴っていただろう。なぜ? どうして? なんのために?
俺にその権利があると?
一体全体、何様のつもりなんだ、お前は。
スクリーンに投影されていた、比叡の今わの際の録画が、ボタン一つで停止させられる。プロジェクターが小さく部屋の中央で唸りを挙げていた。
俺はアームチェアに座っていた。スプリングのよく利いた、高級そうな代物だ。事実高級なのだろう。なんせここは大本営の参謀本部なのだから。
円卓を挟んで目の前におわすは、その主。海軍の幕僚長であらせられる、元帥閣下。
海防局の局長と、広報部の部長補佐、沿岸警備部深海棲艦対策室の室長もその隣に立っている。錚々たる面子に俺は息も満足にできない。
わからなかった。すぐさまに査問にかけられ処分が下ると思っていたが、俺に与えられたのは一週間の休暇、そしてこのお歴々の面々に会いに行けという指示だけだった。その通りにしている現在でも、現状の把握が十分とは言えない。
- 618: 2018/04/17(火) 02:14:01.64 ID:fb5PHZgP0
- とりあえずは今すぐに放逐されるという様子ではなさそうだ。寧ろ手厚い歓待さえ受けているようで、逆に恐ろしささえ感じる。
「これは」
室長がこちらを見た。眼鏡をかけた、神経質そうな男だった。
「きみの指示かい?」
「……これ、とは、なんでありましょうか」
思わず直立の姿勢をとろうとするも、局長が「座ったままで結構だ」。居心地の悪さを感じながらも腰を椅子へ戻す。
「素体名は船坂夏海。検体番号はKON-2-15。きみが知るところの戦艦比叡、彼女のことだ。
きみは彼女に、深海棲艦と戦うように指示を出したか?」
「……出していません」
改めて考えても、やはり答えはノーだった。深海棲艦の戦いに赴こうとしたのは、あいつ自身の意志だ。無論そこには俺の願いもあった。だが、仮に俺が止めたとて、乗組員の生存率を少しでも上げるためならば、敵陣に突っ込むことを厭わなかったに違いない。
俺の返答が意外だったのか、それとも予想と外れていたのか、お歴々の視線がそれぞれ交わされる。僅かなどよめきとともに。
- 619: 2018/04/17(火) 02:14:46.09 ID:fb5PHZgP0
- 「なら、なぜ彼女は?」
「そのために、艦娘になったから、と」
どこまで言っていいものか判断にあぐねた。彼女は言っていた。誰かに認めてほしかったと。活躍して、両親が戻ってくることを期待しているのだと。
俺は彼女の事情を知らない。事情を知らない人間が、まるであたかも真実であるかのように、他人のことを詳らかにするのは抵抗があった。
それともこの上層部は比叡の全てなど御見通しで、ただ確認のために俺へ問うているのかもしれなかった。だとするならば、俺がきちんと答えないことは、認識の齟齬を招く。
それは比叡に申し訳が立たない。
「みんなを助けて、艦娘として活躍して、……そうしたら、両親が迎えに来てくれると、そのようなことを」
「なるほど。どうですか、局長」
局長は白髪が特徴の男だった。温和そうな顔に、でっぷりとした腹を備えている。
問われ、小さく頷く室長。
「彼女は養護施設の出身でした。辻褄はあいます」
- 620: 2018/04/17(火) 02:15:13.68 ID:fb5PHZgP0
- 「補佐殿は」
「まぁ、どうにでもなりますよ。どうにでもね」
部長補佐はこの中では一番若いように思われた。明るい髪の色をしていて、スーツの着こなしもカジュアルに近い。
「きみは、KON-2-15に認証を行った。勝手に、だ。そのことがどれだけ重大な規律違反か、わかっているかな」
きた、と思った。本題だ。
「……はい」
さぁ、どんな処罰が下る? どんな処遇でも受けてやるつもりはあった。
孤独に海の底へ沈む以上の辛いことがあるか? そうだろう?
「なぜ、きみは、そんなことを?」
「……え?」
「重大な規律違反と知っていた、ときみは今言った。なるほど、となれば私たちは、当然こう考える。
即ち、『重大な規律違反と知ってなお、そうせざるを得ない状況があった』。違うかな」
- 621: 2018/04/17(火) 02:16:46.04 ID:fb5PHZgP0
- 「……?」
なんだ、これは。どういうことだ。
まさか、俺を慮ってくれていると、そういうことなのか?
「……はい。私は依然、比叡本人から、彼女に指揮できるのは樫山二佐のみであると聞いていました。そして深海棲艦の襲撃の最中、二佐が亡くなったことを受け……比叡への指揮権が消失し、そのため武器の使用ができない状況なのだと知りました」
「つまり、『深海棲艦打倒のために必要な、緊急事態的な措置であった』と?」
「そういう、ことに、なります」
「なるほど」
鷹揚に室長は頷く。そして三人を窺い、また頷いた。
- 622: 2018/04/17(火) 02:17:19.81 ID:fb5PHZgP0
-
「ならば、きみは英雄だ」
- 623: 2018/04/17(火) 02:17:54.02 ID:fb5PHZgP0
- 鳥肌が全身に浮いた。声のもとは局長でも、室長でも、補佐でもない。
これまで無言を貫いていた、この部屋の主人。革張りの豪奢な椅子に体を預け、徽章や飾緒を見せびらかすように、ある程度の角度をつけてこちらに向いている。
「英雄の誕生には、乾杯をせねばならないな。おい、ワインを。この間貰ったいいやつがあっただろう、それだ。それを持ってきなさい」
元帥が二度手を叩くと、部屋の外で待機していたのであろう、女従が二人、部屋へと入ってくる。一人は手にワインを持ち、もう一人はワイングラスを。
コルクが小気味よい音とともに抜かれた。少し離れた位置からでもわかる、頭がくらくらしてしまいそうなほどの芳醇な、妖艶な香り。
頭がくらくらしてしまそうなのは、ワインのせいだけではないかもしれなかったが。
- 624: 2018/04/17(火) 02:18:29.94 ID:fb5PHZgP0
- 「あの、これは……?」
「ワインは苦手だったかな? それとも、つまみが必要かな? だったらクラッカーなどを用意させよう」
「もっ、申し訳ありませんが、私はなぜ、ここに呼ばれたのかを、理解しておりません」
意識していても声が上ずる。目の前の元帥、この老人から、俺を圧倒する生気が放たれていた。
「あまり答えを急いで求める必要はない。きみは英雄だ。それにふさわしい振る舞いというものがある」
「お言葉ですが、私は英雄などでは……全ては比叡が」
俺はただ認証をしただけだ。願っただけだ。
「英雄はきみだ。きみなのだよ」
「ですが!」
「あまり声を荒げるな、老体に響く……。
きみは処罰を覚悟で、亡き二佐の遺志を継ぎ、規律違反を犯してまで艦娘を使役。その結果、百数名の死で、食い止めることができた。
無論、死んでしまった者たちには哀悼の意を捧げたい。だが、事実として最悪は避けられた。……何よりきみは、深海棲艦、その中でも不可能とされてきた鬼を、屠ったのだ。胸を張って凱旋するべきだ」
- 625: 2018/04/17(火) 02:19:15.17 ID:fb5PHZgP0
- 「え、あ……?」
声が出ない。違うと叫びたかったのに、それさえも俺から奪われてしまっている。
「違うかね?」
「違いませんねぇ」
代わりに答えたのは部長補佐。
「やはり艦娘は我々が指揮してなんぼでしょう。兵器は兵器として存在してくれなければ困ります。自我を持つのは結構ですが、それでは統率がとれませんし」
「あ、お、ま……」
愕然とするほかない。
俺はここでようやく、自らが嵌められたのだということに、気が付く。
深海棲艦が現れた。海が支配された。艦娘が登用され、配置される。俺たちの武装はまるで意味を為さない。護衛船に、さらに艦娘の護衛が付く。前線を支えるのは彼女たちだ。軍人は後方支援に回らざるを得ない。
俺たちは、そういうものだと思っていた。だってそうするしかないじゃないか。艦娘しか立ち向かえないなら、彼女たちが前線に立つべきで、俺たちは後方支援に徹するのが、最も効率的というものだ。
- 626: 2018/04/17(火) 02:20:09.95 ID:fb5PHZgP0
- 当たり前の話だ。ずっとそう思っていた。勿論抵抗がないわけではなかったが、そんな安っぽい矜持で人を護れるはずがない。
戦場を艦娘に渡したくない人間がいるなんて、範疇外。
「まさか、そんな、あんたらはっ!?」
「口を慎みなさい。元帥の御前です」
「これまで不可能だった、強敵の打倒が、ここにきて初めて成った。しかも一兵卒による、処罰を恐れない決死の行動によって。やはり小娘どもの自主性などに任せておいては、効率的な運用など夢のまた夢! 我々が采配を振るわねば!」
局長が狂ったように叫ぶ。室長も音こそならない拍手をしている。
「きみには勿論厚遇を用意してるからさ、まぁセミリタイアだと思って、ゆっくりしてよ。自伝でも出しちゃうかい?」
「俺は、俺はっ! そんなつもりで戦ったわけじゃない、あいつを行かせたわけじゃない、見殺しにしたわけじゃ、ないっ!」
- 627: 2018/04/17(火) 02:20:48.10 ID:fb5PHZgP0
- 「落ち着きたまえ」
「落ち着いてられるか!」
「落ち着きたまえよ、きみぃ」
元帥が立ち上がった。そのぶんだけ、俺の体に荷重がかかる。
「長い目で見れば、これこそが、最も手早く国を護ることに繋がるのだよ。きみのような若者にはまだわからないかもしれないがね、結果のために手段を選んでなどいられない場面など、世の中には多々ある。
そもそもあいつらが、艦娘などという兵器を勝手に作り上げ、結果のためには手段など選んでいられないと……先にこちらの面子を潰したのは向こうなのだ。神祇省のやつらなのだ。わかるだろう?」
「……俺が、もし、協力しないと言ったら?」
精一杯の虚勢を張ってみる。今すぐ撃ち殺される可能性は十分にある。
冷や汗が流れる。手のひらはべとべとだ。心臓の鼓動がいやにうるさい。
唇が引き攣る感覚があった。怒りはすでに通り越した。俺は何ということをしてしまったのだという自責が血を滲ませる。
- 628: 2018/04/17(火) 02:21:15.86 ID:fb5PHZgP0
- 元帥はふ、と笑った。俺を嘲っていることは一目瞭然だった。
「そこまで我々を敵対視しなくともよいだろう。部長補佐もいったように、セミリタイアだと思えばよい。ほとぼりが冷めたら、世間から離れて、ゆっくり外国で暮らすのはどうだ?」
一歩、元帥が近づいてくる。
「お兄さんも結婚を控えているのだろう? ご両親を心配させたくはないのではないか?」
どくん、どくん。早鐘が体の内側で鳴っている。
それは敗北を告げる音だった。俺は、死ぬのが自分であるのなら、どうにでもなった。それは比叡と指を合わせたときから覚悟していたことだったから。
だが、家族は。兄は。義姉となるひとには。
「英雄を喪うのはこちらとしても辛いのだ。……どうだ? わかってくれまいか」
巨大な権力を相手にしたのが、致命的な俺の過ちに違いなかった。
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